第36話 二巻目 すれちがひ(2)

 黒に包まれた宮中は、黄泉よみの国へ通じていそうな雰囲気を漂わせている。油断したら暗がりに呑まれ、二度と戻って来られないような……。歩いている者を不安にさせるような場所へと変貌していた。


 暗闇の中をひとり歩く者がいる。


 手燭てしょくを手に、ゆっくりと慎重に歩いている様子から辺りを警戒しているようだ。

 やがて、透渡殿すきわたとのの辺りで何かを見つけたのか。人影は小走りになる。やがてその人物は床に手燭と巻物を置くと、落ちていた物を拾いあげた。


「これが……物語の続き。本当に目の前に現れた……!」


 落ちていたものに夢中になっていたせいで、背後から近づいて来る者の気配に気が付くのに遅れてしまう。


「誰っ……?」


 その人物が振り返った先にいたのは……かすみだった。


「やはり来ましたね……茉莉まつり様」

「霞様……」


 夜、水仙の局の周辺を歩いていた人物。それは茉莉だった。どうやら透渡殿の正面の部屋の影に潜んでいたらしい。少し奥の方に霞が持ってきた手燭の明かりが見える。敢えて明りを手に持たず、茉莉の側に置いてあった明りを頼りに近づいて来たらしい。

 両手には茉莉が持ってきた『ひめつばき物語』の第二巻が握られている。


「騙したんですか……」

「申し訳ございません。ですが、これも茉莉様をお守りするため。致し方なくでございます……」


 霞が茉莉に話した噂話は嘘だった。


(茉莉様が本当にやってくるかどうかは賭けだったのだけれどね……。物語に魅入られた者ならば必ず来ると思った。続きが読みたくて、どんな些細な噂でも飛びついて来るはず)


 霞は頭の中に勝利を決定づける駒を置く。


(そして……自分のことを認めてくれた人を人は深く信頼するもの。私のことを信頼した茉莉様は必ずここへ来ると分かってた)

「どうせ水仙様のお付きの女官の誰かが盗んだと疑っていたのでしょう。その中で引っ掛けやすいのが私だった……そういうことではないですか?」


 感情的になり始めた茉莉の怒りを収めるため、霞は冷静に答える。


「いいえ。茉莉様が原本を持っていると分かったのは他の者からの情報です。それにお会いした瞬間に原本をもっていることを確信しました」

「会った瞬間に?」

「はい。茉莉様は原本の最後に和歌が書かれていることをご存知でした。私は血文字としか言っていないのに」


 霞の指摘に茉莉が口元を押さえる。些細な言動ですら見逃さない、霞の観察力に恐れているようだ。


「それと、私は茉莉様を捕まえに来たのではありません。物語の原本が危険なものなので回収しに来ただけです。茉莉様の身を案じていたのは真にございます」

「かえ……して」


 茉莉の消え入りそうなか細い声に霞は思わず身を引いた。


「私なんて……どうなっても構わない!宮中で私の味方など誰もいないのだから……」


 透渡殿に冷たい風が通り抜ける。


「どれだけ心を尽くしてお勤めしても水仙様には暴言を吐かれるし、周りの女官達だって誰一人助けてくれなかった!中には私が反抗してこないことを良いことに更にいじめてくる人もいた……。水仙様のお世話だって殆ど押し付けよ……。どうせ霞様も私のことを哀れな女官だと思っていらっしゃるのでしょう」


 茉莉の憎しみに満ちた目が霞を捉えた。霞は黙って茉莉の言葉を聞く。こういう時は思い存分相手に言葉を吐かせてしまった方がいいのを経験上知っていた。


「だから腹いせに水仙様が夢中になっている『ひめつばき物語』を隠れて読んでいたの。……素晴らしい物語だったわ。まるで私のことを分かってくれてるみたいで。私の心を癒してくれたのはあの物語だけだった……」

(確か物語の主人公、つばき姫は身分の低い姫として他の女官から酷い扱いを受けていたわね……。茉莉様の心が同調してしまうのも無理はないわね)


 うっとりとした茉莉の様子を見て、霞はすぐに茉莉が物語に取り込まれていることを悟った。


「水仙様が倒れられた後、二巻目しか見当たらなかったけれど盗んでやった。少しだけど気分が良くなったわ……。皆が夢中になっているもの、水仙様のお気に入りのものを私が持っているなんて夢みたい」


 茉莉は顔を俯かせると、低い声でぼそぼそと話し始めた。


「だから……返して」

「……!」


 霞は茉莉から奪ったひめつばき物語の二巻を抱きしめた。ゆらゆらと近づいて来る茉莉は明らかに先ほどとは様子が違う。


(これは……!化け物に操られてる?白樺しらかば様の時と少し違うような……)


 そう思った時には茉莉が霞の腕を掴んでいた。


「痛っ……!すごい力」


 霞は掴まれた右腕を外側に回して振りほどくも、今度は体ごと突進してきた茉莉を避けきれず一緒に床に倒れ込んでしまう。

 すかさず茉莉の両手が霞の首に掛かる。


「ま……つり様」

「水仙様、何故私に冷たく当たるのですか?私は……私はしっかりやってきましたよね?全て貴方様のために働いて来たのに……」


 霞は首を絞められ、苦しみながらも微かな違和感に気が付く。


(眠って……いる?)


 茉莉が目を閉じていたのだ。普通の人間が目をつぶったまま人を襲うなんて芸当ができるはずがない。


(まるで……悪夢を見ているような。それに私のことを水仙様だと勘違いしているみたい)

「だ……れか……。誰かっ!……っ」


 霞は何とかして茉莉の腕を引き放そうと茉莉の顔を押す。これだけ騒いでいるのに一向に誰かが来る気配はない。

 暗闇の中の宮中は霞達以外誰もいない。本当に別世界になってしまったようだ。


(こんなところで……。こんなところで終わるわけにはいかないのよ)


 薄れかかってきた意識の中。一族を失った火事が瞳の中に浮かぶ。それなのに口をついて出た言葉は予想外のものだった。


「か……楓様……」

(どうして……楓様なの……)


 そのすぐ後のことだった。


「おんあぼきゃべい……ろしゃのう……悪霊退散ー!」


 子供の声がしたかと思うと、茉莉の頭に何か当たったのが見える。何かはそのまま茉莉の霞達の頭上を通過し、着地した。

 霞は自分に倒れ込んできた茉莉に潰されながらも、ゆっくり上体を起こす。


「げほっげほっ……。な……何?何が起こったの?」


 首元を押さえ、振り返ると……視線の先に小さな人影が立っているの気が付いた。


「どんなもんだい!」

「貴方は……。昼間に会った陰陽師の所の子」


 霞を間一髪のところで助けたのは昼間、霞とぶつかったあの少年だった。両手を腰に当てて霞を見下ろしている。


「早く出るよ!」


 はしゃいだ様子で少年は霞に小さな手を伸ばした。

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