12 最悪な初恋
「いらっしゃいませー!」
自動ドアが開いた音がして店内に来客が来たことに気が付いてた私がカウンター越しに声を明るく掛けたら、品の良い初老のおばさまはにこにこして頭を下げて微笑んでくれた。なんだか、可愛い。
ゆうくんが私に紹介してくれた日雇いのバイト先というのは、私がなんとなく想像をしていたようなイベサーの裏方事務作業でも、なんでもなかった。
意外なことに彼の実家だという、代官山にある可愛いケーキ屋さんの店番だった。そして、お母さまである店長は、私が店番をしていてくれたら月末に向けての事務作業が捗るし助かると言って、手を叩いて喜んでくれた。
接客業初体験のこんな私でも、役に立つと言って貰えれば、とても嬉しい。
仕事の内容は、そんなには難しくない。お客様にショーケースにあるものを選んで貰って、苺のイラストがプリントされた紙製で出来たケーキ箱へと詰める。そして、レジでのお金のやりとり。
最初は何もかもが少し緊張してしまったものけど、二日程空いている時間いっぱい働いて慣れて来たら、だいぶ楽になった。
ここはゆうくんのお母さまが趣味でやっている良い素材を使用していることが売りの拘りのお店で、ケーキの種類は定番のものと季節の限定のみで、普通のケーキ屋さんよりもかなり少ない。
けど、小さなお店なのに結構繁盛していて、お客さんの出入りはひっきりなし。値段はすべて統一されているから、お金のやりとりしやすく買いやすいのも良いのかもしれない。
その日は、まだ閉店時間にはなっていなかったんだけど、ショーケースに出していたケーキが、全部売り切れてしまった。
となると、もうケーキ屋としての営業は出来ない。
私から完売報告を聞いて売り切れる程度の量しか作らないので良くあることだからと微笑んだ店長から、売り切れ御免の立て看板を出して店じまいをしようと言われたので、私は店の外で掃き掃除をしていた。
「……初音?」
「かっちゃん……久しぶり」
いきなり名前を呼ばれて振り向けば、幼馴染で元彼の北村克平だった。
黒縁眼鏡のレンズの向こうにある目は、あの頃から変わらずにキラキラしている。かっちゃんの容姿は、一言で言ってしまえば眼鏡を掛けたインテリ。顔立ちは割と整っていて、イケメンと呼んでしまっても差支えないと思う。
付き合っていたことは事実だけど、高校時代に彼も私も大学受験で忙しくなって疎遠になっていた隙に、私も顔を知っている可愛い同級生の女の子と堂々と浮気をしていた。
そして、それが発覚し彼に対する気持ちが冷め切ってしまった私は、かっちゃんとの別れをはっきりとさせ話し合うこともなく連絡を断ち、今に至っている。あの後、私に浮気がバレたことを知ったのか、かっちゃんからも私には一切連絡をしなかった。
そうして、私の最悪な初恋は終わってしまった。
「えっ……何。初音、眼鏡止めたの? 髪も染めて、パーマかけた? すごく……可愛くなった」
そういえば高校を卒業して以来、かっちゃんとは一度も会ってなかった。
あんなことになってしまったから当たり前だけど、同級生が気を使って彼が来るような集まりにも私は呼ばれない。幼馴染だけど自然消滅してそのままの関係解消で、私はもう二度と会う事もないだろうと思ってた。
「うん。大学に受かってから、コンタクトにしたんだ。かっちゃん、確か、藤大受かったんでしょ。噂で聞いたよ。頭良かったもんね。今になってなんだけど、おめでとう」
数年前の大学合格のお祝いを聞いて、かっちゃんは苦笑した。
かっちゃんは、小学校の頃から頭が良い頭が良いと周囲から持て囃されて評判だった。テストでは、常に一番だった。けど、そんな彼でも日本で一番の大学、藤大に入れるのは素直に凄いと思う。
かっちゃんとの恋がもう見えないくらい遠い過去となってしまっている私は、何の感傷に浸ることもなく箒を片手に微笑んだ。
「……うん。初音は、確か優鷹だっけ。すごいよ。本当に、頑張ったんだな」
かっちゃんは誰からか聞いたのか、私の進学先を知っていたようだ。あ。情報源は弟の銀河かもしれない。姉の私なんかより断然頭の良かったあの子は、実はかっちゃんと同じ藤大に通っているのだ。
最悪の別れ方をした私には何も言わないけど、銀河にとってもかっちゃんは幼馴染で懐いていたお兄さんなので同じ大学に通っているとあれば交流があってもおかしくはない。
頭の良いかっちゃんが好きだった私は、必死で勉強し彼の後を追って中高一貫の名門校へと通った。補欠合格とは言え、日本が誇る有名私大のひとつ優鷹に入る事が出来たのだって、そこで培った勉学の賜物だ。
今はもう、感謝しかない。だって、優鷹に通っていなかったら、私は芹沢くんを一度も見る事すらない人生だったかもしれない。
「ふふ。ありがとう。あの、かっちゃん。もしかして、ここにケーキ買いに来たの? 今日はもう全部、はけちゃってないんだ。ごめんね」
「いや……ここは人気店だって、口コミで見たから。多分そうかなって思いつつ、ダメ元で来てみたんだ。何も、問題ないよ。初音って、ここでバイトしてるの?」
「そうそう。実は今週だけの期間限定なんだけど、ちょうど会えて良かった。午前中だったら、人気のショートケーキも残ってると思うから。また、良かったらよろしくね」
話のキリはここで良いだろうと判断した私が手を振って箒を手に持ち、店内へと戻ろうとしたらかっちゃんは私の手をぎゅっと握った。
「初音っ……」
「……え? ど、どうしたの? かっちゃん」
「俺、お前のこと……ずっと、忘れられなかった。初音が実家に帰省したら銀河にお願いして、会わせて貰う手筈だったんだ。こんなにも、可愛くなってたなんて……お願いだから、復縁してくれ!」
「え? 嫌だよ……ごめん。普通に無理」
自分が浮気した癖に今更ものすごく調子の良いことを言い出したかっちゃんを、私はばっさりと切り捨てた。
あの頃に彼のことがすごく好きだったのは、確かに事実だけど。正直今は、もう触られている部分も鳥肌が立ちそうだし、非常に気持ち悪い。
今までに予想だにしなかった復縁希望も合わせてもう完全に、彼と付き合っていた過去すべて黒歴史と化してしまった。
「初音っ……なんで」
涙ぐみそうな様子も、なんか無理。やだ。ぞわぞわとして身体中の肌を駆け抜けていく、不快感。
「なんでって……私、もう付き合っている人が居るから。それに、かっちゃん、あの時に浮気してたでしょ。そんな人と復縁したい人なんて……居ないよ。私。そういうの、本当に迷惑だから。ごめんなさい」
早く放して欲しいと言わんばかりに、私は強めに手を引いた。その気持ちが伝わったのか、かっちゃんは悲しそうな表情で何も言わずに背を向けて去って行ってしまった。
昔は好きだったかっちゃんが悲しそうにしていると、私もただそれだけで泣き出したくなるくらいに辛くなってしまったものだ。私は共感性が高いのかもしれない。
でも、今はもう、すべてが過去になってしまった。
芹沢くんがもし悲しそうにしていると、泣けてしまうと思う。だって、推しにはいつも世界一幸せで居て欲しい。彼が世界に存在しているというだけで、私が幸せを絶え間なく貰っているから。
「初音ちゃん! もう、看板出したら、上がって良いからね。お疲れ様ー!」
「あ。はい! お疲れ様です」
ショーケースを拭き終わっていた店長は明るく言ってから、私に手を振った。ゆうくんがあんなに可愛い顔の理由は、彼とそっくりな彼女からの遺伝だということは一目見ればすぐにわかってしまう。
年齢不詳の、可愛い系の美魔女。大学生の年齢の息子が居るなんて、信じられない。元々の作りが全然違うとは理解しつつ、私もあの年齢の頃にはあんな風になれてたら良いな。
私は荷物を置いていた事務室へと向かい、私服に着替えた。何気なく鞄の中にあるスマホを確認してみると、メッセージの通知がいくつか来ているようだった。
「……ん?」
一つ目の芹沢くんのメッセージは、ゆうくんに誘われていた飲みに今から行ってくるねっていう報告だった。推しが、私に気を使ってくれてる……真面目な彼らしくて、好感度が上がるしかない。これだけで、胸キュンしちゃう案件。
芹沢くんはもしかしたら私をキュン死させるために送り込まれた、刺客なのかもしれない。怪しげな黒づくめの服とか、似合い過ぎるしこちらにとってはご馳走でしかない。
……やばい。最高。芹沢くんのそんな格好をしているという想像だけで、ご飯は何杯か軽くいけちゃう。
そのすぐ後にあったゆうくんからのメッセージを見ると『みーちゃん、芹沢に来週ご飯行こうってちゃんと誘ってる?』と、書いてあった。
その時、私はようやく気が付いた。芹沢くんの誕生日プレゼントを買うことだけしか考えてなくて、お金を稼ぐことに精一杯になり、肝心な主役の予定を押さえるのを完全に忘れてしまっていた。
芹沢くんだって……付き合うことになったと言えど、彼は彼なりの交友関係があるのだから、早々に誘わないと予定が埋まってしまうかもしれない!
『ううん。誘ってない。誘うの、忘れてた。ありがとう。今から、誘ってみる!』
『りょーかい』
ゆうくんのメッセージは、いつも用件のみの短い文章だ。男の人って、そんな人が多い気がする。芹沢くんや、弟の銀河だってそうだし。そして、恋愛マスターの美穂ちゃんは、ウザがられないように頻度や文章量を向こうに合わせるようにと忠告をくれた。
けど、私は出来たら芹沢くんとは延々メッセージのやりとりをしたい。なんでもないラリーが楽しくて続き過ぎて、気が付けば朝になっていましたなど、とてもしたい。
芹沢くんが今頑張っている司法試験が終わったら、なんだってしてみたい。それが数年後でも、彼のことならぜんぜん待てる。その頃の二人は、もう同棲してたりして……なんかもう、本当に夢みたい。
そして、危うくまた幸せな妄想の世界の住人になり掛けていた私は、慌てて芹沢くんの誕生日の予定を早めに押さえるべく、スマホのディスプレイに指を滑らせた。
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