第10話 あなたですか?
金曜日18時、カワカミリースは終業時間を迎え、多くの社員たちはぞろぞろとロッカールームに向かう。カワカミリースでは
内勤の男性社員や営業には制服が無く、従ってロッカーが無いので、バッグなどを置く場所に困るとの声も上がっていて、近々コンパクトサイズロッカーの導入が検討されているらしい。
帰宅準備を始める同僚たちを
夏場は夏用の薄手つなぎになるのだが、枝や葉っぱなどでの怪我を予防するために長袖なのである。なので社内にいる時は腕捲りをしている。得意先を訪問する時はそうはいかないので元に戻すのだが。
今日金曜日はカフェ・シュガーパインの訪問日である。訪問時間は21時過ぎ。それまでに1件、結婚式場訪問の予定がある。時間を遊ばせる様な勿体無い事はしない。
帰宅時間がかなり遅くなるが、あまり誰も文句を言わない。時間に
さて、そろそろ外出準備をしなければならない。結婚式場からシュガーパインは帰社せずに行くので、2件分の用意しなくては。確か結婚式場の方に病気になってしまったブライダルベールの交換があったはずだ。
昨日先方から電話を貰ったところなので大丈夫だとは思うが、記憶違いが無いか確認してから、園芸場から社用車に積み込まねば。
半分ほど飲んだ緑茶のキャップを閉じ、必要書類を取りに部署に向かう。廊下を歩き、角を曲がろうとした時、何かにぶつかった。
「あっ、すんません!」
「い、いえ、こちらこそ」
とっさに謝ると、相手も詫びを寄越して来た。誰だと正面を見ると、そこにあったのは黒い髪。ふいと見下ろすと保より頭半分ほど背が低い同期、
「あ、前原か、悪い」
「いや」
見ると、前原はすでに着替えを終えていて、黒のジャージ姿だった。
「ジャージ?」
「ああ。最近ジムに通っとるから」
「へぇ、意外やな」
前原は男性にしては小柄な方で、体型も細く、ひょろひょろという表現がぴったりだ。スポーツジムで身体を鍛えると言うイメージとは結び付かなかった。
「ただの時間潰しや」
「時間潰し?」
「ちょっとな。ほな」
「ああ。お疲れ」
前原は大きなスポーツバッグを
「さて、俺も行かんと」
山崎はあらためて部署に向かう。
……シュガーパインでカナの事を訊けるだろうか。
21時、カフェ・シュガーパインは閉店時間を迎えた。最後のお客さまが退店され、
いつもの様に要領良く掃除や洗い物をしていると、ドアが開かれた。
「こんばんは、カワカミリースです」
「こんばんは」
「こんばんは!」
「こんばんは〜、今日もよろしくね〜」
「はい。お世話になります」
山崎さんはドアの脇に背負っていた荷物を下ろすと、その中から
その間にも後片づけは進んで行く。そろそろ
トイレ掃除を終え、それでも速水さんは訪れない。春眞は嫌な予感に襲われた。
「兄ちゃん、俺ちょっと駅前まで速水さん見て来る。メトロやんな」
「あら、そう言えば今日は遅いわね」
「あ、ほんまや。どうしたんやろ」
「え、速水さんて、あの」
速水さんの名前に反応したのか、剪定を終え土に肥料を注入していた山崎さんが手を止めて、
「そうよ〜、先週山崎くんに車で送ってもろた速水ちゃんね〜」
「あ、あの、気になっとったんです。あれからどうなったかと」
「ん〜、実はね〜、ストーカーやったの〜。せやから毎晩春眞と
「そんな、一大事や無いですか!」
山崎さんが血相を変えた。
「警察にも届けてあるんやけどね〜、容疑者がまだ特定出来なくて。困ったわよねぇ〜」
「兄ちゃん、とにかく僕行って来るわ」
「ボクも行った方がええかな」
男性とふたりきりだと、ストーカーを刺激するかも知れない。以前秋都たちが言っていた事を、茉夏はしっかりと覚えていた様だ。
「そうやな……、いや、とりあえず僕ひとりで、お、と、と」
急いでいたせいか、春眞は少し出ていた椅子に足を引っ掛けてしまい、軽くバランスを崩してしまった。すぐ近くにいた山崎さんの両手が素早く春眞に伸びる。
「大丈夫ですか?」
「すんません、大丈夫で……、あれ?」
山崎さんが至近距離になり、春眞の鼻が、脳がぴくりと反応した。
「どうしました?」
「いや、ちょっと待って……」
丁寧語を使う事も忘れて、春眞の鼻に
集中する。更に鼻を近付けた。逃さない様に、山崎さんの両腕をがっしりと掴んだ。
「あ、あの?」
山崎さんは
「じっとして」
春眞の静かで真剣な声が、山崎の足を止めた。春眞の髪が触れそうになった頭だけ大きく仰け反る。
そしてやっと春眞は山崎さんから離れた。
「びっくりした……。兄ちゃん、茉夏、あのメモの匂いがする」
「あら!」
「嘘やん! 何で!?」
秋都と茉夏も驚いて声を上げる。山崎さんだけが何が何やら解らない様子で春眞たちを見渡した。
「あ、あの?」
「山崎さん、このつなぎを着てはる時に、誰かにぶつかったりとかしませんでしたか? 触られたりとか」
「触られはしませんでしたけど、ぶつかりはしました。会社で、私と同期の人間なんですが。あの、その者が何か」
春眞は言い淀み、秋都を見る。知り合いであった事は朗報だ。だがどう訊いたらいいものか。
「あのね〜、確定や無いんやけど、その同期の人とストーカーの匂いが似ているみたいなのよ〜」
「は、え?」
「似てるってだけなのよ。だからあのね、ん〜」
秋都が言葉を選んでいると、茉夏がじれったいと言う様に首を振った。
「ストレートに訊いたらええやないか。山崎さん、その同期の人について教えてください」
「……そうやって言葉にしちゃうと、あんまり言葉を選ぶ必要無かったわね〜」
秋都が苦笑する。
「どういう事ですか? その同期が速水さんのストーカーだとおっしゃるんですか?」
山崎さんは呆然としていた。
「今の時点ではあくまで可能性です。けど、かなり高い割合でそうや無いかと俺は思ってます」
春眞の後ろで秋都と茉夏もうんうんと頷いた。ふたりは春眞の鼻の性能の高さを信用してくれていた。
「ですが、その者は速水さんの事など知らんはずです」
「どこで
「そんな」
山崎さんは
「俺、どうしたら」
得意先に敬語を使う事も忘れ、山崎さんは呟く様に言った。
「まず確定しなきゃね〜。山崎くん、その同期の人の顔写真とかあるかしら〜?」
「去年の慰安旅行で撮影したもんがあります。明日でしたらお持ちできますが」
「ほんまに悪いんやけども、お願い出来るかしら〜。ここの営業時間内に寄ってもらえると助かるわ〜」
「承知しました」
山崎さんが神妙な表情で頷いた時、ドアが威勢良く開かれた。
「すいません! 遅くなりました!」
全員が一斉にその方を見る。速水さんだった。そうだった、春眞は長居駅まで速水さんを迎えに行こうとしていたのだった。匂いのお陰ですっかりと後回しに、いや、忘れていた。
春眞は自分の
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