4

    土とミツバチ ③

〈4〉


 いつの間にか眠っていたようだ。

 気がつけばイェリコはピックアップトラックの狭い荷台に仰向けに寝転んでいた。あれほど開けていたはずの空は、今や枝葉に遮られ細切れになっている。

 監視ドローンの甲走った飛行音も、虫の羽音を思わせるノーンの鼻歌も聞こえない。

 寝袋越しにも、道路の振動が後頭部を直接叩いてくる。

 イェリコは首筋に滲んだ汗を拭いながら体を起こす。鼻先を木の枝が掠めていった。

 道は片側一車線になり、高い木々が道の際まで迫っている。建物も見当たらなかった。鳥の声に混じって水音が聞こえるので近くに川でも流れているのだろう。

 首を捻ってピックアップトラックの車内を覗き込むと、いつの間にか助手席にマルグッドが収まっていた。ハンドルを握っているのは雇いの運転手の男性で、後部座席にはノーンとプロイとが仲良く肩を並べて座っている。

 イェリコだけが荷台に取り残されていた。

 ピックアップトラックの速度が落ちる。首を伸ばして道の先を見れば、迷彩柄の戦闘服姿の兵士がふたり、立っていた。

 思わず身を縮める。荷台の縁に身を隠すように尻をずり下げて仰向けに横たわる。マルグッドは、麻薬地帯が近いと言っていたのだ。あの兵士たちがまっとうな軍人などではなく麻薬組織の兵士だとも限らない。

 そんな危惧を嘲笑うように、ピックアップトラックは兵士たちの前で停止した。

 ばくん、と助手席の扉が開く音がして、マルグッドの声が聞こえてきた。なにを話しているのかはわからない。イェリコの知らない言葉だった。

 やがて後部座席の扉も開く。慌ただしく人々が動く気配がして、荷台の縁から誰かの腕が伸びてきた。

「イェリコ、起きて」と訛のあるノーンの英語とともに体を揺すられる。

「目的地? それとも中継地点?」

「中継地点だよ」と無慈悲な言葉が返ってきた。「車はここまで。ほら、荷物持って」

 えぇ、と不満の声を漏らしながら荷台を降りる。ずっと座っていたせいで膝が笑っていた。地面を捉える脚の感覚がおかしくて軽くその場で跳んでみる。大きく腕を回すと体中の関節がぺきぺきと音を立てた。

 イェリコが体のこわばりを解している間に、戦闘服姿の兵士たちがピックアップトラックの荷台や後部座席から段ボール箱を運び出していた。なにが珍しいのか、段ボール箱に鼻を近づけて匂いを嗅いだり側面を指先で押し込んだりしている。

 彼らの奇行を眺めていると、荷台に上っていたプロイから湿気てくたくたになったセーターを投げ寄越された。顔の前で受け止めたそれをたたみもせずにリュックサックに押し込んでいる横から、白いビニル袋を握ったノーンの腕が伸びてきた。「一緒に入れて」とビニル袋が突っ込まれる。下敷きになったセーターの沈み方で、ひどく重たいことがわかった。

「え、これなに? 危ないもの?」

「工具」

「工具って……」

 なに? と続けるイェリコを遮るように、「これも」と今度はプロイが幾何学模様の刺繍が施された布ポーチを入れてくる。こちらは彼女の私物だろう。他にも得体の知れない小さな箱や金属ネジの入ったビニル袋がイェリコのリュックサックに納められた。

 困惑しつつ周囲を見れば、兵士たちは背負子に段ボール箱を三つも積み上げて縛っている。迷彩柄の戦闘服を着ているくせに、彼らは銃を帯びていない。ひょっとすると麻薬組織の兵士や軍人などではなく、兵士の格好をした荷物持ちなのかもしれない。

 マルグッドも自分のスポーツバッグだけでなく二つ重ねた段ボールを抱えていた。

「オレは?」とイェリコは重たいリュックを背負ってから、手伝いを申し出る。

「きみはそれ」とマルグッドが顎で示した段ボール箱を持ち上げてみると、拍子抜けするほど軽かった。

「他は?」

「それだけだよ」

 イェリコの背は兵士たちより目線ひとつ分高い。それなのに任されるのは軽い箱ひとつきりなのだ。子供扱いされている、とイェリコは口を尖らせる。

「ここからは歩きだよ。滑りやすいから、足元に気をつけて」

 マルグッドの声で、まずは兵士が舗装された道路から砂利道へと入っていく。背負子に積まれた段ボール箱の高さが兵士の頭を越えているため、彼らが歩くと木々が段ボール箱に当たり細かい水滴が降ってきた。

 兵士のあとにマルグッドとイェリコが続き、最後に日傘を広げたノーンと畳んだ日傘を手にしたプロイが道路を外れた。彼女たちは、日傘の他にはなにも持っていない。

 エンジン音に振り返ると、ピックアップトラックがUターンをして去って行くところだった。雇いの運転手はここまでらしい。

 ろくに挨拶もしなかったな、と思ったものの、翻訳アプリを頼れないイェリコにとって、この国の言語は未知の領域だ。英語が通じるノーンとプロイはともかく現地で雇った運転手とは、たとえ機会があったとしてもろくに話せなかっただろう。

 むーん、と虫の羽音がした。振り返れば、開いた日傘を肩に置いたノーンが虚空を見ていた。おそらく彼女の鼻歌だろう。

 そんなノーンの手を、プロイが引いている。ひとりでは歩けない幼子を導くようだ。イェリコの不思議そうな眼差しに気がついたプロイは小さくはにかむと、体を乗り出すようにしてイェリコとの距離を詰めた。

「この子の」プロイは、手を引かれるまま空を仰いで歩くノーンを振り返る。「ノーンって名前はね、タイ語で妹って意味なの」

「妹に、妹って名付けるの?」

「イェリコの国だって、年上の兄姉きょうだいを兄とか姉って呼ぶでしょう? ええっと……オニーチャン? オネーチャン?」

「それは名前じゃないよ」

「そうなの?」驚いたように声を高めたプロイは、すぐにクスリと笑った。「でも、いいの。わたしの本当の妹はノーンじゃないけど、ノーンのことは妹みたいに思っているから」

「仲いいの?」

 うん、とプロイは恥ずかしそうに、それでもしっかりと頷いた。

 いいな、とイェリコは俯く。自分は母親に、空港に置き去りにされたのだ。一人っ子で兄弟はいなかった分、イェリコにはあの家に集う家族だけが全てだったのだ。

「いいな」とイェリコは再び、声もなく呟く。「羨ましい……」

 ノーンの鼻歌が断続的に、花から花へと飛び移るミツバチたちの羽音そのもののリズムで着いてくる。どこまでもイェリコの背後にぴたりと寄り添う。

 ミツバチの鼻歌に耳を傾けているうちに、砂利道は粘土質の土砂と落ち葉が踏み固められた獣道になった。急な勾配が来たと思えば、平坦な道があり、また坂を登る。

 先頭の兵士たちは陽気で、マルグッドを振り返っては談笑を絶やさない。時折イェリコにも水を向けてくれるが、言葉がわからないうえに、息が切れてそれどころではない。

 森、というよりも山に入ったところで、暑さが和らがないのだ。湿度は低いものの、気温は日本の真夏に近いように感ずる。汗が止まらない。

 一時間ほど歩いて休憩を取り、また歩くことを繰り返す。マルグッドは足を止めるたびに、水分を摂るように、と勧めてくれた。

 ノーンとプロイは、休憩ごとに日傘を広げる役目を交代していた。そして決まって、傘を畳んだほうは、傘をさしているほうの手を引いて歩くのだ。

 日傘を広げて羽音を囀っている間の彼女たちは、常に虚空へ視線を泳がせていた。足元もろくに見ず山道を歩いているのだ。手を引かれているとはいえ、正気の沙汰ではない。

 そんなに羽音の囀りが重要なのだろうか、とイェリコも空を仰ぐ。木々に遮られた青空の破片が散らばっている。耳を澄ましてもノーンの囀りしか聞こえない。ドローンは飛んでいない。それを確認した途端に、木の根に蹴躓く。

 ブーン、と重低音がした。ノーンの囀りとは明らかに違う、重たい羽音だ。ぎょっと視線を巡らせれば、ちょうど鼻先を黒い塊がすり抜けていくところだった。

 黒く丸い体と低い羽音を持つ、正真正銘のマルハナバチだ。ほんのりと襟巻き状に黄色い花粉を帯びている。

 なんとはなしにその行方を追った先に、花畑が広がっていた。山の窪地一面に花が揺れている。白、橙、紫。八重の花弁で太った花だった。

 先頭を歩く兵士たちが花畑を指してなにかを叫ぶ。応えるように、花畑に埋もれていた人影が手を振り返す。

「もうすぐだよ」マルグッドが顔だけで振り返って言う。つまり目的地に近いのだ。「中国側から入れたら、もう少し楽ができたんだけど……」

「ダメなんですか?」

「あの国は我々を嫌っているんだよ」

「我々って、ミツバチを、ですか?」

「ヒエムスだよ」

 マルグッドが所属する組織の名だ。三つ連なった正六角形のマークを思い出す。

「ヒエムスって、どういう意味なんですか?」

「冬、だよ。ラテン語で、冬。冬にはミツバチが飛ばないだろう? 我々は、戦場のミツバチが飛ばずにすむ世界を目指しているんだ」

「平和を目指しているのに、嫌われているんですか?」

「うん」マルグッドは妙に幼い仕草で頷いた。「彼の国はミツバチを独自運用したがっているんだ。西洋から押しつけられる平和は真の平和ではない、と主張していてね」

 イェリコには、平和の話はよくわからない。自分が参加していたドローンレースでテロが起きたこと自体が、まだ実感できないのだ。

 イェリコにとってあのレースは、画面がフリーズしたまま終っている。だから、なぜ自分が母に捨てられたのか、それほどの罪を犯したと思われているのかも、わからない。

 わからないまま、こんな山奥まで来てしまった、とイェリコは眼下に広がる花畑に視線を落とす。

 ミツバチが飛ばない冬には、これほどの花は咲かないのだ。

「冬の花畑は、さみしそう……」

意外そうにマルグッドが振り返る。プロイまでもが「え?」と頓狂な声を上げてイェリコを見る。

 なにかまずいことを言っただろうか、とイェリコは焦る。マルグッドやプロイが望む答えはなんだったのか、と必死に頭を巡らせる。

 けれど適切な答えを思いつくより先に、マルグッドが息をついた。失笑したようにも聞こえる音だった。

「なるほど。確かに花の咲かない季節はさみしいかもしれないね。花から花へとミツバチが花粉を運んでくれるからこそ、植物は実を結ぶんだ……忘れていたよ」

 忘れていた、とマルグッドは独り言の抑揚で繰り返す。彼は数秒、花のうねりに呑まれたようにその場に立ち尽くす。

 そんなマルグッドの背後では、ノーンが囀るミツバチの羽音が小刻みに続いていた。

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