第38話

 真奈美の足が向かったのは家でも健吾のところでもなく、成海家の前だった。

 はたと時間が気になった。時計は八時。まだ迷惑にはならない時間だ。でもインターホンを押せない真奈美は、暗い道に突っ立ていた。はたから見れば、怪しい人物にしか見えないだろう。


 何度も押そうとしてインターホンに近付いては離れてを繰り替えていると、中から人の気配がした。そして引き戸が開くと、ぼんやりとした輪郭から男性だという事だけは分った。


「真奈美ちゃん?」


 その声を聞いた瞬間、目の奥で燻っていた熱が、一気に上昇して涙が止まらなくなった。

 颯太は何も言わず真奈美のところまでくると、そっと肩を抱き寄せて、部屋に通してくれた。ソファに座ると、颯太の胸に顔を埋めながら子供のように泣いた。そんな真奈美を何も言わずに颯太は抱きしめてくれる。


 少し落ち着いた頃に「大丈夫?」と声を掛けてきてくれた。顔を埋めたまま真奈美は、何度も頷きながら、息を整える。


「す、すみません……」

「いいよ」


 それだけのやり取りで、落涙はほぼ止まりつつあった。顔を上げると、すぐそこに颯太の顔があった。何秒か見つめ合ったあとだった。不意に颯太がキスをしてきた。

 

 あまり突然のことで突き放すこともできずにいた。次第に真奈美の口を割って入ってきた颯太の舌が、健吾とは違う動きをして、力が入らなくなる。それでも少し残っていた笙子と健吾の影のおかげで、弱弱しくも颯太の胸に掌を当て、押し返すことができた。

 唇が離れてれも、直ぐ正面で真奈美を見つめてくる目には、熱が籠っている。


「真奈美」


 そしてまた颯太は、唇を重ねてきた。

 この時真奈美は、考えることを放棄した。そして健吾への仮借ない気持ちと、笙子への後ろめたさはあった。しかしその気持ちが反作用するように真奈美の体に、何度も激しい波が打ち寄せては引きを繰り返した。


 あれから健吾とどう接していいか分らず、メールに電話、大学でも何となく避けるようになっていた。

 笙子にも、食事のやり直しをしようと言われていたが、颯太の事もあり、返事を曖昧にしている。


 そう。あれから颯太とは数回、肌を合わせてしまっていた。笙子を裏切っているという背徳感が、その度に頭を過っては消えていく。

 しかし真奈美の態度におかしいと健吾は気付いたのか、話をしたいと何度も家に誘ってきた。その度に理由を付けて断っていたが、このままではやはりいけない。きちんと健吾と向き合うことにした。そのことは颯太からも助言されていた。


 その日は特に湿気が多く、梅雨空は今にも落ちてきそうなほど、厚い雲に覆われていた。部屋に入った二人は、テーブルを挟んで座った。


「真奈美。どうして僕を避けるの? 何かしたかな?」

「――」


 どう切り出せばいいのか、真奈美は考えた。健吾もそれを察してか、口を噤んでいる。静かな部屋に、窓を細かく叩く音が響いた。

 窓に目をやると、とうとう抱えきれなくなった雲が、雨を降らし始めた。窓から見えていた景色は、直ぐに見えなくなる。


「健吾、年始にあったこと、覚えてるよね?」

「え? あ、うん」

「――ねえ、私に隠し事、してるよね?」

「え?」


 健吾の目が落ち着きなく動いた。ああ、やはりそうなんだと、真奈美はやっと持ち直した足が、崩れ落ちていく気がした。


「私、知ってしまったの。色々な女の人たちと健吾が……そういう関係だってこと」

「違う! それは!」

「それは?」


 前かがみなった健吾の体は、直ぐに元に戻った。正座をしながら、膝の上で作っている握りこぶし一点に見つめる姿は、悪い事をして怒られている子供そのもの。急速に真奈美の気持ちが、重力のように健吾に引き寄せられそうになる。真奈美は息を吸いこんで続けた。


「私、もう健吾とは」

「嫌だ! 僕には真奈美は必要なんだよ」

「じゃあ、どうして……」

「それは……」


 また健吾は口を閉ざした。今度は根気よく待つことにした。

 窓を叩きつけていた雨音が、少し柔らんだ頃だった。


「僕、真奈美が始めてだったから……怖かったんだ。嫌われるのが」


 それは真奈美も同じ。


「それは私も同じだよ」

「それはセックスした時に分ってるから……その、下手くそだとか思われたくなかった……」


 理由に驚いた。もともと健吾は、コンプレックスを持っていた。それは今も彼の奥底に根付いているのだろうが……影を薄めた元のコンプレックスに今度が新たなものが根付いてしまい、それが他の女の人たちとセックスをすることによって自信を付させていったという事だろうか。


「真奈美に嫌われたくない。嫌いにならないで……」


 ぽろぽろと涙を流す姿を目の当たりにすると、彼から離れようとする気持ちが失せ始める。もう一度、もう一度信じてみよう。


「ねえ。もう本当に浮気しない?」


 顔が勢いよく上がる。縋るような目で健吾は「もうしない。ごめんなさい」と言った。

 

 しばらくの沈黙のうち、様子を伺うように健吾が真奈美の膝に顔を埋める。膝に髪が当たってむず痒い。


「ねえ、いつもみたいに頭を撫でて欲しい」


 真奈美は言われた通りにする。細くて柔らかい健吾の髪。颯太は硬い髪だったと思い出した。真奈美は颯太とのことが、健吾のした事と変わりがないと気付いた。


「どうかしたの? 真奈美」


 手が止まったことを不思議に思ったのか、下から健吾が見上げてきていた。


「なにもないわ」


 健吾は、自分が傍にいてあげなくてはと思わせる。それは必要とされているという事。反対に颯太は、健吾とは違う安らぎを与えくれる。笙子に対して罪悪感はある。しかし、颯太も健吾も手放せない。

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