三日月



 バッシャーン

 派手な水音がした。派手な大失敗の音。

 音自体はどうでもいい。今日の雨はすごいですねー、なんて言えば誤魔化せるのだから。

 実際のところ、今こぼしたものは雨でもなければ水ですらない。

 非常に残念なことに、床に散らばっているのは不透明なペンキであった。

 ちょいと部屋の模様替えしてみようと思い立っただけなのに、想定外のところを模様替えされてしまった。

 ペンキを床にこぼしたといえば、誰もがその悲しみがけして浅くないことに気づいてくれるだろう。

 やつらは執念深くこびり付くし、臭い。執念深さこそペンキの価値でもあるが。

 さらに悲しいことに、床はもともとまっさらではなかった。わたし自身の2本足とは別に、住人がいたのである。

 いや、住人と呼ぶにはいささかよろしくない。とくに兄が聞いたら、もっと大切に扱え!と比喩ではなく雷を降らすだろう。

 非常に回りくどくなったが、そう、床には大事なものが置かれていた。今夜使う予定の三日月である。

 

 なぜ床に三日月なんか放置してたんだと言われたら、端的にいえばわたしがズボラだからである。

 机が山盛りで、ものを置くスペースが全くと言っていいほどなかったのだ。少なくとも、月を10も20も置けるほどはなかった。それで、床の上に置いておいたのだ。

 

 月というのは厄介なもので、毎日付け替えなければならない上にかなりささやかな違いしかない。見比べてみないと、一日違いの月がどっちがどっちか持ち主でも分からなくなる。

 こんなちょっとした日々の変化に人類が気づいているかどうかは甚だ疑問だ。

 正直、3日に一度変えればいいのではないかと思うのだが、兄は非常に神経質……いや真面目であるので、絶対に毎日変えるようにと主張していた。

「毎日じっと観察して、ささやかな変化に気がついてくれた時ってめちゃくちゃ嬉しいだろ」

 兄のこだわりは正直よく分からない。特に、日々太陽の軌道を少しずつズラしているのは一体誰得なんだと思ってる。やる方にも気づく方にもドン引きだ。

 こだわりはさっぱり分からないが、無闇に怒られるのも自室に踏み込まれるのも嫌なので、きちんと付け替えるようにしている。

 そういや、私の部屋に入るなと怒ったら、「もう反抗期か……」とべそべそ泣かれたのは記憶に新しい。やつがレディに対して配慮が無さすぎるだけである。なぜやつがモテているのかこれもさっぱり分からない。世界の七不思議に数えてやろうか。


 閑話休題。

 そろそろこの現実に向き合わねばならない。

 見比べるため、順繰りに置かれていた月たちであったか、見事なまでにペンキを被っていた。

 満月やら十三夜月あたりはまだ見れるみてくれをしているのだが、新月から半月にかけてが特にやばい。真っ青に染まってしまっている。

 どうしよう。四日月とか六日月だったらギリ誤魔化せたりするかもしれないが、十三夜月まですっ飛ばしたらさすがに愚鈍な人間たちにもバレる気がする。

 兄には間違いなく叱られるし、おやつは抜かれるし、最悪新しい弓を作ってくれる話が打ち切りになる。それは困る。

 かといって新しい月などそうそう作れるものではない。大きさにうるさい月だ、10種類くらい新調しようと思ったらひと月くらいはかかる。早くても2週間はかかる。

 大は小を兼ねるというが、デカい月たちにペンキを塗って急ごしらえの月でも作ろうかとも思った。が、これをやればあとが困る。今日だけでなくひと月は乗り越えねばならない。


 とりあえず、月職人に連絡をとることにした。

 かくかくしかじか説明してどうにか月を作ってくれと頼むと、まずは兄に相談しろよと怒られた。

「どんなに急いでも、2週間はかかるよ」

 渋い顔で予想通りのことを言われる。やはり、満月を塗りつぶすわけにはいかない。

 その上、そうこうしているうちに日が陰ってきていた。まずい、もう出番になる。

 考えに考えた末――迷案を思いついた。

 

 そうだ、満月をちょいと隠して調整すれば、いい感じに三日月ができるんじゃね?

 工作は苦手だからモノは作れないけど、手で隠すくらいなら今すぐできるんじゃない? と。


 早速十三夜月を掴んでそっと軌道にのせる。そして、ちょうどよく三日月っぽくなるように手で月の表面を覆った。

 そして気がつく。これ、一晩中がんばらないといけないやつだ、と。

 今までは、月を流してる間ひょいひょい地上を渡り歩いて遊び回っていた。こういう時しか外出できなからである。

 ところが今夜はどうだろう。延々と月のそばにかじりついていなければならないではないか。オマケに一瞬でも気を抜いたら人間たちに不審がられるだろう。

 とはいえ、もう始めてしまった手前、止めるわけにはいかない。

 これがあと2週間も続くのか……と思うとたいそう憂鬱であった。


 なんとか、月を運び終えて自宅に戻ると。

 文字通り烈火のごとく怒る兄が待っていた。

 それもそうか、あれだけ堂々と月を隠しながら歩いていたのである。兄には丸見えだっただろう。

 しらばっくれようにもあっさり部屋を開けられ、撒き散らしたペンキ跡を見られ(片付け忘れていた)、月の残骸たちも見られ――たっぷり怒られた。

「だから部屋は定期的に片付けろと言ってただろ!」

 月だけじゃなく生活習慣まで怒られた。どうにも、これは難しい問題なのであるが。

 さらに、手で隠すなど正確性がなど云々延々と説教されながら、兄は勝手に私の私物のハサミを使って厚紙をチョキチョキ切り始めた。

 なんでペンキなんか持ち出したんだとか、下に不要な紙を敷いておきなさいとか小言も連ねながらも器用に紙の形を変えていき――綺麗な十三夜月や十日月の形が次々現れた。

「手で隠すと綺麗なカーブができない。新しい月ができるまで、これを順番に満月につけかえて使いな」

 思わず目をぱちくりと瞬かせた。どうやら兄はわたしを助けてくれるらしい。

「それと、こういうのは最初に兄に相談してくれ」

 兄はまだプンスカ怒ってる。それも怒りポイントだったのかと思いながら、なるほど月職人が言っていた『まず兄に相談しろ』というのはこういうことかと理解した。

「ごめんなさい、兄様」

「分かってくれたか」

 ふぅ、と兄はため息をついた。

 その後心配していたおやつ抜きもなく、新しい弓を作ってくれる話も打ち切りにならなかった。その話をしたら、月職人には大いに呆れられた。わたしでも呆れるが、もちろん文句は無い。

 妹の私が言うのもなんだが、妹に対してめちゃくちゃ甘いが本当に大丈夫だろうか。むしろ心配して独り立ちするようになる方を狙ってるのだろうかと疑うレベルである。まぁ、わたしは遠慮なく甘えるけども。

 


 が、後日、あの夜指の間から月の光が漏れだしていたらしく、『異様な夜空』として人間たちの間で伝説になってしまっていたらしい。

 判明した瞬間から一週間、おやつ抜きになった。兄も一緒におやつ抜きをしていた。

 罰無いって話だったじゃん、なんで急に変えたのさと問い詰めると、歯切れ悪そうに「父上にバレた」と言った。

「何かミスしたら、罰がいるからな……」

 父上は人間大好きだからな、と呆れたように呻く兄を見て、やはりわたしはこの兄の妹なのだと思った。

 それと、ひょっとしたら兄もべつに人間たちなどさほど好きでもなければ神経質でもないんじゃないかな、とも。




 

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