第17話「夜の帳に」

 舞踏会の会場を飛び出て、人気のない廊下をひたすらに走った。外に出ると冷たい外気がわたくしを包む。吐いた息が白いもやになって夜のとばりへと消えてゆく。

 現実から目を背けるようにそんな様子を横目で見ながら、わたくしはすれ違いざまの、騎士の驚く顔を思い出していた。


 ……そうよね、舞踏会が始まって間もないのに逃げるように途中退出する令嬢なんていないわよね。みっともない、本当にみっともないわ……。


 逃げ出した足は少しずつ速度を失い、やがて立ち止まってしまう。月の光を反射している綺麗に磨かれた大理石の床に、ぽたりぽたりと滴が落ちた。一粒落ちると、それに続くようにして大粒の滴が床を濡らす。次第に滴は勢いを増し、俯き立ち止まるわたくしの体にも襲いかかってきた。



「……雨?」


 早く屋根のある場所へ移動しなくてはと、どこか遠くの方で思いながら。ドレスを濡らしてゆく雨をじっと眺めていた。



「逃げてばかりだな」


 いつの間にかわたくしの隣にいた悪魔が、つまらなさそうな口振りでそう言った。


「お前はいつも逃げ足だけは速い。どうして逃げ出した?後ろめたさでも感じたか」


 ……後ろめたさ?一体何に対して……。

 言葉の意味がわからず、わたくしは隣に立つグースの顔を見上げた。雨に濡れたわたくしの毛先からは雨粒が絶えず落ちてゆくのに、グースはどこも濡れていない。


 自分は間違ったことを一度もしていないと言っているかのように、この悪魔はいつも堂々としていた。


「お前のような傲慢な女が多少のことでなんて動じるはずがない。今更、ノアを殺すことが怖くなったか?」


 ノアを殺すことを迷ったことなんてなかった。学園へ入学してから今まで、あれほど忠告を聞かない無礼な平民は初めてだった。……だからこそ、わたくしの手で葬らなくてはと決意したのだから。

 ノアに関して迷いはない……けれど。


「ウェルター様が……、彼が望むことをわたくしが壊すのは、……正しいことなのかしら……」


 たかが平民に、何も知らない平民のノアにわたくしが劣るはずはない。なぜならわたくしは今まで、次期皇帝の妻に相応しくあろうと努めて生きてきたんですもの。


 でも、ウェルター様はそんなわたくしよりもノアといる時の方が、ずっと……。


 沈んでいく思考の中に、グースの低い声が裂くようにして入ってくる。



「お前、人の心が見えるのか?考えていることがわかるのか?」

「え……?」


「そもそも誰にとっての“正しさ“だ?まさかそんなくだらない思考混じりで俺のことを召喚したわけじゃないだろうな?」


 グースは腕を組み、嫌悪を表情に滲ませながら吐き捨てるように言葉を続ける。


「お前の望みはなんだ?お前の大切なものは?お前のやりたいことは?……俺とお前の契約に、他人を挟ませるな。反吐が出る」

「は……」


 鋭い瞳に射抜かれ、思わず言葉を失う。今まで他人から悪意を向けられたことは数え切れないほどあったけれど、身の毛がよだつほど凄みのある嫌悪を向けられるのは初めてだった。


「くだらない思考は今すぐ捨てろ、時間の無駄だ。お前はただ俺に願えばいい。心の底から叶えたいことを」


「わかったな?」と、有無を言わさぬ声色でそう言われ、わたくしはやっとの思いで控えめに頷いた。わたくしの返答で怒りがおさまったのか、すぐにいつもの余裕のある表情へと戻ったグースを横目に見てわたくしはそっと肩の力を抜いた。

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