土とミツバチ ⑨
マルグッドとノーン、日によってはマルグッドとプロイが、村の外へと歩いて出かけていった。ノーンかプロイの村に残ったほうは集会場の草葺き屋根──古いせいで土と化し始めている、とノーンが鼻の頭にしわを寄せて心底忌々しそうに教えてくれた──に登って日傘を広げることになっているらしい。
いつだって集会場にはかすかにミツバチの羽音が響いている。屋根にいるミツバチの囀りだ。歌うような羽音を聞きながら朝食を終えると、イェリコは二度寝を決め込む。一時間ほど眠ると、やけにすっきりとした目覚めになるのだ。
そのあとは床一面に散らばった組み掛けのドローンを片端から完成させていく。無心に、一心不乱にただ手を動かす。
ふ、と米の炊ける匂いが漂ってくるのが、午後三時の合図だった。
思い出したように空腹を感じて、イェリコは集会場を出る。床に座り込んでの作業ですっかり固まってしまった膝で、注意深く出入り口のはしごを下りる。
振り返って屋根にいるプロイだかノーンだかを呼ぶものの、仕事中の彼女たちの反応は芳しくない。
だからいつも、イェリコはひとりで山道を進む。粥の匂いを辿れば、その先には人々が集っている花畑があるのだ。花畑の傍では、大鍋がもうもうと湯気を上げている。遅い昼食だ。畑仕事をしていた人々が車座になって手づかみで粥を食べている。
村の人たちは気さくで、イェリコがふらりと出歩いているのを見かけるとすぐに手を振って大声で呼んでくれた。昼食を強請るまでもなく、丸太を半分にたたき割って中をくりぬいただけの大皿を手渡される。山のように粥を盛られたそれを抱えて、人々の輪の端に座る。すぐに誰かが隣に移ってきて、座り込む。そのせいで気がつけばイェリコは輪の中にいる。
理解できない言葉の洪水の中で粥を食べる。言葉が通じないとわかっているはずなのに誰もが勝手に話しかけてきて、オウム返しにするイェリコを盛大に笑い、また話しかけては勝手に納得して次の話題へ移っていく。イェリコがなにかを言っても、誰かがイェリコのまねをし、周囲が笑い転げる。
イェリコを嘲笑しているのではない。ただ楽しくて、笑っているのだ。それがよくわかる笑い声だった。
昼食を終えると人々は畑に、イェリコは集会場に戻る。午後の作業を始める前にポリタンクに水を汲みに行く。ときどき半裸の老人が水浴びをしていたりするが、やはり笑ってイェリコを迎えてくれる。場所を譲って水を汲ませてくれる。
村にはいつだって笑い声が響いている。花が咲き乱れる村にふさわしい明るさだ。風に揺らぐ大輪の花に似た人々の騒々しさは、鬱々と引きこもりがちになるイェリコにとっては空で爆ぜる花火のように眩くて、少し恐ろしくて、憧れだった。
そういう日々を二週間も送れば、イェリコたちが持ち込んだ段ボール箱は空になりつつあった。かわりに両の掌を広げたほどの大きさの、真っ白い蜘蛛のようなドローンが増えていくのだ。
三週間もすれば段ボール箱の中はすっかり片付いた。広い集会場の床に整然と並んだドローンは百機を超えるだろう。小さいとはいえ、壮観な眺めだった。
朝食を終えたイェリコは、ラ・タオの筒を手に家の前のはしごに腰をかける。誰よりも早く彼女にドローンを作り終えたことを報せたかったのだ。ひょっとすると一緒に畑仕事に出られるかもしれないと、伝えたかった。
ラ・タオは、いつもより少し重たい足取りで山道を下ってきた。きょろきょろと周囲を見回してなにかを探しているようだ。
イェリコははしごから飛び降りて彼女に駆け寄る。途端にラ・タオは足を止めた。
「おはよう。どうかした?」
竹の筒を差し出しながら訊けば、彼女は素早く手を伸ばし、けれど竹の筒ではなくイェリコの手首をつかんで引っ張った。そのまま踵を返して大股に山道を上がっていく。彼女の巻きスカートがバサバサと激しい音を立て、裾を彩る刺繍の赤が炎のように翻る。
引きずられるように足を進めながら、イェリコは集会場を振り返る。マルグッドとプロイ、そしてノーンの三人がイェリコを見送ってくれていた。
「すぐ戻るから」と叫んで、ラ・タオに導かれるまま山道を上がっていく。
村に一カ所しかない水場へ向かう道だった。とはいえ、村の人たちはもう畑に出ている。のんびり屋の青年や畑に出る気のない老人が家々の前で座り込んでいる他に人気はない。
「どうしたの? 畑に行かないの?」
ラ・タオの足がピタリと止まった。彼女が首を巡らせる先に視線をやれば、あれほど華やかだった花畑が茶色くなっていた。花が散り、種を収穫され、ただ枯れた茎と葉ばかりが倒れている。ずっと先、畑の端には大きな水牛をつれた子供がいた。水牛に牽かせた鍬で枯れた芥子ごと土を耕すのだろう。
つまり、もう竹の筒は用なしなのだ。
「次はなにを植えるの?」
ラ・タオは枯れ野と化した畑を見つめたまま何事かを答えた。知らない単語だったためにイェリコにはわからない。ラ・タオはいくつか言葉を続けたあと、あ、となにかに気づいた顔をして「モイック」と手づかみで粥を食べる仕草をした。
その仕草で、米を作るのだ、と理解する。思えばイェリコがこの村にきて三週間近く、食事はずっと、申し訳程度の野菜──その辺りに生えている雑草だったのかもしれない──が入った粥だった。村では米が潤沢に穫れるのだ。
「じゃあ」とイェリコはラ・タオに握られた手首の先、夜な夜な水を入れて呷っていた竹の筒へ視線を落とす。「もう、眠り薬は手に入らないんだね」
ラ・タオは無反応だった。言葉が通じなかったのだろう。「きみのおかげで」とイェリコは英語を並べていく。
「随分と体が楽になったんだ。ずっとうまく眠れてなくてさ。日焼けだってよくなったし、あの花はオレにとっては」
「夜」
イェリコの言葉を遮って、ラ・タオの硬い声がした。言葉が完全に通じないなりに、互いが話し終えるのを待つのが常だったために、遮られたのは初めてだった。イェリコは驚いて「え?」と声を漏らす。
「シャン人が……タイ人が来た」
「タイ人って、プロイ? ノーン?」
どっち? と指を二本立ててみたものの、ラ・タオはただ「タイ人」と繰り返すだけだ。プロイとノーンは似ていないものの、村全員が知り合いという狭い地域で暮らすラ・タオには見分けがつかないのかもしれない。
「マルグッドも一緒だった?」
ラ・タオは首を横に振り「ひとり」と指を一本だけ立てる。
「夜、寝ているとき、勝手に入ってきた」
「なんで?」
「……エリコが病気だって言って、薬を持って行った」
薬、とは芥子の実からそぎ落とした黒い粘液のことだろう。
「え、別にしんどくなかったけど……朝までよく寝たよ?」
どうしてそんな嘘をついたのだろう、首を捻る。なによりも、目覚めてからプロイともノーンとも顔を合わせているが、そんな話は聞いていない。体調を気遣われた記憶もない。ラ・タオが寝惚けて夢と現実を混同しているのかもしれない、とも思ったが、彼女は真剣な顔をしている。冗談として聞き流せる雰囲気ではなかった。
「薬、どれくらい借りて行ったの?」
ラ・タオは両手で球体を包む動作をした。ソフトボールの球より一回りほど大きい塊だ。イェリコが思い描いていたよりずっと大量だった。
イェリコひとりの体調のために持ち出す量ではない。
「もうすぐ人民軍が来るの」ラ・タオはぎゅっと両手でイェリコの手首を握りしめた。
「人民軍?」
「中国の軍人。いつも収穫が終ると薬の半分を取りに来る。税金なんだって」
イェリコは「ふうん」と曖昧に息を漏らす。水道も電気もない、山道を何時間も歩かなければ辿り着けない小さな村までわざわざあの薬を徴収しに来るなんて、なんて暇なんだろう、と考えかけて、いや違う、とはっとした。
マルグッドですら、わざわざこの村を訪れているのだ。ちょうど花の最盛期に村に来て三週間も滞在している。
その間にマルグッドがなにをしていたのかを、イェリコは知らない。ドローンの組み立て作業に集中していたせいだ。村の子供たちの手を借りてはいたが、特別助かったわけではない。子供たちが好奇心のままに散らかすために、作業効率はむしろ落ちていた。完成した百機以上の機体にしても、イェリコひとりならばもっと早く組み上がっていたはずだ。
──彼女たちは兵器だよ
断言したマルグッドの、平淡な声音を思い出す。
プロイとノーンは、兵器だ。彼女たちはチェンマイの大きな幹線道路に臆することもなくハンドルを握っていた。電気の灯ったコンビニエンスストアで軽食を買うこともできる。ほしいものを買うために自力でどこへでも行ける。薬局で薬を買うことなど造作もない。
そんな彼女たちがわざわざ、この貧しい村で民間療法に用いられているような薬を持ち出すということは、それだけこの薬が特別なのだ。
「渡せる税金が減っていたら、きっと、すごくひどいことをされる。エリコの分の薬はあげる。でも、全部はダメ。この村には、あれしかないの」
枯れ野と化した花畑の残骸を見る。一面に咲き誇っていた大きな花を思い出す。花弁の先がギザギザとした、八重の花だ。花が落ちたあとには拳より少し小さい実がついていた。
実に刻まれた傷から溢れ出ていた黒い粘液は──アヘンなのだ。
イェリコはそっとラ・タオから自分の手首を取り戻す。代りに竹の筒を彼女に握らせる。
「大丈夫、返してもらってくるよ」
ラ・タオは不安そうな顔のまま、首を横に振る。イェリコのシャツの裾を強く引く。離ればなれになることに不安を抱いているのだろう。
瞬間的に、イェリコは彼女の表情に自分を重ねる。置いて行かれることを恐れる、幼い子供──実際、ラ・タオはイェリコより歳下だろう──の顔だ。
イェリコは微笑を作って、膝をつく。彼女と視線の高さを合わせて、ゆっくりと「大丈夫」と繰り返す。
「薬を返してもらって」山道の先の集会場を指し、その指をラ・タオの眼前へと滑らせる。「ちゃんと戻ってくるよ。待ってて」
ラ・タオもまた、指を立てた。イェリコの指先にラ・タオの指先が触れる。イェリコより皮膚が分厚く硬い指先だ。ドローンを操縦するコントローラとドローンを構成する部品しか知らないイェリコとは違う、畑仕事と家事とに親しんだ強い手だった。
イェリコはそっと指を握りこむ。わずかばかりの恥ずかしさを誤魔化すために笑みを深める。
ラ・タオは大きく頷いた。そして吹き出す。指先を合わせて真面目な顔をつき合わせる滑稽さに気がついたのだろう。
イェリコもつられて声を上げて笑う。急速に朝の湿気りが乾いていく。喉がひりと痛んだ。
ふたりでひとしきり笑い合ってから、イェリコは「じゃあ」と踵を返す。
「あとで、ね」とラ・タオに手を振れば、彼女も手を振り返してくれる。
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