第34話 一巻目 めぐりあひ(2)

 虫のが心地よく響く夜。

 御簾みすを開けたころでかすみつぼねに月の光が降り注ぐ。時折夜風が几帳を仄かに揺らし、夜の趣が霞の全身を包み込んでいた。

 霞の目の前に月の使者ししゃのような麗人れいじんがいる。自分の膝の上に頬杖をついて不機嫌そうだ。視線は霞の前に置かれた黒いひつそそがれていた。

 

(楓様。今宵こよいも無駄に目立つわね)

「それで俺のあずかり知らぬところで『ひめつばき物語』の原本を読んだのか……」

「はい。菖蒲あやめ様と読んだお陰か私の身には何も起こっておりません」


 楓は頬杖をつくのを止め、大きく見開かれた目で霞を見た。


「菖蒲様と?それはそれで問題だ!第一王妃に何かあったらどうする?それどころか菖蒲様を巻き込んで大丈夫なのか?」

「楓様のおっしゃる通りでございます。菖蒲様から手を差し出されたのです。巻き込むのは本意ではありませんでしたが……ただ、これだけは確かです。菖蒲様は想像以上に化け物探しの役に立っています。短い間に原本を持つ者を三人も見つけてくださったのだから」

「菖蒲様は御自おんみずから霞に手を貸したのか……」

「はい」


 暫くの間、楓は思案顔をしていたが諦めがついたのか。自分の膝を軽く叩いた。


「菖蒲様に化け物の存在を話したのか?」

「直接話してはいませんが……何となく察してはいそうです。私が危険なことに足を踏み入れているのを心配しておりました」

「……そういう事情ならば菖蒲様のことは目をつぶろう。だが、ひとりで先に進むのはよくない。何があるか分からないだろう」


 楓の悲しそうな表情は演技には見えない。本気で霞を心配するような姿に霞はほんの少しだけ心がじんわりと温かくなる。


(私のことなんて心配しなくてもいいのに。心配されるほど私には価値がないのだから)


 霞は地の底に落ちそうな自分の気持ちを誤魔化すために事務的な報告を続けた。


「そんなことよりも『ひめつばき物語』の内容に関するご報告させてください」

「ああ……そうだったな。それで、結局これは何なのだ」


 難しい顔をした楓が黒い櫃を指さす。


「物語によって動いた人の心を利用した何らかの呪いがかけられている可能性が高いです」

「物語を利用した呪いだと?化け物は作者の水葵みずあおい様だということか?いや、でもそれはおかしい。水葵様が女官にょかんとして宮中に上がったのは最近のことだ」

「水葵様は化け物に操られているか……あるいは化け物と手を組んでいると思われます」

「何……?水葵様が?」


 驚く楓に霞が静かに頷く。


「はい。伊吹とお会いした時、特に変わったことはありませんでした。白樺しらかば様のようにおどされて普段通りに振舞っている可能性もありますが……そんな風にも見えませんでした。

だとしたら考えられることはひとつ。化け物と手を組んでいるのでしょう」


 霞の凛とした声が局に響き渡る。楓は腕組をして霞の驚くべき推理に唸っていた。


「何故そんな恐ろしいモノに協力する?水葵様は東宮妃とうぐうひ山茶花さざんか様の女官だ。東宮様との繋がりがあるということは化け物はやはり東宮様なのではないか?」

「そのように考えることもできますが……新たな人物も浮上してきました」

「ああ。先ほど霞から聞いた原本を手にした者のひとり。陰陽頭おんみょうのかみ空木うつぎ殿か」


 菖蒲から原本のありどころを聞いた時に違和感を抱いた人物。それが陰陽頭の空木だった。宮中行事の際、遠目から見かける程度で人柄や交友関係は謎に包まれている。年齢もよく分からず、目元のクマが目立つ不健康そうな男の印象が強い。


「空木様は陰陽頭。呪いにも精髄せいずいしており、宮中の裏表を知る人物でもあります。注意する必要がありそうです」

「とても物語に興味のあるようには見えぬしな……。空木殿も帝の信頼があつい。化け物候補から外されていてもおかしくないな。それにしてもこう、化け物候補が多くてはらちが明かない。近づけたと思ったら遠ざかる……。もどかしいな」


 楓は自分の膝の上に握り拳を叩きつけた。


「だからこそ調べを進めるのです。どちらにせよ『ひめつばき物語』の原本が危険で回収しなければならないことは確かです」

「それはそうだな……」

「明日、私は水仙様の女官、茉莉まつり様にお会いするつもりです。なので楓様は伊吹と共に空木様の原本を手にしてください。解読は私が引き受けます」


 霞の申し出に楓が驚いたように目を見開く。


「そんなことさせられるわけがないだろう。俺が読む」


 黒い櫃を自分の方に引き寄せた。


「ふたりで読んでふたりとも術に掛かったらどうしようもありません。……私が解読して楓様にお伝えします」

「だったら俺が解読しても構わないだろう」

(何を必死になっているの)


 中々引き下がらない楓に霞は内心苛立った。


「いいえ。楓様が操られては化け物探しは立ち行かなくなります。それでは困るのです」

「……」

「それに。呪いにはうといですが人心掌握じしんしょうあく術の方に関しては詳しいつもりです。化け物の術にかからない自信があります」


 反論してこない楓を見て畳みかけるように霞が続ける。


「私に何か起きたとしても楓様は己の使命を果たしてください。楓様には宮中や帝、この世の安寧を守るという大義たいぎがあるでしょう。女官ひとりがどうなろうと楓様には大した問題ではないとお考え下さい。ただが一つ減るだけだと」


 霞はなるべく冷たく言い放つ。ここで情を持たれては堪らない。

 黒い櫃を持ち上げようと伸ばした霞の右手を、楓のひとまわり大きな左手が掴んだ。物語の入った黒い櫃などそっちのけで掴まれた手に霞は戸惑いを隠すことができない。


。それは……叶えるのが難しいお願いです」


 いぶかに見上げると、。演技をしている時の口調だったので霞は不快そうな表情を浮かべる。


「楓様……。こんな時にまでふざけるのはおやめください」

「ふざけているのはどちらだ」


 不機嫌そうな楓の声を耳元で聞いて驚いたのも束の間。そのまま正面から楓の腕の中に包みこまれてしまう。


「誰がしたっている者を危険目に遭わせられると思う?」

「……!」


 楓のその言葉はきっと宮中の女子おなごであれば誰もが泣いて喜ぶ言葉のはずなのに心臓を握りしめられたような苦しさを感じた。楓がこんな風に真っすぐな好意を言葉にするのは珍しい。女子を口説く、軽い雰囲気は少しも感じなかった。


「最初は駒だと思っていた。だけど……今はそんな風に考えたことは一度もない」


 ぽつぽつと語られる楓の気持ちに驚き喜ぶよりも、霞は揺らぐ自分の心にいきどおっていた。


(どうして皆、私の心を惑わせるの。私だって……一族を失った時のように誰も失いたくない。助けられなかった人達もいた。危険な目に遭っても構わない覚悟をしてるのに)

「何故、私が危険な目に遭うと、負けることが前提なのですか」

「え……?」


 予想外の反応に楓の腕の力が弱まる。霞の表情は髪に隠れてよく見えない。


「もし楓様が何かのために命懸けで取り組んでいるとしたら……私は止めません。存分に戦ってきなさいと見送ります。慕う者であれば尚更のこと背を押すでしょう。楓様は……そうしてくださらないのですか?」


 そう言って見上げる霞の瞳には復讐の炎が宿っていた。楓は霞を見下ろして心がぐらりと揺れた。腕の中、近い距離から上目遣いをされては堪らない。自分が作り出した状況が逆に自分の欲を思い出させるものになってしまった。楓は体を少し下げ、霞から距離を取る。


(俺が返り討ちにあってどうする!それにしても先ほどの言葉、まことのものとして受け取っていいのか)

「さすが楓様です。恋人の演技で私を止められるとは……。されど、私はそれ以上に化け物への復讐心の方が強いことをお忘れなく」


 そう言って霞は微笑んだ。それは伊吹との会話でみせるような、力の抜けた幼さが垣間見える笑みだった。

 楓は暫く呆けたように見つめていたが、諦めたように楓も笑みを浮かべる。


(ここは霞様のためにも演技だったということにしなければならないか……)

「分かりました。霞様に物語の解読は任せます。しかし言った以上は化け物の術に負けることは許しません。いいですね?」


 急に恋人の演技のような雰囲気で美しい笑みを浮かべた楓を見て、霞の腕に鳥肌が立つ。さりげなく霞の頬を手の甲で撫でられるも、霞は苦いものを食したような表情を浮かべることしかできなかった。


「も……もちろん。容易たやすいことです」

(急に色男いろおとこの笑み。こうも演技がうまいと時々どちらか分からなくなる。楓様のこの切り替えの早さ、怖いものがあるわね……)


 穏やかに過ぎ去ろうとしていた夜。ひとり、穏やかではない者がいる。


「霞……」


 伊吹いぶきは霞の局の前に座り、目をつぶって霞と楓が談笑する声と虫の音を聞いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る