第38話 第三巻 こころぐるし(2)

きり!何故こんなところに……。お前は内裏だいりにいろと言ったはずだぞ」


 空木うつぎ叱責しっせきにも構わず桐は舌を出す。


「忘れてました。そんなことよりも……陰陽師が宮中の呪いを無視するなんてありえません。帝をお支えし、国の行く末を占うことで国を守る。それが私の使命だと空木様は言ったではありませんか!」


 桐の子供らしい真っすぐな言葉に楓は苦い笑みを浮かべた。


(物事はそんなに単純じゃない。そんな子供の言い分で止まるような奴らじゃないだろう)

「ああ。だから私はその使命を全うしている。賢いお前なら分かるはずだ。人心ひとごころを操ることができれば人の争いはなくなる。引いてはそれが国の安寧に繋がるのだ」


 今まで語ることのなかった空木の心境を聞き、楓は静かに耳をそばだたせる。


(この子供を前にした途端様子が変わったな……)

「そんなこと不可能です!人の心は何者にも操れません!」

「それができるものがいたとしたら?今まで成し遂げられなかったことができると思わないか?」

「だから化け物に肩入れしたというのか?今まで多くの人間を殺してきたというのに!」


 楓の鋭い指摘に空木が憤る。


「若いお前には分からないだろう!宮中というのは化け物が入る前から呪いだらけなのだ。先に出世したあいつを呪ってくれ、しょうの女に子を産ませないようにしろ、相手の男を呪え女を呪えだの……。これが国の安寧のために行うことなのか?もうこんな思いはたくさんだ……」


 空木の深いため息が陰陽寮に消える。


「人心を完全に操りさえすればつまらないいさかいがなくなるだろう。確かに人智を越えた化け物は危険な存在だが、使い方によっては良い方向にも動かせるもの。さすれば占いで見た最悪の未来にも備えられるはずなのだ!」

(なるほど。陰陽頭おんみょうのかみ殿は陰謀渦巻く宮中のあり様に限界を感じていたんだな……。更に占いで国の行く末が怪しいと出た。化け物にも縋りたくなるという訳か……)


 空木の答えを聞いても桐は納得していない様子だった。


「化け物に頼らずになんとかする!それが人の進むべき道のはずです!みんなの……空木様のわからずや!」


 幼いながらも桐の最もな言い分に楓は思わず笑ってしまう。


「小さい陰陽師殿はよく分かってらっしゃる……。化け物に支配されたまつりごとで陽ノひのくにの安寧が保てるはずがありません。そもそも政を放棄した人間の向かう未来が本当にいいものになるとお思いですか?」

「……我々が分かり合うことはない。ここにいる者、全員をとらえろ」


 空木の合図と共に周りに控えていた陰陽師達が楓達を捕えようと距離を縮めてきた。


「今だっ!」


 桐の高い声と共に桐の背後に人影が現れる。その姿を見て楓は息が止まった。


かすみ……様?」


 桐の少し後ろに立っていたのは赤い装束しょうぞく……武官の着物を身に着けた霞の姿だった。矢を引き絞り、手を離す。

 矢は横に並んでいた高灯台の上をかすり、火を消した。矢が壁に突き刺さる音がすると同時に陰陽寮内が薄暗くなる。

 

「ふたりとも。こっち!」

「いくぞ伊吹!」

「は……はいっ!」


 桐が手招きするのを見て、楓と伊吹は背後に向かって走り出す。明かりがあるうちに桐と霞に近づかなければならない。

 無論、楓と伊吹の後ろに立っていた陰陽師が立ちふさがった。


「邪魔するならば容赦なく切る!」


 伊吹の刀と凄みに怯んだのも束の間。伊吹はそのまま相手を押しのけて退路を作った。桐が開けた道に駆け込み、伊吹と楓の手を取る。


つかんだ!」


 桐のその言葉を合図に霞がもう一矢いっし、反対側の高灯台の列に目がけて射る。たちまち陰陽寮は真の闇に包まれた。


「暗くて何も見えないぞ!」

「痛っ。ぶつかってくるな!」


 暗闇の中、陰陽師達は一気に混乱に陥った。


「これでは俺達も外に出られないぞ……」


 伊吹の戸惑う声が聞こえてくる。楓も目を凝らしてみるが、何も見えない。


「大丈夫!転ばないように私についてきて」


 低い位置から桐の声がする。伊吹と楓の手をぎゅっと握った後で、勢いよく出口の方角に向かって走り出した。


「なんだ?お前は夜目やめくのか?」


 驚いた楓の声に桐はふふんっと鼻で笑う。そのまま出入口まで駆け抜けると静かに襖が閉められた。


「ふたりとも……無事ですか?」


 手蜀てしょくを持った霞が目の前に現れる。手蜀は室内から見えない位置、霞が動ける範囲の物陰に隠されていたようだ。

 霞の姿は遠くから見ると内裏の警護をする武官に見えるが、中に着ていたのは小袖だった。どうやら武官の上衣と烏帽子、弓矢だけを拝借はいしゃくしてきたらしい。


「腰の紐外さなきゃ……」


 桐が霞の明りを頼りに腰に巻き付けられた紐を外す。それを見ていた伊吹が感嘆の声を上げた。


「そうか!外の柱にくくりつけていた紐を頼りに暗闇を駆けていたのか!すごいな!」


 伊吹の素直な称賛に桐が得意そうな表情を浮かべる。


「そ!これは霞様の思い付き」


 一同に視線を向けられた霞は得意げになることもなく、内裏の方角を指差した。


「そんなことよりも早く内裏へ戻りましょう。ここから離れてしまえば空木様は恐らく追ってこないはずです」

「どうしてそう言い切れる」


 楓の問いに霞は平然と答える。


「ここに空木様のがいるからです」


 霞の視線の先には桐がいる。


「え?私?」


 一斉に視線を向けられた桐は自分を指差して首を傾げた。


「さあ、早く。陰陽寮を出ましょう」


 一同は足早に陰陽寮を後にする。陰陽寮から離れ、大門が近づいて来た頃、楓が口を開く。


「それにしても武官の衣装はどこから?もしやどこぞの男を上手く言いくるめ身ぐるみでもはいだのか?」

「いや……それは……」

(どうかしたのかしら。いつも以上に楓様の目が厳しい)


 言い淀む霞に桐がぴんっと手を上げる。


「私が手配しましたっ!」

「お前が?」


 眉を顰める楓に桐が楽しそうに門に向かって走る。


「ここから持ってきたんだ!」


 門の影に酔いつぶれた衛士が見えた。酒樽さかだるを抱いてすやすやと寝息を立てている。


「私が霞様と合流する前に衛士のひとりに酒を渡しておいたのです!身ぐるみをはぐために!」


 悪びれもせずに満面の笑顔で答える桐に一同は呆れた表情を浮かべた。


「よく悪知恵の働く子供だ……」

「起きる前に元に戻しとこう!」

「そうね……」


 霞が赤い装束を脱ごうとしたところ、不意に楓が霞の首元に手をかける。そのまま手際よく霞の上衣を脱がした。伏せ目がちな瞳がいつにも増して色香いろがを放つ。中に小袖を着ていたので恥ずかしい事など何もないはずなのに霞の心臓の鼓動が速まった。


(楓様はただ着替えを手伝ってくれているだけでしょう)

「俺が着せ替えておこう」


 そう言ってテキパキと眠る衛士の上衣と烏帽子えぼしをのせる。楓が着せ替える様子を桐が楽しそうに眺めていた。


「顔に禁酒きんしゅの呪文でも書いておこうかな?」

「今は止めておきなさい」


 桐の冗談に楓が真面目に答える。のんぴりとした光景に戸惑いながら霞は伊吹の視線に気が付いた。ぼうっとした様子はいつも明朗めいろうな伊吹らしくない。


「伊吹?どうかしたの?」

「いや……。なんでもない」


 伊吹の釈然としない態度が気になったが今はそれどころではない。


「一度私の局で立て直しましょう。事は一刻いっこくを争います!」


 霞は重ね着ていた自分の小袿こうちきを一枚、頭に被ると足早になる。


「そこの者達!止まれ!」


 松明たいまつを手に、見廻りの衛士えじが小走りに此方に向かってくるのが見えた。

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