アンメリー・オデッセイ
ユーレカ書房
1、職人街の事件
からくり職人のウィリアム・ドルトン氏が変わり果てた姿で発見されたとき、エドワードは店のカウンターの内側で新しいからくりを設計していた。組合会館へ出かけてくると言って出たきり一向に帰ってこない親方が心配ではあったが、気を紛らわすために始めた設計にいつの間にか夢中になって、結局心配のあまり眠れなかったというのと同じくらいエドワードの目は腫れぼったかった。
朝の十時過ぎに店にやって来た警官たちは口振りこそ気の毒そうだったが、エドワードの赤い目を見るなり何か好ましからざるものを嗅ぎつけたという顔をした。
「あまり寝ていないのかい? 」
丸顔の新米らしい警官が何気ないふうを装って尋ねたが、今頃になってとてつもない眠気に襲われはじめたエドワードになら、露骨に疑うそぶりを見せたとしても気づかれることはなかっただろう。
「ええ……」
ともすると頭がうしろに倒れそうになるのを何とかまっすぐにしながら、エドワードは答えた。
「親方のことを待ってたら、徹夜しちゃって……」
少年のこの言葉に、新米と年かさ、ふたりの警官は目くばせを交わしあった。
「親方の、何を待っていたんだね? 」
「何って」
それがいかにふてぶてしく見えるかということにはまるっきり気づかず、エドワードはつい小さくあくびをしてしまった。彼は普段、そんな無作法をやるような少年ではないのだが、それはもちろん爽快に目が覚めていてこその話だ。今のエドワードは目の前の人間に返事をするのが精一杯で、なぜ自分たちの店に警官がふたりもいるのかを疑問に思う余裕はなかった。
「昨日から親方が帰って来ないんで、待っているんですよ」
「昨日のいつから? どこへ何をしに行ったんだね? 」
「夕方――職人組合の、会合に行くって……」
若い警官が、手帳に神経質な音をさせながらこれを書き取った。それを横目でちらりと見ながら、年かさの警官は言った。
「ドルトン氏の息の根が、確かに止まるのを待っていたんじゃないのかね? 」
これは警官たちにすればかなり決定的な宣告だったが、エドワードの反応は鈍かった。寝不足のぼんやりした頭で理解するには、あまりに現実味の乏しい話だったのだ――エドワードはのろのろと顔を上げ、大人たちを見た。
「うちの親方の……何ですって? 」
「息の根、だよ。エドワード・コーディ君」
エドワードはさっきまでとは違った理由でのろのろと、ふたりの警官に目をうろうろさせた。急に頭がはっきりしたような気がした……聞き間違いでなければ――そしてエドワードが間違って解釈していなければ、この警官たちはエドワードの親方が死んだと言っている。それも、どうやらその原因は、エドワードにあると思っているようだ。大人たちの青い制服の胸に光る銀製の見事な鷹を見たとき、エドワードはようやく自分が置かれた状況の危うさに気がついた。
「ウィリアム・ドルトン氏は今朝未明、五番通りの路地裏で発見された。争った痕跡はなく、胸に撃たれた跡があった。惨いありさまだったよ。荷物を荒らされた形跡はあったが、財布はなくなっちゃいなかった」
老警官は渋い声で淡々と言った。エドワードが聞きたいかそうでないかなど、はなから考えにないかのような口調と態度だった。
「君は、昨晩何をしていたのかね? 」
「ですから」
エドワードは一息に言い返そうとしたが、だめだった。眠気が跡形もなくなった代わりに、今度は溶けた鉛をいっぱいに流し込まれたような熱くて重たい塊を腹に感じて気分が悪くなっていた。
「このカウンターでからくりの設計をしながら親方を待ってました」
「設計図か何か、あるのかい」
思わずといったふうに、若い警官が言った。取り調べのためというより、単に彼の好奇心が発揮されたのだろうということが、後輩を見る老警官の目つきで知れた。
「こいつはすごい」
エドワードがカウンターいっぱいに広げた設計図をのぞいて老警官は唸ったが、彼は当然、新米ほど絆されやすくはなかった。老警官は続けて呟いた。
「これだけからくりを触れるんなら、銃だって扱えるだろうな」
老警官はエドワードの設計図の線に、ペン先のつけたわずかな凹凸が確かにあることを調べなければ気が済まないというように、節くれだった指で紙面をなでた。乾きの遅いインクが指に従って横向きにかすれて紙を汚すのを、エドワードは不愉快そうな顔をしないように苦労しながら黙って見ていた。職人なら誰もがそうであるように、エドワードも〈秩序〉を乱されるのが嫌いだった。
「この設計図を、ひとりで描いたのかね」
当たり前じゃないかと思ったことが、今度は顔に出たらしい。老警官は舌打ちでもしそうな苦々しい顔をして言った。
「言い方を変えようか。誰か、君が昨夜の七時半頃からドルトン氏が発見され、さらに今にいたるまで、ここで徹夜していたことを証明できる人はいるかね」
「……いいえ」
しかたなく、エドワードはそう答えた。ひとりで留守番していたことに証拠が必要だなんて!
警官たちは頭を寄せてすばやく二言三言囁き交わした。そして、若い警官がエドワードの方を向いた。
「それじゃあ、一度警察署まで来てもらえるかな? もう少し詳しく話を聞きたいだけだから」
若い警官は設計図を見て、エドワードが年齢の割に尊敬に値する技術の持ち主だと思ったらしく、目に見えて態度を和らげたが、先輩と違う意見を持っているわけではなかった。どうやら、彼らの中ではエドワードが殺人事件の最重要参考人ということになっているらしかった。
「なんで……」
エドワードはカウンターの内側で縮こまり、抵抗の意思を見せようとしたが、無駄だった。若い警官は木のカウンターを蝶番で持ち上げてやすやすと中へ入ると、少年の腕を掴みこそしなかったが、肩に手を置いて促した。
「さあ、行こう。親方も君を待ってるよ」
若い警官に他意はなさそうだったが、老警官は鼻を鳴らした。その音には、待っているなんて言ったって、相手はものも言わない死人じゃないかという皮肉げな響きがあった。エドワードはそれを、敏感に感じ取った。
「親方は本当に亡くなったんですか」
両脇を警官たちに挟まれ、エドワードは押されるようにして前へ進んだ。よろけ、身じろぎしながらやっとそう尋ねると、若い警官は眉を寄せて首を振った。
「残念だけどね」
「ただ亡くなったんじゃない」
老警官が歯噛みした。飢えた狼にそっくりな歯の剥きかただ。
「殺されたんだ」
小さな扉が開かれて、三人は店の外へ出た。よく手入れされた警察車両が一台停められている。扉についている鈴はいつものとおりにちりんと鳴っただけだったが、無言の三人の背を追ってくるその小さな音が、エドワードには教会の弔鐘と同じくらい厳かに聞こえた。
人のいいドルトン親方が殺されたという報せはあっという間に――エドワードのように家に引きこもっている人以外になら――伝わっていて、警官たちに連れられてきたエドワードの青ざめた顔を見て、近所の人たちは三者三様の反応を見せた。口元に手をやり、ひそひそ話す人。エドワードの目を見て、大丈夫だというように頷いて見せる人。目を逸らす人。好意的な人もそうでない人もそれぞれだったが、ドルトン親方の弟子は無実だと証明できそうな人は誰もいなかった。
しかし、肉屋のリジーばあさんだけは違っていた。
「エディ! 」
リジーさんは小柄な人だったが、ドルトンさんの店の向かいから突進してくる彼女のために、みんなが道を開けた。自分の店のお客を放って、肉切り包丁を手にやってくるリジーさんの迫力は凄まじかった。
リジーさんは警官たちを押しのけ、吊り気味の目に涙をいっぱい溜めてエドワードの手を取った。
「エディ、ああ、一体なんて日だろう! かわいそうに、辛かったねえ……」
「失礼、ご婦人」
老警官はいち早く立ち直ったが、警官のさがなのだろう、豚や牛や鶏の脂でぎらぎら光る巨大な刃物をじろじろ観察した。エドワードを連れていくのを邪魔され、押しのけられたということで、彼はリジーさんを、公務執行妨害をしでかす要注意人物とみなした。
「あなたは、この少年とどういったご関係で? 」
「この子がいる店の向かいの肉屋だよ」
リジーさんはぶっきらぼうに言った。もし機嫌がよかったなら、エドワードが毎日昼に特製のチキン・サンドイッチと牛乳をふたり分買いに来ることくらいは話したかもしれないが。
「おばあさんでも母親でもないさ。けど、近所に住んでる友達同士さね」
エドワードはリジーさんのこの言葉に感動した。老警官は胡散臭そうにリジーさんを見たが、若い警官はリジーさんに気圧されて手帳を出すことすら忘れているようだった。
「友だちね! 」
老警官は嫌味と同じ口振りで言った。
「それならもしや、彼が昨夜店にいたことを証明できますかな? 」
「何だって? 」
リジーさんが口をあんぐり開けた拍子に、銀歯がきらりと光った。若い警官はようやく自分の役目を思い出してあたふたと手帳を開いた。彼のペンがどんなに達者でも、リジーさんの雷のような叫びのありさままでは表現しきれなかっただろうが。
「あんたたち、この子を疑ってるのかい? この子がウィリアムを撃ち殺したと? 何てこったろう、ウィリアムが聞いたら大笑いするだろうよ! 」
「死人は口を利かない」
老警官はこのとき警官としての体面をかなぐり捨て、不愉快だとはっきり顔に出したために、強情で横柄な性格が目つきと口ぶりに現れた。
「この少年の扱いは我々が決める。ドルトン氏がそれを笑おうと泣こうと怒ろうとだ。言っておくが、これはこのポート・オブ・メイカーの警察に限ったことではないからな」
「そりゃあお偉いこったねえ! 」
リジーさんは嘲るように言った。
「なら、ウィリアムがエディの心配をしなくてもいいように、あたしもひとつ言わせてもらおうか。エディは昨日、外へは出ちゃいないよ。少なくとも、あたしが寝るまではね。十一時過ぎだったね」
「それは確かですか? 」
若い警官は丁寧に言ったが、リジーさんはそちらをぎろりと見た。
「確かかって? そりゃあ、店に座ってずっと、この子の店の方を見ていたんだからね。夕方の五時頃、ウィリアムに挨拶されたよ。これから組合の会合に出かけるから、七時頃スープを用意しておいてくれないかって。それっきり、姿を見ることはなかったけどね……」
「それがどうしてこの少年の行動の保障になるんだね? 」
「明かりが点いたからだよ。確か六時頃だ」
リジーさんはなんて察しの悪い連中だろうという目で警官たちを見た。
「ウィリアムがいないのに明かりが点いたってことは、エディが留守番してたってこったろ。窓越しに動いてるのが見えたしね。八時になってもウィリアムが来ないから、あたしゃスープを持ってこの子の店に行ったけど、この子はカウンターで設計図を描いてたよ。そのあとも、十一時までは確かにこの子はどこにも出かけてないはずさ。なんせ、エディの店から組合会館の方へ行くとなると、絶対にあたしの店の前を通らなけりゃならないんだからね……ウィリアムが言ったことを守らないなんてそうそうあるこっちゃない。あたしも心配だったんで、いつもより長く店を開けて、気をつけてこの子たちの店を見てたのさ」
「八時頃、この少年と会っているのかね」
「そうさ。ウィリアムもエディも、一度何かに熱中しちまうとそっちにかかりっきりになっちまうからね。あたしがお節介するのさ」
「ふむ……」
老警官は部下の書き取ったリジーさんの証言を改めて見たが、無視できない情報が含まれていることを認めたのか、エドワードがそろりとリジーさんのそばへ移動しても何も言わなかった。
リジーさんは追い打ちをかけた。
「この子を疑うよりまず、もっとしっかり調べたらどうなんだい。ウィリアムがいつからいつまで組合にいたのだとか、いつ頃撃たれたのかだとかさ」
「それはとうにやっている」
老警官は素人が捜査方針に口を出してきたことがおもしろくなく、いっそう気難しい顔をした。この人にも〈秩序〉があるのだ、とエドワードは思った。
「ドルトン氏はあなたが証言したとおり、五時過ぎにからくりと時計職人の会合に参加している。七時半頃に会合は終わり、親方たちは長く居残ることはなかった。氏の発見された路地は、氏の帰宅経路からして不自然な場所ではなかったから、まっすぐ帰宅する途中だったのだろう。帰宅後、またもう一度あそこへ呼び出されでもしていないならな」
老警官はこいつがそうしたのだとでも言いたげな目をエドワードに向けたが、リジーさんがそばにいてくれるということは、わけもなくエドワードを強くした。リジーさんは十五歳のエドワードよりずっと小柄だったが、今のエドワードにとっては最強の砦に等しかった。
「まっすぐ帰る途中だったっていうんなら、撃たれたのだってその辺りの時間だったと考えるのが筋ってもんだ」
とリジーさんは鼻息荒く言った。
「七時半に終わった会合に出ていたウィリアムが、会館からまっすぐ帰る途中にこの子に撃たれたっていうんなら、八時まで店にいて、あたしがスープを届けたのは一体誰だったというんだい? 六時から八時の間、この子が外へ出るところを見てないっていうのにさ! 」
リジーさんはさあどうだというように両手を広げた。派手な花柄のワンピースが、女王のマントのようにひらひらはためいた。
「どうだい、話はこういうこったろう。この子を疑う理由は、あんたたちにはないんじゃないのかい」
「ああ。我々も、むやみに年端もいかない少年を疑いたいわけではないからな。重要な証言を取らせていただいたことには感謝している」
老警官の言葉は本心には違いなかったが、彼はリジーさんのもの言いを快く思っていたわけではなかった。そのまなざしは、ひそかにこう言っていた――ひっこめ、うすのろがちょう。
だから、特別強調した嫌味を忘れなかった。
「あなたがこの〈友だち〉と築いた友情が、純粋な善良と隣人愛とでできていることを願うよ」
しかし、老警官が本当に頭を抱えたのはリジーさんの次の言葉だった。
「さて、それじゃあ、あたしも一緒に連れてってもらおうか」
「何だって? 」
「ウィリアムに会わせとくれ。エディと一緒にね」
「それは構わないが! 」
老警官は歯ぎしりする歯の奥から呪いを呟くように言った。不毛だ、と聞こえた。
「どのみち来るつもりだったのなら、何をごちゃごちゃと――」
「この子はさっきまで、あんたたちに疑われてたんだよ。自分の親方を誰かに殺されて、ただでさえ参っちまうようなときにそんな目に遭わされたこの子の気持ちが、あんたには分からないのかい? 」
若い警官は思わず頷いたが、幸いにも先輩には見られていなかった。リジーさんは店に肉切り包丁を置いてくると、悠々と言った。
「さあ、乗せていっておくれ」
「弟子は親方を殺さないと思っているなら大間違いだ。我々はそんな性善説を採用するわけにはいかない」
老警官はぶつぶつ言いながらみんなに背を向けたが、青い制服の品位を保つために、地面に唾を吐くようなことはしなかった。彼の長い警官人生の中で、これほど忌々しい思いをしたことはあまりなかったに違いない。
※
その晩は、リジーさんがエドワードを招待してくれた。リジーさんが無口でいることはめったにないのだが、この日はふたりとも言葉少なく、暖炉のスープが煮えるのをじっと待っていた。野菜と、細かく刻んだ肉、要するにリジーさんの店で出た肉の切れ端やくず肉なのだが、そういうもはや何の動物のどの部分だか分からなくなったような肉、それに大小さまざまの骨を一度に煮出すと、コンソメともブイヨンともつかないリジーさんのスープができあがる。
材料が材料だけに、店で商品として売られることはなかったが、エドワードも、そしてドルトンさんもこのスープをこよなく愛していた。義理堅いドルトンさんは決して「もらう」とは言わなかったが、一方で気前のいいリジーさんはただの一度も本当に売ったことはなかった。
「たくさんおあがり」
一緒に暮らす人のいないリジーさんはいつでもエドワードを実の孫のように可愛がり、エドワードもそれに応えるのだが、今日だけは勝手が違っていた。木のお椀にスープを一杯、それにパン一個の半分でエドワードが夕食を終えてしまったのでリジーさんは悲しんだ。けれども、それでさえ今のエドワードにはやっとの食事だった。最初の一口から最後の一口まで何の味もしなかった。誰かにそばにいてほしかったが、同じくらいひとりにもなりたかった。
だから、よかったら泊まっていかないかい、というリジーさんの申し出を断ってしまった。
「ひとりで大丈夫かい」
ひとりで、という言葉にエドワードは震えたが、口に出すことはなかった。
「大丈夫」
心にもないことだった。しかし、素直に怖いと言うことに心が逆らった。
「大丈夫だよ」
リジーさんは何も言わず、明日の朝スープを取りにおいでと言ってくれた。
「かわいそうに」
真っ暗な小さい店へ戻るエドワードの後ろ姿を見ながら、リジーさんは呟いた。警察署で再会したドルトン氏が、ほんのわずかでも人間らしい表情を浮かべてくれていたなら、こんなことにはならなかったのに。
白く味気ないベッドに寝かされたウィリアム・ドルトンの顔には、恐怖も不幸もなかった。
何もなかったのだ。
※
手探りで灯かりを点けるのは骨が折れた。慣れていなかった。今まで、こんなに暗くなってから自分で火を点けることはなかった。
自分で開いた店の扉の呼び鈴の音にもびくびくしながら、エドワードは何度も失敗したあとでようやくカウンターのランプを点けた。周りが明るくなると、椅子に腰かけてじっと何かを待った。ぼんやりしていると、自分でも何をしているのだか分からないうちに普段していることをしてしまうものだが、今のエドワードはまさにそんな状態だった。彼は何か物音がするたびに二階へ続く階段の方を振り向いたが、五回同じことをやってようやく、下に降りてくる人は誰もいないことと、これ以上起きている必要はないことに気がついた。彼は寝てしまうことにした。
二階へ上がり、自分に与えられた部屋へ入る前に、すぐ隣のドルトンさんの部屋を開けてみた。どうしても確かめたかった。
小さな店の中の部屋のひとつだから広さはなく、ものの取り分の多い少ないで序列を示すような親方ではなかったから、部屋の様子はエドワードの部屋と大して違いはない。からくりを設計するための大きな机と、衣装ダンス。窓際にはベッドがある。ベッドは空っぽで、〈何もない〉人は寝ていなかった。布団はドルトンさんが最後に起きた朝のまま少しふくらみ、端がめくれていたが、エドワードは直さなかった。もう店には誰もいないことを確かめたかったのに、人がいた痕跡を残しておけば朝にはまたふたりに戻っているのではないかという思いを捨てきれなかった。
「エド! 」
ある朝、黒い髪にぼさぼさの寝癖をつけたドルトンさんが、げらげら笑って朝食に現れたときのことが思い出された。
「見てみろ、この頭! 前衛芸術も真っ青だ! 」
音を立てずに廊下へ出て、ふたりの部屋のちょうど向かいに置いてある本棚を、初めて目にするものであるかのようにエドワードは眺めた。
この本棚の前で、ドルトンさんはよくエドワードと話をしたものだ。五段ある棚のうち、四段と半分はからくりや時計の技術に関するものだったが、ごくわずかな場所を詩集と、選り抜きの物語が占めていた。
「いいかい、これはどんな生き方をしている人間にも当てはまることだが」
ドルトンさんはお気に入りの詩集の空色の背をちょっと押しながらエドワードに言ったものだった。
「美しい仕事をしたいと思うなら、詩を読みなさい。豊かな生活をしたいと思うなら、物語を読みなさい。こういうものをないがしろに生きるものも大勢いるが、どんなにお金を稼いでいたとしても、彼らはあまり幸せとは言えないとわたしは思うね」
自分の部屋に入り、エドワードはベッドへ倒れこんだ。今日一日で何がどのくらい彼を傷つけたのか、具体的に思い出せないくらい混乱し、疲れていた。
かすれた声で、エドワードは呟いた。
「赤い木の実のナナカマド ルビーによく似た実をつけた。
青い目をしたフクロウが 同じ色したサファイア拾った。
銀の毛皮のアナグマが ぎんぎら銀貨を掘り当てりゃ、
金の尾をしたニシキヘビ きんきら金貨もざっくざく」
詩の好きなドルトンさんはよく詩に節をつけて歌っていて、特に気に入っていたのがこの〈ナナカマドの詩〉だった。ことあるごとに同じ旋律で歌うものだから、もともとはまったく違う歌につけられた曲なのに、いつのまにかドルトンさんの替え歌の方が耳に馴染んでしまっていた。
眠れるまで歌っていようと、エドワードは目を閉じてもう一度繰り返した。あの空色の詩集の中を探したら、同じ詩が見つかるだろうか? 今は思い出せても、文字で確かめておかなければ、いつか忘れてしまうかもしれない――。
いつか忘れてしまうかもしれない。そう思った途端ふいに恐怖に似た悲しみに襲われ、布団を頭からかぶってエドワードはひそかに泣いた。
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