第45話 たまのを(2)

 霞は抜き身の刀を手にした伊吹と向かい合っていた。ふたりはじりじりとお互いの間合いを測り合う。

 伊吹は目をつぶっているというのに凄まじい気迫だった。霞と会話している時に感じられる気の抜けた雰囲気は微塵みじんもない。霞はいつ、そのやいばを振り下ろすか分からない伊吹を前に弓矢を構える。

 構えてみるものの、どこにも狙いを定めることができない。


(伊吹に矢を放てるはずがない……)


 相手が伊吹でなければ霞はためらいなく足に矢を放っていた。その次にき手を射る。そうすれば相手の動きを封じることができると考えたのだが、一矢いっしを放つことすらできない。


(このままときが過ぎれば殿下と楓様が危うくなる……。何とかして化け物を討たなくてはならないのに……)


 迷っているうちに伊吹がじりじりと距離を詰めて来る。依然として御簾の奥に控えている山茶花は楽しそうに霞達を見物けんぶつしていた。霞はその姿に顔を顰めつつ、頭の中で自分の次の動きを思い描く。伊吹を傷つけることなく、山茶花を射抜く方法を見つけようとしていた。


(……これしかない。迷ってる暇はないわね)


 頭の中の盤上を思い描くと動き出した。伊吹の背後、山茶花に狙いを定めると霞は矢を放つ。伊吹は凄まじい剣技けんぎで再び矢を叩き落とした。


(やっぱり。化け物に危害が及びそうになると動くのね……)


 霞はその一瞬の隙を見逃さなかった。

 

「やあ!」


 霞は正面から弓の末弭うらはずを伊吹の刀を振り下ろした腕……肘の裏に突き立てた。

 矢を射るための弓、そのものを武器として使ったのだ。弓の長さは七尺五寸(約227メートル)。槍のような、間合いを取ることのできる武器へと変貌へんぼうする。

 そのまま弓を伊吹の右脇みぎわきの下から肘に滑り込ませながら霞は伊吹の左側に体を移動させる。その移動する力を利用しながら思いきり弓を自分の方に引いた。弓のお陰で、伊吹の太い腕を小さな力で動かすことが可能になる。


(いけっ!)


 弓を引っかけた伊吹の右肘みぎひじが前に押し出され、刀が手から飛び出して床に転げ落ちる。


(やった!)


 そのまま近くにあった伊吹の反対側の腕を下弭しもはずからめて後ろ手にし、動きを封じようとした時だった。

 刀を手放した伊吹の右腕ががっしりと弓を掴んだ。


「!!」


 しまったと思った時にはもう遅い。霞の身体が大きく揺れる。霞は床に投げ捨てられてしまった。伊吹の手に残った弓は霞から遠くに投げ捨てられてしまう。


「うぐっ……」


 咄嗟に右肩が床に着地するように受け身を取ったものの鈍い痛みが霞を襲う。反動で背中の矢筒から床に散らばった。近くに落ちた矢を左手でなんとか掴んだ……が、それも無駄だった。


「いっ……」


 霞の左手首を伊吹が捻り上げたのだ。何とか踏ん張って矢を手放してなるものかとあがいてみるも力の差は歴然だった。


(だ……だめ。腕が……!)


 霞の顔が苦痛に歪む。め上げられた腕は引きちぎれそうなほど伊吹の力は凄まじい。踏ん張っていなければ霞の身体が宙に浮きそうだ。


「俺は……たったひとりの大切な者も守れない……」

「え……?」


 痛みにえながら霞は伊吹の呟きに顔を上げた。眠っていながらも伊吹は霞以上に苦悶くもんの表情を浮かべている。


蔵人頭くろうどのとう殿といた方が幸せなのは分かってる……。霞が幸せならそれでいいのに。分かっているのに認められないんだ。そんな弱いおのれは……消えてしまえばいい」

「い……ぶき……」


 霞は伊吹の言葉を聞いて唇を噛み締め、うつむいた。


(伊吹は……悪夢の中で自分を殺そうとしてる。それも私への想いを断ち切れないせいで……)

「……っ!」


 伊吹の力に負けて霞は矢を手放してしまう。左腕の痛み以上に伊吹の心の痛みの方が辛かった。

 弓矢の対決をした幼い頃の情景を思い出す。明け透けな笑顔に真っすぐな言葉は霞の心を救ってきた。そんな伊吹の仄暗い心情を聞くのは堪えられなかった。


「伊吹……。そんなこと言わないで。そんな風に自分を責めないでよ……。私は、ずっと伊吹に……助けてもらったのに」


 一か八か霞は伊吹に語り掛けた。


「無駄よ。操られている者にうつつの者の声は届かない」


 伊吹の背に控える山茶花さざんかの声がする。山茶花の声に構わず霞は声をかけ続けた。


「ずっと辛い思いをさせてごめんなさい……。伊吹がこんなにも思ってくれているのに期待に答えられなくて。でもこれだけは言わせて。

伊吹が側に居てくれたから私は今日まで生きてこられた!父と母がいなくなっても私にはまだ伊吹がいるって……そう思えた。だからこれからも側に居て欲しいの!……いいえ、私の側に居るのが辛いなら離れてくれても構わない。伊吹が生きていてくれなければ……私は生きていけない!」


 目の前にいたもう一人の自分。己の首を絞め挙げたつもりだったのに、いつの間にか伊吹の目の前には霞がいた。深い眠りから覚めるような倦怠感が伊吹を襲う。


「伊吹!目が覚めたの?」


 霞の嬉しそうな声に伊吹まで嬉しそうになるが、金縛りにあっているかのように体が動かない。

 目の前の光景に伊吹は困惑していた。

 霞の細い左腕は着物の裾が下にずりさがり、火傷の跡があらわになっていた。伊吹の目に火傷の跡が映し出されると、かすかに正気しょうきを取り戻す。


(霞……?どうして泣き出しそうな顔をしてるんだ……)


 自分のものではないような、自由の効かない体を見下ろして伊吹はため息を吐いた。


(そうか……俺のせいか。本当はこんな顔、させたくなかったのに。俺が霞を愛してしまったから……)


 本当はこんな風に荒々あらあらしく霞の腕を取りたくなかった。

 伊吹は何気ない霞との日々を思い出す。自分とそう年の変わらぬ少女が何やら難しい顔で書物を読んでいた。

 今となってはあれが始まりだったのかもしれないと思う。食い入るように書物を眺める横顔に魅入ってしまった。

 どうにかして気を引きたくて。わざと榊の書物の山を崩して見せる。


『伊吹、また悪戯いたずらをして……』


 他人に警戒心の強い霞がの表情を見せるのは子供心に嬉しかった。霞は自分の前でだけは心を許してくれる。気が付けば伊吹は霞に心奪われていた。

 弓稽古ゆみげいこの時の凛々しい姿も。大人顔負けの便べんが立つところも。目的を達成するために自分のことを後回しにしてしまうことも……。間近で色んな霞の姿を見てきたせいだろうか。霞のことを愛おしいと思うようになっていた。


 幼い頃の思いが消えることは無く、むしつのっていく一方だった。身を守るため、霞と他人のフリをするのは本当に辛かった。それでも同じ宮中に霞が生きているのだと思えばいつも勇気が湧いてきたものだ。

 霞も同じく、自分が生きていることを心の支えに宮中を生きていたとは……。伊吹の心の中がじんわりと温まっていく。正式な恋人になれずともこれはこれでいいのではと、己を納得させる。


(やっぱり霞は蔵人頭殿のことをしたっているんだな……。その上で俺がいなければ生きていけないなんて……霞は残酷なことを言う)


 伊吹は霞の苦しそうで、泣き出しそうな顔を眺める。ふうっと息を吐いた。

 

(悔しいけど……やっぱり霞には敵わないな。だって……俺が一番心から愛した人だから)

 

 伊吹は霞から腕を離すと、霞はその場に座りこんでしまう。ぎこちない動きでなんとか刀を拾い上げた。

 その動きは正気を取り戻したのか、あるいは操られているのか判断できない。霞は左腕を庇いながら伊吹の動きを目で追う。


 刀を手にした伊吹は、振り下ろした。

 予想もしない動きに霞は呆然とする。伊吹が刀を振り下ろしたのは……己の左腿だった。赤い装束のせいで流血は見えにくいが、床にしたたり落ちる血を見て霞は絶句する。


「伊吹!」


 霞の叫び声が山茶花の局に響き渡った。さすがの山茶花も伊吹の行動に動揺しているようだ。


「己を傷つけて術を解くなんて……愚かなことを」


 伊吹の行動はそれだけに留まらない。振り返りざま、血に濡れた刀を伊吹は山茶花が控える御簾に向かって投げた。

 刀は御簾を破り、通り抜ける。そのすぐ後、化け物の悲鳴が聞こえてきた。どうやら化け物のどこかに命中したらしい。

 霞は化け物の生き死によりも伊吹の怪我のことで頭がいっぱいになった。

 力尽きた伊吹はその場に仰向けに倒れ込んでしまう。


「伊吹!なんてことを……。今血を止めるから!」


 必死な霞の頬を手のこうで触れた。


「俺のことはいいから……。蔵人頭殿と殿下のところへ……」

「……!そんな……伊吹を置いてなんて……いけない」


 萎れる霞を見てさえも伊吹はより一層愛おしさを感じていた。


「申し訳ないことをした……。俺が先に化け物を討てば……霞は傷つかなくて済むと思ったんだ。それが……化け物に操られて。霞まで傷つけた……本当にすまない」

「そんなの気にしないで。伊吹は伊吹が最善だと思う行動を取っただけなんだから」


 霞は背負っていた矢筒の紐を解こうとするが左腕が痛いのと、伊吹が怪我を負った衝撃で手がかじかんで上手く動かない。


(こんな時に……しっかりしなさいよ。私の身体……) 


 悔しそうに唇を噛み締める霞に伊吹は首を振った。


「もういいんだ……。霞は俺がいなければ生きていけない……それが分かっただけで……もう」


 弱々しい伊吹の声に霞の心は不安に追いやられている。頬に伸びた伊吹の手を握るも体温が感じられない。

 絶望に染まる霞をどうにかして励ましたくて伊吹は小声で霞に話しかけた。


「霞……耳を貸してくれ」

「どうしたの。伊吹?」


 霞が伊吹の口元に顔を引き寄せると、伊吹は霞の後頭部に手を伸ばしそのまま霞の額に口づけを落とす。突然のことに霞が息を呑むのが分かった。

 驚く霞をそのままに伊吹は自分の肩口に引き寄せて抱きしめる。


「霞のこと……好きになって良かった」


 伊吹の言葉に霞は目を見開いた。鼻の奥がつんっと痛む。

 伊吹は霞と同じ一族に生まれ、恋仲になれないことで長い間苦しんできた。霞を好きになったことを後悔しているのではないかと考えていたからだ。

 霞は伊吹の肩口で一筋の涙を流しながらくぐもった声で答えた。


「私も……伊吹と出会えて良かった」

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