【単行本】芥子はミツバチを抱き【試し読み】

藍内 友紀

序 血のカパル・チャルシュ

    血のカパル・チャルシュ ①

〈〇〉


 よく晴れた木曜日の午後だった。

 トルコ共和国イスタンブール県は晴れ渡り、一月の乾いた寒さが人々の鼻の頭を赤く染めている。

 バヤズィト・モスクの白い天井ドームが日差しを受けて薄水色に輝いていた。オスマン帝国時代の皇帝スルタンバヤズィト二世が個人的に建てた美しいモスクだ。建てられた当時の姿のまま現存しているそこは、歴史的な建物が多い旧市街の中でも最も古いモスクだった。

 モスク前の駐車場には大きな観光バスが何台も駐まっている。モスクを見学する信者だけでなく、すぐ東にあるグランド・バザール目当ての観光客も多いのだ。

 石作りの二階建ての店舗がひしめき合い、細い路地が入り組んでいる。路地いっぱいに張られた砂色の布地が庇となって空を隠していた。食事パンエキメッキや香草、色毎にモザイク画のように並べられた香辛料といった現地の食卓に欠かせないものから、観光客に人気のトルコランプや色鮮やかなイズニック陶器を商う店まで、おおよそ全ての物がこのバザールでそろうといわれている。

 普段は人の喧噪ばかりがある旧市街に、今日は不似合いな音が響いていた。甲高いモータ音だ。

 陽光を遮る庇の下で人々は一斉に顔を上げ、天を仰ぐ。

 刹那、甲高いモータ音を轟かせながら巨大な蜘蛛が飛び抜けた。目も開けていられないほどの風圧を残して、蜘蛛たちは旧市街の路地へと消えていく。

 ──小型無人航空機ドローンだ。

 常ならば貴重な建物への影響を懸念して、一切のドローンは旧市街への侵入を禁止されている。入り組んだ迷路のような旧市街とグラン・バザールを飛べるのは翅のある虫だけだ。

 けれど今日ばかりは、人々の頭上は五機のドローンのものだった。最高時速は一四〇Kmにも達する直径一メートルのドローンが抜きつ抜かれつ旧市街を抜け、観光名所を巡り、ガラタ橋を渡った先にある古い監獄──ガラタ塔のゴールを目指すのだ。

 二年に一度、トルコとギリシャとが共同で主催する国際ドローンレースが開催されているのだ。二日間にわたって開催されるレースの初日が、今日だった。

 各国の予選を勝ち抜いたドローン操縦者が、リモートコントロールによりドローンを操作し、歴史的な街並みを駆け抜ける。そのさまはワールドワイドウェブによって全世界に中継されている。視聴者は五機のドローンの白熱した争いを楽しむことも、高速で飛ぶドローンに搭載されたカメラ越しにまるで自らが操縦しているような臨場感を味わうこともできるのだ。

 北の黒海と南のマルマラ海から吹き付ける海風に揉まれるドローンたちは、それでも速度を落とすことなく旧市街を翔け抜ける。

 ドローンの威嚇的なモータ音と風圧を肌で感じたい観戦客たちはこぞって旧市街へ出向き、首の痛みに耐えながら頭上を仰いでいる。

 アジアとヨーロッパをつなぐように横たわるトルコ共和国らしく、観戦客の見てくれはさまざまだった。金髪を風に遊ばせた白人、黒髪をスカーフで覆った東洋人、防寒着で着膨れた黒人。ふらりと立ち寄った風体の現地住民の姿もあった。

 いつもとは違った賑わいをみせる旧市街の中心部、グラン・バザールの入り口には白いレンガ造り建物が口を開けていた。

 ──カパル・チャルシュ屋内市場だ。

 どこか城壁を思わせる。入り口の上には『KAPALICARSI 1461』という文字と、翼のように左右に広げられた赤と緑の旗を聖戦のための武器や花や聖典が囲んだ紋章とが掲げられている。オスマン帝国の国章だ。数字が示すとおり1461年に完成し、以降増築を繰り返し巨大な屋内市場と化していた。

 どこまでも続く通路の天井はアーチ型で、所々には花や蔦を模した美しい文様が描かれている。タイルで縁取られた明かり取りの窓から差し込む日差しと、つられたランプとで屋内はぼうと淡い朱色に色づいていた。

 通路の左右にはランプや絨毯、トルコ石を施した貴金属や純銀製品、革製品などを扱う店が無数に連なっている。通路は枝分かれしカーブを描き、さながら迷路のようだ。分かれ道に設置された給水場だけが、現在位置を把握するための目印だった。細い通路いっぱいに、大きな荷物を背負ったバックパッカーや軽装の観光客、民族衣装をまとった現地住民などがあふれている。

 そんなカパル・チャルシュの壁の上に、はいた。

 ほんの八十cmほどの幅の石壁の上からグラン・バザールを見下ろして、日傘をさした少年が踊っている。三拍子のワルツだ。ステップを踏むたびにオリーブ色の丈の長いシャツガラビーヤの裾がひらめき、日傘の内張が鈍色に瞬く。大きく傾いた日傘は、彼ではなくカパル・チャルシュの屋根に影を落としている。日傘が西へ、北へ、東へと傾いていく。東からの風は海の香りがした。

「んーん」と彼の鼻歌がワルツを彩っていた。

 傾いた日傘で反響した彼の鼻歌は増幅され、イスタンブールを飛ぶドローンたちへと到達する。旧市街への侵入を禁止された荷物運搬用のドローンたちの、自動飛行プログラムへと侵入する。ドローンに内蔵されたコンピュータを走る電流や甲高いモータ音、空を切るプロペラ音と混ざり合い、彼の鼻歌は不協和音を奏でる。

 彼は自らが発する鼻歌とドローンの内部で生ずる微細な電気信号との共鳴を日傘の内張へと収束させ、その音に潜む微細な振動を脳内でデータへと変換し、ドローンがどこから来たのか、なにを搭載しているのか、どこへ向かっているのか、その総重量から航続距離、これまでの飛行履歴といったすべてを知ることができるのだ。

 鈍色の日傘を持ちドローンを監視する彼らは〈ミツバチHoneyBee〉と呼ばれている。ドローンが雄ミツバチを意味することに対して付けられた渾名だ。

「んーん、ん……んー」

 彼は少し調子外れの鼻歌を繰り返す。周波数さえ正しければ歌はなんでもよかった。けれど彼はいつも同じ曲を歌う。

 彼の妹が作曲した、世界でひとつきりの曲だ。

 エジプトの肥沃な大地に育てられたトウモロコシは、大人の背丈すら隠すほどになる。だからトウモロコシ畑でお互いの位置を見失わないように、と妹が歌を考えてくれたのだ。家族のみんながその歌を口ずさみながらトウモロコシ畑に分け入った。

 けれどもう妹も家族も、トウモロコシ畑すらも失われていた。大人が両腕で円を作ったような機械──ドローンが墜ちたのだ。事故だった。燃料を運ぶドローンが正しいルートを外れ、制御不能となり墜落した。

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