土とミツバチ ⑦


 ふたりして無言のまま広場に戻ると、大きな高床式の建物の前では、焚き火の傍に座り込んだサイ・サイがふたりを待ちかねていた。マルグッドからポリタンクを奪うように受け取ると、ひと抱えもある鉄鍋に水を注ぎ入れる。米を炊くようだ。

 そういえばタイは米食だった、と思い至ってから、この村はまだタイの国境の内にあるのだろうか、とも考える。

 さっと、空の低いところに黄金色の光が差した。

 ──夜明けだ。

 村に停滞していた湿度が急速に下がっていくのを、鼻先で感ずる。

 小学校に通わなくなってから、夜明けを見たことは何度もある。けれどそれは夜更かしが過ぎて、結果的に夜明けを迎えただけだ。きちんと夜に眠り朝日が出る前に目覚めたのは初めてだった。

 ぼんやりと空を仰ぐイェリコの隣に、いつの間にかマルグッドが立っていた。

「熱中症と脱水だったんだよ」とマルグッドが柔らかな抑揚で言う。「きみが倒れて、本当に驚いた。体調が悪ければ、ちゃんと言ってほしい。体調が悪いことを責めたりはしないよ」

「うん、ごめんなさい」

 素直な謝罪が口から滑り出た。一拍遅れてその事実に気がつき、驚いた。「ごめんなさい」と最後に言った日を、イェリコは思い出せない。あのドローンレースのあとも、警察に事情を聴かれている間も、母に泣かれているときだって、イェリコは謝らなかった。

 自分は悪くないと思っていたからだ。今も、思っている。

 それなのにマルグッドに対しては、なんの葛藤もなく謝罪の言葉が口をつく。

 彼の声音のせいかもしれない、とイェリコは思う。声に感情が滲むことはあっても、声が尖ることはない。決して声を荒らげることなく、歌うように滑らかに紡がれる言葉は胸の内にストンと入ってくるのだ。

「うん」とイェリコは日本語で呟いてみる。「ごめん、なさい」

 鼻の奥がツンと痛んだ。きっと湿度が下がるにつれて上がっていく気温のせいだ、と自分に言い聞かせる。仄かに米の甘い匂いが漂っていた。日本で迎えた最後の朝に、自分は母になにを言っただろう、とイェリコは考える。

 欠片だって、思い出せなかった。

 村から朝靄が消えるころ、ようやくノーンとプロイが戻ってきた。ふたりともが畳んだ日傘を提げている。

 サイ・サイが作ってくれたのは固めの粥だった。緑の葉野菜が入っているもののイェリコの舌では正体がわからない。小ぶりな唐辛子がまるごと出て来て驚かされた。

 イェリコとマルグッド、ノーンとプロイ、そしてサイ・サイと、どこから現れたのかもわからない老人や中年男性たち十数人とで建物の前に座り、半分に割った丸太の中身をくりぬいただけの大皿をそれぞれが抱えるように持つ。山のようによそわれた粥を、木べらでもそもそと口に運ぶ。ノーンは猫舌らしく、やけに長い間木べらで粥をこね回してから恐るおそるといった体で口に運んでいた。

 作ってくれたサイ・サイはといえば、木べらなど使わず大皿から手づかみで粥を口に運んでいる。見れば、村の人たちは当たり前の顔で指で粥をつまんで食べていた。

「熱くないの?」とイェリコは自分の指を開閉させて問う。

 もちろん通じない。サイ・サイはただイェリコの動作を真似て指を開閉させながら豪快に笑う。ノーンもプロイも、つられて笑う。マルグッドを包む雰囲気も和らぐ。

 花畑の似合う村だ、と思う。言葉が通じなくとも、見た目が村人と違っても、それを陰湿に嗤う人は誰も居ない。

 この村に長く居られればいいのに。イェリコは粥を頬張りながら、そう望む。


 不思議なもので、馴染みのない言語の中で暮らしていると、二日もすれば通じないわりになんとなくなにを言われているのかがわかるようになってくるのだ。

 一日目、イェリコたちが寝起きする大きな高床式の建物──村の集会場なのだと、マルグッドが教えてくれた──の前には太陽光パネルが取り付けられた。掌大の小さなパネルを畳二畳分ほど並べたものだ。

 太陽光パネルから延びたケーブルは、けれど集会場の電灯としてではなく、無数の小さな充電式ランプにつながれた。

 村の人々に貸し出すための、充電式ランプだ。そもこの村には電気が通っていない。夜は薪の灯りと、村長や一部の家に置かれた石油ランプが頼りとなる。

 それをマルグッドが変えたのだ。

 この村に到着した日、イェリコがラ・タオと花畑で黒い液体を集めていた間に、マルグッドが村長に提案したのだという。

「日中、我々の作業を手伝ってくれた人は、充電式ランプをひとつだけ持って帰れる」

 村長や村の男たちはマルグッドの提案の意味を理解していない様子だった。

 充電式のランプは二日ほど点灯するものだ。そしてこの村に充電できる場所は、マルグッドが太陽光パネルを設置した集会場前の広場だけだ。

集会場で一度作業を手伝えば、二晩は夜が明るくなる。

 けれどマルグッドは、夜が明るくなる意味を積極的には説明しなかった。ただ「作業を手伝えばランプを貸し出す」という話を村の全員に伝えてほしい、とだけ要求したそうだ。

 そして二日目、イェリコにはドローンの組み立てという仕事が与えられた。

 マルグッドと運んでいた段ボールの中身は掌大の太陽光パネル充電式ランプ、そしてドローンを組み立てるのに必要な部品と工具一式だったのだ。

 麻薬地帯を監視するために飛ぶ十字型のドローンではなく、イェリコにとっては馴染み深い、蜘蛛のように広がったアームの先にプロペラを備えたタイプだった。

 イェリコが畑に出ないことを知ったラ・タオはひどく残念そうな顔をした。「また一緒に花畑に行けるよね?」と何度も確認してきた。

 そのたびにイェリコは「ごめんね」と詫びる。詫びながら、内心では安堵してもいた。炎天下の花畑で負った日焼けが真っ赤に腫れて、夜でも熱が引かないのだ。

「おかげで眠れなくて……」

 夕方、花畑から戻ってきたラ・タオに、イェリコは身振り手振りを交えてそんな愚痴をこぼす。膝の上には組み立て途中のドローンを置いたままだった。

「ノーンやプロイだって一日中日傘の下にいるわけじゃないのに焼けないよね」

 イェリコは頬や鼻の先を爪の先で軽くひっかく。薄皮が剥ける感触がした。

 そんなイェリコをクスクス笑うと、ラ・タオは腰に提げた筒を外した。花の実からあふれた黒い粘液を入れていた筒だ。集会場に顔を出す前に収穫した粘液はどこかに提出しているらしく、中は空っぽだ。それでも底や縁にはまだ黒い残滓がへばりついていた。

 ラ・タオは自分の指先にブッとつばを吹きかけると、筒を指で拭う。やがて筒から出て来た彼女の指は薄茶色く染まっていた。

 躊躇なくラ・タオの指先がイェリコの鼻先に触れた。薄皮の剥がれた鼻の頭から頬、真っ赤になり熱を持つ日焼け跡へとつばと花の粘液が混ざったものが塗られていく。

 驚いたものの、水道ひとつないこの村では当たり前の民間療法なのだろう。イェリコは大人しくラ・タオの指に身を任せる。

 花畑で収穫していたときは鼻をついた黒い液体の臭いも、ラ・タオの唾液で薄まれば妙に甘く柔らかい、香水めいた香りを放っていた。

 そういえば母が好んだ香水もそうだった、とイェリコは瞼を閉じて思い出す。母はよくムスクを使っていた。清涼感のある甘い匂いは、元はジャコウと呼ばれるひどく臭い黒い香料なのだと、母が教えてくれたことがあった。まだイェリコが近所の女の子と手をつないで幼稚園に通っていたころだ。いつもいい匂いのする母はイェリコの自慢だった。

 きちっ、と手の中で硬いものが軋んだ。組み立てている途中のドローンだ。知らず、プラスチックの華奢なアームを強く握りしめていたらしい。

 母のことを──自分を置き去りにした母を思い出したことで、体がこわばったのだ。

 はっと息をついたとき、異臭を捉えた。雨で腐った土とペンキと混ぜたような臭いだ。

 眼前にラ・タオの顔と、竹の筒があった。黒い粘液が筒の内側にこびりついている。

 ラ・タオは身振りと手振りで、筒に水を入れて飲むように伝えてくる。くるくると筒を回す動作が入ったので、こびりついた粘液を溶かして飲むように、ということだろう。

「よく眠れるよ」たぶんそういう意味合いのことを言われた。

 顔に塗るならばまだしも、口に含むことには抵抗を覚えた。

 この村には衛生観念というものが乏しいのだ。水が貴重だからということもあるだろうが、まず手を洗う習慣がない。土にまみれ、べたつく花の汁を集めていながら、べっとつばを吹きかけた手を擦り合わせて汚れを落とすのがせいぜいだ。

 当然、粘液を集めている竹の筒も洗われたことなどないだろう。そんな筒にこびりついていた腐臭のする粘液を水で溶いて飲み込むというのは、勇気と覚悟が必要だった。

 そんなイェリコの不安顔をどう思ったのか、ラ・タオは自ら立ち上がり、部屋の隅に置いてあるポリタンクから筒へと水を注いだ。そそくさとイェリコの隣に戻ってくると自ら竹の筒に唇を当ててから「あ」とイェリコに差し出した。毒味をしてくれたのだろう。

「あ」とさらに筒を突きつけられ、断り切れず受け取ってしまう。覗き込んだ筒の中は、いやに立体的だった。花の粘液や筒自体に刻まれた傷のささくれなどがふやけている。

「……寝る前に、飲むよ」イェリコは曖昧に笑って、筒を傍らに置く。「手当してくれて、ありがとう」と腫れの引かない熟れた頬を示す。「あの花、マルグッドは芥子だって言ってたけど、麻薬じゃなくて薬なんだね」

 使い方次第だ、とイェリコは膝に置いたままのドローンを見る。小さなドローンにカメラを載せて写真を撮る人もいれば、爆弾を載せて人殺しを企む者もいる。麻薬地帯を監視したかと思えば、ノーンやプロイの干渉ひとつでなにも映さない役立たずと化す。

「ラ・タオはどうして芥子の汁を集めているの?」

 彼女からの返事は、首を傾げる動作だった。複雑な言葉は通じないのだ。

 イェリコは緩く首を振る。「ううん」と視線をドローンに落とす。「なんでもない」とラ・タオではなく、自分自身に言い聞かせる。

 芥子畑の広大さを考えれば、この村全体が伝統的に芥子を作物として扱っているのだ。

 イェリコより年下と思しきラ・タオに「どうして」と尋ねることは無意味だ。

 あのドローンテロの件でもイェリコは何人もの刑事たちから散々「どうしてこんなことを?」と問われた。

「どうして?」に対する答えを、イェリコは持たない。ただドローンレースに参加していただけなのだ。ドローンに爆弾が仕掛けられているなど想像すらしていなかった。あのドローンに搭載された悪意は、イェリコにはかかわりのないことだった。

 ラ・タオは、あの花から収穫された粘液に悪意を乗せていない。純粋に、イェリコの苦痛を和らげる薬として使ってくれる。

 だから、「どうして」に答えはない。問うこと自体が無意味だ。イェリコはそう考える。



 その夜、サイ・サイが作ってくれたお粥を食べ終えたイェリコは意を決して、ラ・タオが残してくれた筒の中身を呷った。砂混じりのざらりとした舌触りがした。わずかな苦みがあったが、花の粘液のせいなのか竹の筒にこびりついた汚れのせいなのかはわからない。

 ざらつく口をモゴモゴとさせている内に、ストンと眠気が来た。いや、眠気よりも先に、夢が来た。

 薄ら青い霧の中を飛ぶ夢だ。細いあぜ道に鼻先を擦りそうなほどの低空を飛んでいた。左右に広がるのは禿げた田畑ばかりで、ああ、奈良の、自分の家の周囲か、と思い至った。

 誰もいない、早朝の故郷だ。

 何度か同じ光景を飛んだことがあった。操縦するドローンのカメラが捉える朝霧を、VRゴーグル越しに見ていた。

 爽やかな香りがした。VRゴーグル越しには感じられなかったものだ。朝に湿気る草花の艶、粥を煮る甘い焚き火、気がつけば田畑には一面に花が咲き乱れている。

 んー、とミツバチの羽音が響いていた。イェリコが操るドローンの──いや、今やイェリコ自身がドローンだ──羽音かもしれない。

 手足の軽さを自覚する。背に半透明なミツバチの翅が振動するのを感ずる。イェリコは夢の中でドローンとなり、あるいはミツバチとなり、自由に花から花へと飛び回る。

 ──ふっと雨に緩んだ土の、腐臭がした。


 翌朝は、ひどく体が軽かった。夢の通り、背に翅があればどこまでも飛んでいけそうだ。

 竹の筒を取りに来たラ・タオにお礼を伝えて「とても調子がいいんだ」と報告すれば、彼女は誇らしそうに頷いた。

 たぶん「これが村の特産品だ」という意味合いのことを言って、畑仕事へと出かけていった。そうして夕方、また空っぽの竹の筒をイェリコに渡してくれるのだ。

 イェリコは毎晩、ラ・タオの残した竹の筒に水を入れて飲み干した。

 決まってミツバチになる夢を見た。イェリコの翅は空を切り、妙に甲走った高音を立てながらゆっくりと、まるでぬるま湯の中を流れるように飛ぶ。

 なにもない更地めいた畑の上を彷徨い飛び、点在する日本家屋の瓦屋根を掠め飛び、最後には一面の花畑へと辿り着く。

 満開の花のひとつに入り込み、腐りかけた土の臭いが満ちる花弁の中で夢のない眠りに落ちる。

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