玖 一向一揆に並ぶもの
天海は早々に出家したことで命拾いをしていたことに胸をなでおろした。だが、切支丹は気の毒だと感じた。
特に、娘の伽羅奢は七十を超えたが、未だに基督教の信仰を続けていた。
他にも、賤ヶ岳の戦い以後から光秀の家臣となった黒田家は、官兵衛、長政、忠之と三代で基督教を進行していたが、過酷な切支丹弾圧により、ついに仏教への改宗を宣言した。
だが、これは表向きの話で、実際は光秀が寛永寺に基督教の教会とは思えない外見の教会を建て、参勤交代のときにそこで隠れて信仰していた。
そして、忠之は仮に切支丹による一揆が起きたら出陣要請が出ても頑として応じないことを決めた。
「天海殿。ちと、よろしいか」
「何でござるかな」
「儂は切支丹による一揆が起きても、出陣要請に頑として応じないこととする。たとえ、黒田家が改易されようとも」
「改易されては駄目ではございませんか。改易されない程度に逆らうくらいの方が意外と重用されるのじゃ」
「なぜわかる」
「周りが反対しなくなってくるからじゃ」
「だから、正直な意見を言ってくるほうが逆に重用されると」
「そういうことか」
忠之は寛永寺から出ていった。
この直後、福岡藩でお家騒動が起きた。
忠之と福岡藩の筆頭家老である栗山大膳との対立から、幕府までも騒がせる大騒動となった。
忠之と大膳は江戸城に呼び出され、それぞれ尋問を受けた。
「貴殿が福岡藩主黒田右衛門佐忠之殿だな」
「如何にも」
「この騒動が起きたのは何故だ」
忠之は熟考した。忠之には身に覚えがなかった。大膳が事を大きくしただけなのだ。責任は大膳にあった。
「此度の騒動、全ては大膳の責任である」
「なんと」
意外であった。忠直からも、他の役人、幕臣らの噂話からも、責任は如何にも忠之にあるかのような言い方であったからである。
「だが、藩主として、経緯だけでも話して置かなければなりますまい」
「経緯?」
役人はこの騒動は経緯など無い騒動だと思っていたからである。
「ああ。此度の騒動が起こった経緯だ。大膳がな、儂に対して子供を諭すような内容の書状を送りつけてきおった」
「その内容を、覚えている限りでお聞かせ願いたい」
役人は、その内容によって、この騒動は幕府が乗り出すほどのことではないと、忠直に伝えるつもりである。
「元服を済ませた者なら皆心得ていることよ。例えば、飲酒の心得や、早寝早起きなどだな。だが、その中でも一番驚いたのは、藩主であろうと先代から認められていないのだから、政治に一切の口出しをするな、というものであった」
「認められていない?」
役人はこれまた驚いた。認められていないのなら、藩主になどなれないからである。
「これは大膳の嘘ぞ。儂の弟の長興に家督を譲ろうとしていた父に対して、血判状を送りつけたのじゃ」
「それは・・・」
「儂に家督を譲らないのであれば全員切腹する、という少し脅しまがいなものだ」
「まさかその中に・・・」
「ああ、大膳も入っておった。」
役人は驚いた。政治を牛耳りたいのなら、仮の当主を擁立するよりも、一門を根絶やしにして、筆頭に政治の権利を無理やり譲らせるなど、方法はいくらでもあったのだ。
「それが何故・・・」
「わからぬ。まあ、儂は大膳が政治を牛耳りたいのではないかと思っておるのだが」
「何故・・・」
役人には大膳のやろうとしていることの訳がわからなかった。最終的には家督は忠之に譲られたのだ。
壬申の乱のように戦に発展するほどになったならわからないこともないが、少なくとも、黒田忠之と黒田長興との間で戦が起こったなどの情報は一切入っていなかった。
「最後までほとんど認められていなかったような者を当主に据え、そのことを理由にして、死ぬまで政治に口出しさせずに、筆頭家老である自分が藩主の名義で政治をする。しかも、自分が得をするような政治をな。完璧であろう」
「なるほど・・・」
思わず、役人は納得してしまった。
「大膳は狂人ぞ。お主が尋問をするなら刀を持たせるな。くれぐれも気をつけよ」
「ご忠告、痛み入りまする。では、これにて黒田右衛門佐忠之殿への尋問を終わりとする。大膳を連れてまいれ」
これによって、忠之の尋問は終わった。そしてその後、刀を没収された大膳が入ってきた。
「これより栗山大膳亮利章殿の尋問を行う」
「早く終わらせてくれよ」
「それはお主次第。では、尋問を開始する。まず、此度の騒動、何故起きたものか」
「藩主の忠之が全て悪い。忠之は筆頭家老を陥れようとする大悪人ぞ」
尋問を行っていた役人は訳がわからなくなった。忠之とは全く違うことを言っているのだ。
「しかも、忠之は幕府転覆を謀っておる。早急に将軍忠直様に伝えよ」
大膳は、あくまで自分は悪くなく、あくまで責任は藩主にあると言っている。
だが、大膳は、自分を陥れようとする忠之を嫌っている。それに対して忠之を非難することは平気で行っている。それを見ていて、役人は大膳に不信感しか覚えなかった。
そのため、役人はもう聞くことはないと思い、尋問を終わりにした。
「これにて栗山大膳亮利章殿の尋問を終わる」
早く終わったことに、大膳は嬉しがった。これで忠之が失脚すると思い込んだのだ。
そして、そうなれば福岡藩の政治を牛耳ることができるとほくそ笑んだ。
だが、幕府の沙汰は、大膳が思い込んだものとは真逆であった。陸前盛岡藩への流罪であった。
大膳は納得がいかず、幕府に訴え出たが棄却され、泣く泣く盛岡藩に移動した。
盛岡藩では、福岡藩で受けるかもしれなかった待遇よりも、もっと酷い待遇を受けた。散々誹謗中傷されたのだ。
「主君を何とも思ってない人非人」
主家を滅亡させかねない非道な讒言を行った大悪人と、藩主の南部信濃守利直からも言われ、一生こき使われた。
それに耐えかねたのか、大膳は寛永九(一六三二)年、江戸の桜田屋敷に忍び込み、利直を暗殺した。
これには忠直も大層怒り、栗山大膳は人ではないと憤慨し、翌年の寛永十(一六三三)年、大膳は死罪を言い渡され、処刑された。遺体は忠直の命で江戸の一番近くにあった湾に投げ捨てられた。
だが、栗山大膳の恨みなのか、その湾は、しばらくの間異臭を放った。
この苛烈な処置に各藩の藩主のみならず藩士までもが震え、逆らえない、逆らったらどうなるかわからないと確信した。この黒田騒動は、忠直の権威を確立するきっかけにもなった。
寛永十一(一六三四)年から、藩校で習うことに「将軍に逆らわない」という内容が追加されたほどであった。
天海は、農民は武士よりも強いと思っている。
一揆は、武士に逆らう気がないとできない所業である。だが、戦乱の時代、特に天海が信長のもとで東西に奔走していたときは、一揆など日常茶飯事であった。
しかも、その一揆がなかなか鎮圧できないことのほうが多かったのだ。織田軍の猛攻に何年も耐えた一揆だってあった。特に、一向一揆にその傾向があった。
信長を「仏敵」と罵れば、それだけで意思疎通ができるとまで言われたほどであった。
農民は、武士の下で応仁・文明の乱以来何百年も働いてきた。それで忍耐力がつけられたのだろう。
そして、農民に対して重税や幕府がしてもいないところまで達した切支丹弾圧など、農民に対して新たな課題のようなものが出てきた。
その藩の藩主は、島原藩の松倉長門守勝家、唐津藩の寺沢兵庫頭堅高である。
松倉勝家は、年貢を民に残らぬほどに搾取、そして納めなかった者、それがたとえ飢饉で納められなかった者だとしても、収めなかったことには変わりない、という理由で蓑を着せ、それに火をつけ焼き殺した。場合によっては家で生きたまま焼き殺された者もいた。
そして、藩の記録には「切支丹を見つけたため、処刑した。」と記し、証拠を隠滅するなど、悪行の限りを尽くしていた。
寺沢堅高も、島原藩ほどではないが、似たようなことを行っていた。
これに耐えかねたのが、島原で隠遁生活に似た暮らしをしていた牢人たちである。
この牢人たちは、関ヶ原合戦のときに何故か足利方についた小西行長の旧臣である。
益田甚兵衛好次、森宗意軒、蘆塚忠右衛門、大矢野松右衛門らであった。
そして、その者たちは好次の息子である四郎時貞を姓を天草とし、一揆の総大将とした。
この後、この天草四郎時貞を総大将とした一揆は、九州で大きく発展し、ついに幕府が乗り出すほどとなった。
四郎は伝説をいくつも持っている天童である。いや、神童と言っても過言ではない。
伝説はあくまで切支丹が作り出したと思われるのだが、それにしてもすごい。
四郎が手を伸ばすと、空から鳩が舞い降りて、その鳩が産んだ卵から切支丹の経文が出てきたというのだ。
天海はそれを聞いただけでも驚いた。だが、それを超えるものも、四郎は持っていた。
海の上を歩いたというのだ。十人の話を聞き取り、それぞれの質問に答えたとされる聖徳太子でさえ、海の上を歩いたなどの伝説は聞いたことがなかった。
他にも、四郎は手を当てただけで病気を治す、顔から顎にかけての線まで治すなど、天海には、いや、他の人も驚くようなものがあった。
「指導者としては一番似合っておる」
皆を惹きつけられるような伝説や逸話などの持ち主が指導者に一番にあっている。指導者は、人を惹きつける者でないと人はあまりついていかない。天海はそう考えていた。
信長も、家康も、秀康も、忠直も、そのような伝説は持っていなかった。だが、信長には伝説はなくても、自然と人を惹きつける何かが出ていた。家康のところには逸話のようなものはあるが、どれも不気味なものばかりであった。
家康の父、松平大納言広忠が、家臣の謀反の際、村正で命を絶たれた。また、家康の子、岡崎三郎信康が村正で介錯された。
このような理由から、家康は村正は徳川家を呪っている、と決めつけた。
他にも、家康が秀康に将軍職を譲ってから隠居した駿府城にて、よくわからない怪物のような、人間の頭のない上半身のようなものが発見された。しかも、それは動いていたため、人間ではないことは確かであった。
家康はそれに対して山に捨ててくるように命じ、それ以来、それは姿を現さなかった。
これは忠直が将軍になってから「肉人」と呼ばれ、食べるとそれまで以上に武術に秀でるようになるというが、まだ食べたものはいないので定かではない。
このような気持ち悪い逸話しか、徳川家には残っていない。それに対して、四郎は、色々な人が、特に切支丹がついてきそうな逸話を持っている。それは、徳川家にとって、羨ましいことなのではないだろうか。だが、それと同時に切支丹は幕府の敵である。幕府の敵の集団なのだ。殲滅しないとも限らなかった。
その妬みから全力で潰しに行って完敗することを天海は危惧した。
天海の危惧は当たった。
忠直は天草の一揆許すまじと言って全力で潰しに行った。
一揆勢は三万七千人を集め、島原藩の島原城、唐津藩の唐津城を落とし、計六万にまで増えた。そして、島原城には森宗意軒、益田好次が、唐津城には大矢野松右衛門、蘆塚忠右衛門が、そしてその後本拠地とした廃城の原城には四郎が、それぞれ二万が籠もった。
そのため、城を落とされた松倉勝家と寺沢堅高は、兵を集められず、そのために鎮圧作業にも加わることができなかった。しかも、黒田忠之も島原城と唐津城の惨状を見て、鎮圧作業に加わることを諦めたため、幕府方の圧倒的劣勢であった。
だが、それでも寺沢堅高は何とか幕府に気に入られようと唐津藩の藩士で、天海の娘婿・秀満の遺児である三宅藤兵衛重利を派遣した。
忠直は、無理な命令を押し付けた。鍋島侍従勝茂に、一揆勢を鎮圧しろと命じた。
だが、勝茂にはそのようなことはできなかった。今、戦が終わりつつある世の中、城に兵を蓄えている藩など、あればいいところである。佐賀藩は将軍への忠誠を示すため、兵を一人たりとも集めていなかった。
だが、命じられた以上はやらなければならない。佐賀藩は、何とか五千の兵を集め、支城から落としていくことを決めた。
そのため、軍議では島原城と唐津城のどちらを先に落とすかを話し合っていた。
色々話し合った結果、まず唐津城を落としてから、島原城、最後に原城を落とすと決めた。
だが、勝茂はそのようなことは実現できないとわかっていた。何しろ一揆の総勢の十二分の一なのだ。島原城が落とせればいいとろこだと思っていた。
だが、一揆勢は手強かった。
唐津城の大矢野松右衛門が、元武士と言うだけあって、ものすごい抵抗を見せたのだ。
勝茂がやっとの思いで唐津城を落とした頃には、もう軍は千も残っていなかった。
そこで、唐津城に援軍にやってきた一万の森宗意軒の軍に蹂躙され、勝茂の軍は殲滅された。その時、三宅重利も戦死した。
勝茂が佐賀城にたどり着いた頃には鎧もぼろぼろで、とても藩主らしくなかった。
しかも、援軍にやってきた宗意軒の軍は一人も傷ついていないのだ。宗意軒の軍はそのまま唐津城に入城した。
忠直はその状況に憤慨した。忠直は、薩摩藩の島津忠恒に二万の兵を預け、唐津城を攻めさせた。
忠恒は二万の兵を唐津城に突撃させ、宗意軒の軍に多大な被害を与えた。
そのまま、城内に突入し、天守閣を占拠し、落城させた。宗意軒は島原城に逃亡した。
だが、忠恒の方の被害も目をつぶっていられるものではなかった。唐津城の戦だけで五千を失ったのだ。この後には、無傷の島原城一万の兵と、本拠地原城の二万の兵が残っている。
忠恒は、ここから三万の兵と一万五千の兵で戦わなくてはならないのだ。忠恒の方にせめて一揆勢の八割は欲しかった。
だが、一揆勢の八割なら今の軍に九千の兵を加えることとなる。とても、忠直から忠恒の軍のためにそこまではできなかった。
忠恒は、島原城を落とし、そこで徴兵し、そこから原城に向かうこととした。やっと、五千の兵を撤兵し、忠恒の軍は二万となった。
島原城も、忠恒の想像以上の抵抗を見せた。二万と一万の対決なのだ。あまり兵の差がないため、一揆勢は五千の被害を出したものの、忠恒の軍は半年の戦いを繰り広げ、ついに壊滅した。
忠直は、忠恒と勝茂に雪辱を果たしてみせよと命じた。島原城を落として見せよということである。
「僭越ながら、忠直様が我らに預けてくださる兵は・・・」
「なに、島原の残りの兵は五千なのだろう?佐賀と薩摩の兵力を足せば五千など容易であろう」
「なれど、島原を落として終わりではありませぬ」
「左様。まだ原城も残っておりまする」
忠直は、自分に反対する者は嫌いであった。
「うるさい!命じたぞ!」
こうして、第三次合戦が始まった。
忠恒と勝茂は、協力して何とか二万の兵を集めた。
二万の兵は、島原城の五千の兵を壊滅させ、城は落ちた。だが、島原城を落としたときには兵の数は一万五千となっていた。
それに対して、原城には無傷の兵が二万も残っている。
二人は話し合って、勢いはこちらにあるにしても、追撃をかけて負けては意味がないということで、一時島原城で休むこととした。
「忠恒殿。一万五千では、この一揆の強さ、勝てませぬ」
「そうですな。しかも、あちらは二万。せめてこちらに二万、余裕を持って三万はないと・・・」
幕府方は、深刻な状態となっていた。
兵を集めながら島原城で休んでいるうちに、一揆が蜂起してから一年が経っていた。
だが、原城の方も決して優勢というわけでもなかった。
原城の兵糧が尽きたのだ。一揆勢は慌てて兵糧を買ったが、原城に戻った頃には、既に五千が幕府方に投降し、一万五千となっていた。
この情報は、島原城を元気づけた。
「忠恒殿。攻め入るには今しかありませぬ」
「これ以上、武士を舐めてもらっては困りますな」
こうして、島原城の兵は出陣した。
一揆勢は焦っていた。
「四郎様、この原城、既に一万五千の兵に囲まれておりまする」
「今いる兵の数は」
「多くて一万五千」
「相手と同じか・・・」
「四郎様・・・」
四郎は、少し考えてからこう言った。
「切支丹弾圧と、年貢の搾取を止めることを条件に投降しよう」
忠恒も勝茂も民を思って良い政治を行っていた。忠恒も、勝茂も、農民、町民には優しく、武士には容赦のない、そのような人物であった。その二人が総大将を務めているのだ。飲まないはずがなかった。
このような中、幕府の猛攻に何度も耐えたことを敵ながら天晴れとされ、天草四郎、益田好次、森宗意軒、大矢野松右衛門、蘆塚忠右衛門は佐賀、薩摩藩に雇われた。だが、その情報は幕府、特に忠直には極秘とされた。発覚すれば、改易どころでは済まないと考えたからである。
一方、改易どころでは済まなかった大名もいた。島原藩の松倉勝家、唐津藩の寺沢堅高である。
勝家は、忠直から一族共々斬首刑を申し渡された。江戸幕府が治めていた中で、斬首刑は勝家一人である。しかも、元島原藩士で、殉死者はいなかった。民にも、部下にも慕われなかった、藩主の最期であった。これにより、島原藩自体、取り潰しとなった。
堅高は、一揆の本拠地となった原城の近くにある有明海に行き、そこで入水自殺をした。これもまた、珍しい事例であった。また、島原藩同様、唐津藩も取り潰しとなった。
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