アマテラス様に一票を!!

一二三 五六七

序談

「ただいまぁ…」


 日向ひゅうが真昼まひるは玄関のドアを力無く開いた。無気力に頭を垂れた姿は、さながら疲れきった中年サラリーマンそのものである。


 家に入ると背後で閉まるドアの音が異様に大きく感じられる。家の中は静まり返っていた。


 真昼の帰宅を暖かく迎える声は無く、薄暗い廊下の先に掛けられた時計の鼓動だけが冷たく規則的に響き渡っている。


コッ、コッ、コッ、コッ。

 

 時計の針は16時34分を指している。この時刻に共働きの両親が家に居るはずもなく、必然的に真昼の言葉は聴く者もいない独り言となってしまうが、真昼にとっては小さなころから両親に刷り込まれた習慣を機械的、反射的にこなしているだけにすぎなかった。


 両足のかかとを使い無造作に靴を脱ぎ捨てる。そのまま廊下へと歩き出した真昼は何かを思い出したかのようにふり返った。


「ふぅ」


 意図せず吐息が音を伴って喉から漏れ出す。


 土間の手前でゆっくりとしゃがみ込むと、ずり落ちそうになる紺色のスクールバッグを肘で押さえながら脱ぎ捨てたばかりの靴をきれいにそろえ直した。


 真昼は気だるそうに立ち上がると、まるで下半身にだけ電力が通ったロボットのように生気無く廊下を歩き始めた。


 階段を上りすぐ手前のドアを押し開けると、金属と木材が甲高い二重奏を奏でる。目の前に広がる8帖ほどの室内は薄いベージュ色を基調とした家具に彩られていた。真昼は自分の部屋に帰った安堵感から、ため息と共に大きく肩を落とした。


 真昼はベージュ色に対して特に思い入れがあるわけではなかったが、小さなころからこれこれこういう家具が欲しいと父親にねだると、数日後に届く家具は皆ベージュ色をしていた。


 これといった不満もなかったので、なぜベージュにこだわるのかは父親に聞いたことも無かったが、統一された色調のお陰か部屋全体が温か味のある優しい雰囲気に包まれているようにも感じられる。


 そんなやさしい雰囲気の中で、一点、特異点とも言うべき物がベッドの脇に打ち捨てられていた。今朝、制服に着替える際に脱ぎ捨てられたそれは、まるで踏み潰された中華まんじゅうのような様相を呈していた。


 もちろん特異点の原因を作った本人がそんなことを気に留めるはずもなく、肩に掛けていたスクールバッグを無造作に床へ滑り落とすと、うつ伏せのまま、強烈な引力に身を任せてベッドへと倒れ込んだ。


 宙に舞う長い黒髪は差し込む光を受けて栗色に透け、光沢を帯びた一束の絹織物のように少女の背中を覆い隠していく。


(期末テスト、イヤだなぁ)


 脳内で突発的に湧き立つモヤモヤが、嫌な苦味を帯びながら思考全体に広がってゆく。この厄介なモヤモヤは、かき消そうとしてもけっして消えることは無く、しかもテスト実施日までの距離に比例して規模も濃度も増してくるという、一種、呪いにも似た代物だった。


(あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!イヤだ、イヤだっ!)


 うつ伏せのまま激しく身をよじり、言語化した拒絶の意思を拠り所にしながら、実体の無い何者かに必死の抵抗を試みるが、夏場の湿気や冬場の寒気を殴り倒せないのと同様に何の成果も得られないまま、ただ無力感と不快感だけが心に蓄積していった。


 真昼の苦悩と抵抗はそう長くは続かなかった。どうがんばっても勝ち目の無い戦いであることは過去の経験からも十分に理解している。理解はしていてもなぜか抵抗しないわけにはいかないのだ。


 真昼にとってこのムダな抵抗は、次の思考段階に至るための避けては通れない通過儀礼なのかもしれない。


 抵抗をあきらめた真昼はそれでも自分の負けを認めてはいなかった。


 濃度を増したモヤモヤと行き場の無い怒りや憎しみは、やがて増殖し、複雑に混ざり合いながら自身の心を埋め尽くすほどの不快の大海へと変貌していった。


 真昼はその大海原の中心で大の字になって浮かび、反撃の機会をうかがいながら仏頂面のまま静かに漂っていた。


 そもそも真昼は勉強が嫌いなわけではない。かといって好きと言うほどではないのだが、一応高校での授業は真面目に受け、帰宅後には授業中の疑問点、不明点を自主学習で黙々と補っている。出された課題は期限内にきちんと提出し、先生方からの評価も悪くはない。中学生のころから節目ごとのテスト結果もまずまずで、当時のクラス内での成績は常に“上の下”をキープしていた。


 それでも中間、期末テストの類は当時から受け入れ難いものだった。理由は自分でもよく分らない。よく分からないが中学生のころから蛇やサソリの如くテストを嫌っている。


 強いて理由を考察するなら、何かに追われることが嫌なのかもしれない。だが、それにしては拒絶反応が強すぎる。


(みんなもこんなに苦しんでるのかな?)


 頭の中を刻々と友人達の顔がよぎっていく。細かな表情こそ違えど、皆一様に友好的な笑みをこちらに投げかけている。しかしその笑顔の走馬灯には、無表情でこちらを見つめる教師や両親の顔もノイズのように含まれていた。


 真昼は枕にうずめている顔を更に押し潰すかのように手と首に力を込めた。それからしばらくの間、真昼は身動き一つせず流されるままに負の感情の海を漂流していた。


 やがて町全体が初夏の暑さから逃れるように夜のとばりを降ろし始めたころ、真昼はどこかやりきれない顔つきでゆっくりとベッドから起き上がった。薄暗い部屋の片隅で白いスクールシャツの胸元に手を添え、静かにボタンを外していくその姿には悲壮感を滲ませたどこか寂しげな美しさがあった。


 脱いだ制服をハンガーに掛け、床に脱ぎ捨てられていた部屋着に袖を通していると、不意に「コン」という小さな音が聞こえたように感じた。


 その時は特に気にもしなかったが、部屋着に着替え終わるころには精神上にできたささくれのように妙に気になってしまい、音のした勉強机の周囲を観察してみた。しかし、ざっと見た感じでは何かが倒れたり落ちたりといった様子は見られなかった。


(何の音だったんだろ?)


 椅子に腰を下ろし再び周囲を眺めてみたが、やはり違和感を感じる箇所は見当たらなかった。


(――気のせいか)


 そのまま机の上で頬杖をつき、目の前に整列した参考書の壁を何気なく見つめてみた。色とりどりに彩られた背表紙が真昼の目にはどれも灰色に映っていた。


 それからしばらくの間、真昼は口をとがらせながら形容しがたい異音を発していたが、“これでカンペキ!数学I+A”と書かれた本を抜き出して机の上に置くと、打ち捨てられたスクールバッグから筆記具を取り出すためにゆっくりと席を立った。



「真昼、ごはーん」


「はーい」


 母親からの呼びかけに対して反射的に返事はしていたが、シャーペンを運ぶ真昼の手は少しも止まる気配がなかった。上目遣いに掛け時計を見ると18時40分を過ぎている。


(とりあえずこの英文を書き終えたら)


 言い訳とも決意表明ともとれる言葉を自分自身に言い聞かせると、シャーペンは再び踊り始めた。



 ダイニングに到着すると2人分の食事が食卓に並べられていた。席に着いていた母親の穂実ほのみはスマホでニュース記事を読んでいるらしかったが、真昼の姿を確認するとスマホをテーブルの上に下ろした。


「先に食べててよかったのに」


「そんな薄情な事できないでしょ」


 真昼は穂実と向かい合わせの席に着くと、そっけなく「いただきます」と言った。するとそれを見た穂実は肩を落とし、ため息を漏らしながらもひときわ大きな声で「いただきますっ」と続けた。


「もうじき期末テストでしょ?しっかり勉強してる?」


「しっかりやってまーす」


 みそ汁の入った椀を手に取りながら感情の無い返事を返す。


「あんたのことだから大丈夫だと思うけど、今の成績に満足してちゃだめよ」


「はーい」


「油断してるとあっという間に授業についていけなくなっちゃうからね」


「はーい」


「今日の煮物しょっぱすぎない?」


「どうかなぁ」


「そう言えばさっき桃香ももかちゃんのお母さんにスーパーの前で会って」


「そーなんだぁ」


 真昼の生返事を気にする様子もなく穂実の話は続いた。


 穂実は大手コンビニエンスストアの地区事務所で働いている。本人曰く、「日々とんでもない激務で息をつく暇も無い」とのことだが、毎日18時ごろには帰宅して3人分の夕食をしっかり用意してくれていた。


 まだ小学生のころに「残業もなく毎日決まった時間に帰れるということは、お母さんはすごく仕事ができる人なんだよ」と父親が教えてくれたことがあったが、「定時に職場を出るだけの鋼の精神力も持っている」という言葉だけは今一つ理解できなかった。


 そんな鋼の精神を持ったキャリアウーマンの母親でも朝だけは弱いようで、朝食と弁当の用意は真昼と父親が交代で行っていた。


 もっとも、朝食は6枚切りのパンをトースターで焼くだけであり、弁当についても寝る前に穂実がセットしておいた炊飯器の中身と、多めに作ってある夕食の残りを弁当箱に詰め込むだけなので大した手間はなかった。


 ゆえに毎日手際よく多彩な料理を用意できる穂実に対して、真昼は少なからず尊敬の念を抱いていた。


「ごちそうさま」


 真昼は空になった食器を重ね席を立った。


「あ、上に行く前にシャワー浴びちゃいなさいよ。まだ浴びてないでしょ?」


「はーい」


 食器を流し台に置きながら何気なく食卓に目を向けると、穂実も食事が終わり食器を片付けているようだった。


(――明日のお弁当は焼き魚としょっぱい煮物か)

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