第32話 結(3)

かすみとふたりで話したいことがあるから他の者は下がっていなさい」


 菖蒲あやめつぼね出仕しゅっしした霞を見るなり菖蒲は人払ひとばらいをした。他の女官達は何事かと霞をちらりと見ながら通り過ぎて行く。

 不躾な視線を感じながらも霞は菖蒲の正面にゆっくりと腰を下ろした。


「良かった。霞、今日は体調が良さそうね」

「はい。御心配をおかけしました。昨日、いとまを頂いたお陰です。重ねて感謝申し上げます」


 霞は姿勢を正し、深々と頭を下げる。そんな霞の様子を菖蒲は扇を口元に当てながらくすくすと笑う。


「そんなにお礼を言われるようなことはしてないわ。そんなことよりも聞いて!霞が欲しがっていた『ひめつばき物語』の原本について情報を手にしてきたわよ!」


 菖蒲の言葉に霞は素早く顔を上げた。


「この短い間にですか?」

「どう?少しは見直した?私すっごく頑張ったんだから」


 どこか誇らしげな菖蒲の表情が微笑ましい。その一方で菖蒲が本当にひめつばき物語の情報を集めてきたことに驚く。


(水仙様のことがあって怖がっていると思ったけど……まさか本当に協力してくれるなんて)


 霞は速まる鼓動を押しとどめるように菖蒲に話の続きを促す。


「早速お伺いしても宜しいでしょうか」

「私が女官達から得た情報では物語の原本を手にしているのは三人。ひとりは水仙様の女官、茉莉まつり様。もう一人は陰陽頭おんみょうのかみ空木うつぎ様よ」

(何故陰陽寮頭様が……?)


 持ち主の正体を聞いて霞が引っかかっているのに構わず菖蒲は言葉を続けた。


「それともう一人」


 菖蒲は言葉を区切ると霞の背後に視線をやる。霞もつられて背後を振り返った。

 御簾みすが外に控えていた女官達の手によって上げられると、驚くべき人物が菖蒲の局に姿を現す。


春蘭しゅんらん様……」


 うつむき加減で菖蒲の局に入室してきたのは第三王妃の春蘭だった。手には小さな黒いひつが見える。着物を引きずりながら優雅に霞の隣に腰を下ろした。櫃を自分の前に置くと深々と菖蒲に頭を下げる。


「ごめんなさい。原本は見たことがないと嘘を申し上げました……。ひめつばき物語の原本、第一巻はここにございます」

「ここに?原本が?」


 霞は黒い櫃に視線を向けた後、再び春蘭に視線を移す。


「恐れながら……春蘭様は何故そのような嘘をおっしゃったのですか?」

「それは……水仙の頼みでもあったからです。誰にも知られずに原本を持っていて欲しいと。実は貴方達の元にやって来たあの日からわたくしはずっと一巻目を持っていました」

「そんなに前から……。では『呪いの物語』の噂も春蘭様が?」


 霞の冷静な問いかけに春蘭は静かに頷いた。


「はい。水仙が教えてくれたのでそのまま他の者にも教えたらどんどん広まってしまって……。でも皆が楽しそうにしているからわたくしもそこまで気に留めることはしませんでした」


 奇怪きかいな話を好む女官達の姿を思い浮かべて霞はひとりで頷く。


「そんな時、偶然ひめつばき物語を読んだ者が体調を崩したことがあって……意図せず『呪いの物語』の噂は広まっていったのです」


 垂れ目に加えて、眉まで下がった春蘭の表情は見ている者が気の毒に思うほどだった。


「水仙がこんなことになって恐ろしくなっていたところ、菖蒲様にお声がけ頂いた次第です。……だますような真似まねをしてしまい申し訳ございません」


 春蘭が再び深く頭を下げたので霞はなるべく柔らかな声で話しかける。ここで厳しく責めたてては聞き出したいことも聞き出せない。


「お顔をお上げください、春蘭様。何も悪意があってのことではないでしょう。私達もこんなことになるなんて思いもしませんでしたから」

「こんなことを言うのはおかしいのですけど……こんなことがあって恐ろしいのにあの物語を手放したくないと思うのです」


 春蘭は扇を取り出すと自身の口元に引き寄せる。視線は床を彷徨い、どこか気まずそうだ。


「恐ろしいのに、手放したくないとはどういうことですか?」

「心の内をお伝えするのは難しいですね……。ひめつばき物語の原本には人を惹きつける何かがあるように思います。もしかしてこれが『呪い』なのでしょうか……」


 春蘭が酒に酔ったように黒いひつに触れた。その様子を霞は警戒する。水仙のようにいきなり正気を失い襲い掛かって来る可能性を考えたからだ。


(化け物の術にかかる前の状態かしら。それとも、もうかかっているのか……)


「写しと原本では何が違うの?物語の終わりに血文字の言葉が書かれているというだけ?」


 菖蒲の素朴な疑問に春蘭が首を横に振る。


「いいえ。ご存知かと思いますが……写しと原本で微妙に内容が違っているのです。写す者によって言葉の言い回し……そもそも物語の展開が変えられている場合もございます。その違いを楽しむのも物語を楽しむ醍醐味なのですが……『ひめつばき物語』の場合は違いました」


 春蘭の言葉に霞は息を呑む。

 人をなごませるような春蘭のおっとりとした声色こわいろが、今は緊張して強張っていた。


「写しでは読むことのできない部分があったのです」

「それはどのような内容なのですか?」


 霞の問いかけに春蘭は扇で顔を覆い隠して言いよどむ。


「それは……私の口からは申し上げられません」

「何故です?そんなに恐ろしいことが書かれているのですか?」

「色んな意味で恐ろしい……かもしれません。何せわたくが経験したことと似たようなことが書かれているのですから。

まるでわたくしの心の内に入り込んで書かれたような描写がすさまじくて……。他の方に語ることはとてもできません」


 春蘭はたどたどしく原本について語った。霞は心の中で原本の正体についておおよそ予測を立てる。


(なるほど。読んだ者を動揺させるようなことが書かれているのね。水葵みずあおい様は何のことやらと誤魔化していたけれど悪趣味な……)

「不思議なのは物語に恐れを抱いても手放したくない、続きが読みたいと思ってしまうことです」


 扇から少しだけ顔を覗かせた春蘭はいつの間にかまた黒い櫃に視線を移していた。


「続き、ですか?」

「最後の部分、続きがあるような終わり方をしています。……恐らく原本に続きが書かれていると思われるのですが、どうしてもそれを読みたいと思ってしまうのです。最後まで読んでしまえば水仙様のように正気を失ってしまうでしょうに」

「……」


 菖蒲の局に一時の沈黙が訪れる。重苦しい雰囲気を誤魔化すようにわざと明るい声で春蘭は口を開けた。


「ですのでこうして原本を探しておられる菖蒲様に引き渡しに参りました。どうか取り扱いにはお気を付けくださいませ。すぐに陰陽師に引き渡すのがいいでしょう。わたくしもこれからおはらいを受ける予定ですので……」

此度こたびは私の呼びかけに応じてくれてありがとう。怖かったでしょう?きっと私達が呪いを収めてみせるから」


 菖蒲のいたわりの言葉に春蘭は弱々しい笑顔を浮かべる。


「菖蒲様……ありがとうございます。こんなことを言うのは差し出がましいとわかっているのですが、どうか……。どうか、水仙のことを憎まないでください。あんなことをされては難しいかもしれませんけど。水仙はただ……幸せになりたかっただけなのです」


 深々と頭を下げる春蘭を霞は苦々しい思いで眺めていた。


「分かってるわ。水仙様は必ず救ってみせます。私達三人で後宮を、帝をお支えするんですものね!」

「……はいっ!」


 菖蒲の明るい表情、言葉でさっきまで鬱々としていた春蘭の表情を変えたのだ。春蘭は目じりを軽く拭いながら何度も頷いていた。


(菖蒲様には人を明るくさせるお力がある。私が思っていた以上に強い駒だった。とても私が扱えるようなお方じゃなかったのね)


 霞はため息を吐くと静かに頭の中に浮かぶ盤上に向かい合う。


(さて。まずは一巻目)

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