10、再会
カレン・トーラントの劇場は百年前、町の五十周年記念に建てられたもので、当時の職人たちがいかに張り切っていたかは今ある劇場を見れば明らかだった。海沿いの大通りから海の上へ突き出した形の土台が組まれ、あらゆる絵画や彫刻で飾られたカレン・トーラントの劇場は、まるで女神の――もちろん、詩神たちだ――神殿のようだと当時から現在まで名高い。
舞台を観に来る人ばかりでなく、大階段を上った両脇の妖精の像を興味深げに眺めている人もいれば、広い玄関の隅の方で百年前の建築技術を熱心に写生している画学生もいる。普段からこの劇場は芸術を愛するすべての人に広く開かれていたが、祝祭ともなるとさらに見物人が増えるのだった。
「なんたって人が多いよ」
セヴィアンを関係者入り口に案内するためにやって来たスオロが、鍵の束を持って声を張り上げた。スオロは歌劇団の中でも低い音域の担当で、張りのある力強い声の持ち主だ。しかし、人ごみのざわめきが吹き抜けの天井に好き勝手反響する玄関ホールでは、彼の声も自由に通らないのだ。
スオロは歌うとき以外はあまり大きく動かない口元を、不機嫌そうに少し歪めた。色黒で背が高く、死神だの厳格な国王だのをよく任される彼は見かけの威圧感に反して温厚な青年なのだが、この日は緊張のためか舞台を下りていてもただならぬ険相を目の辺りに持っていた。
「これじゃ、誰がいても分かりゃしないじゃないか……」
「君は何の歌で出るんだい。『暗き森の妖精の王』とか? 」
スオロに心配ごとが増えて眉間の皺が深くならないようにと、セヴィアンは質問した。この問いは大成功で、スオロはよく聞いてくれたとばかりに頷いた。
「もちろんそっちも歌うよ。〈妖精王バルドン〉はおれの当たり役だからね。でもそれだけじゃない――おれは『デルトーレの賢女』の賢女さまの恋人役なんだ。伝説の中じゃ、色が黒くて鷹みたいな目をした若者ってことらしいから。今回はガラ・コンサートだけど、ちょうどおれも歌う曲が選ばれたんだよな」
「すごいじゃないか」
確かに彼の容貌ならぴったりだとセヴィアンは思った。スオロはまんざらでもなさそうに頬をかいた。
「もともとの配役は、アリアが賢女さまで、ディーナが女神の船で賢女さまを助ける船長。ライアットが海軍の将校。そしておれが、賢女さまの恋人だ。君は観て――ないよな。アリアの治療について行ってくれてたんだもんな」
「興味はあるんだけどね……でも、今回のコンサートでアリアが歌うところも見られるんだろ? 」
「もちろん。聴いたことないなら絶対聴いた方がいいぜ。昔、賢女役が十八番だったリーツェ・ミュセッティって人がいたんだけど、アリアはリーツェ再来って言われているんだ」
スオロは舞台芸術に明るくなさそうなセヴィアンに〈歌姫〉リーツェ・ミュセッティについて語りはじめた。
「本当に人気のあった人みたいでさ。天上の歌姫なんてあだ名があったくらい。着てた服の型が流行ったり……若いうちに事故で亡くなったんだけど、うちの団長が友だちだったって言ってた」
スオロは鍵束から一番小さな鍵を探し出し、玄関ホールの端で、ほとんど壁の一部になっている扉の鍵穴に挿し込んだ。取っ手はなく、スオロは挿したままの鍵の頭をもう半回転させて扉を押し開けた。
衣裳部屋と楽器庫と会議室が合わさったような、ごちゃごちゃした縦長の部屋だった。部屋のほとんどを占領している木の机には、仕立てかけの衣装と完成図(〈花の精〉と書いてある――「奔放すぎないスカート丈で」)、台本、楽譜、出演者名簿などが散らばっていた。
大きなはめ殺しの窓からは噴水のある中庭と、こちらの部屋と同じように窓のついた細長い建物が見える。どうやら、中庭から入れる回廊のようなものらしい。ちょうどカレン・トーラントの町内楽団が特別公演をしている時間で、庭に人は少なかった。
「あの扉から外へ出られるんだ」
スオロは机だの衣装かけだのを飛び越した先にある扉を指差した。取っ手のある普通の扉だ。庭を挟んだ向かいの建物には同じ位置にアーチが作られていて、扉はついていなかった。
「この部屋、小道具や何かが揃っているわけじゃないんだね」
セヴィアンが部屋を見回しながら言うと、スオロはまあなと頷いた。
「控え室や楽屋や衣裳部屋は別にあるんだ。この劇場、舞台がふたつとも下に作ってあるだろ――海の中に。本番で使うものは三日くらい前からそっちへ移されるんだぜ。ここはまあ、物置みたいなもんだ……ほらな。名前だけは立派についてる……打ち合わせ室、だってさ」
スオロは館内図を広げて現在地を指さした。セヴィアンも横から覗きこんだ。玄関ホール、売店、カフェ、食堂、入場券売り場、衣裳部屋。地下へ下りて、第一、第二劇場、控え室、楽屋、楽器庫、リハーサル室、医務室、厩舎、鳥小屋、水質管理室。階段、通路、窓、扉などなど……。
「ややこしいなあ。めまいがするよ」
「まあな。カレン・トーラントくらいの規模の町はたくさんあるけど、この劇場はよそと比べてもかなり立派だよ。で、このややこしい大劇場で、大勢が働いてるわけだ。劇場の中だけでだぜ。出入りの業者や、おれたちみたいな旅回りの歌劇団の連中を含めれば、一日に何百人も出たり入ったりしてることになるな」
「でも、その何百人もがアリアをつけ狙ってるわけないしね」
「いや、そうでもないぞ」
セヴィアンは冗談のつもりだったのに、スオロはまじめな顔で眉をひそめた。
「こういう目立つ仕事をしてると、ひどい目にも遭うんだぜ。劇場の外で待ち伏せされたり、変なものを送りつけられたり、下手すりゃつきまとわれたりね。妙なやつが多くて困るよ。衣裳の宝石を狙って、空き巣に入るやつだっているんだぜ」
セヴィアンは呆然とした。言われてみれば、確かにその可能性は十分にある。
「……どうするんだい、それ? 」
「まあ、人気の証みたいなものでもあるから……なるべくひとりにならないように、みんなで気をつけるのさ。旅回りだろうが、劇場つきだろうが変わらない。リーツェ・ミュセッティの事故のときも、リーツェの結婚を許せないやつがやったんじゃないかって話があったらしい」
「事故じゃなかったってことかい? 」
「一応事故だったってことにはなってるけどな。シャンデリアが落ちてきたんだ。リーツェは歌手だっただけじゃなくて魔女だったから、名家のお嬢さまに横恋慕した魔法使いがシャンデリアを切ったんじゃないかって。ミュセッティって、魔法使いのすごい家柄だろ? 魔法使い側の意見はどうだい? 」
「さあ、それだけじゃなんとも言えないな……」
スオロの好奇心を、セヴィアンは何とも言えない気分でやり過ごした。リーツェ・ミュセッティの死は、イルゼやクロエの事情を知るセヴィアンにとって気軽な噂話にできる話題ではなかった。
劇団の妹分がリーツェの娘であることを知らないスオロは、話を続けた。
「アリアはオレンジ色のオパールを持っててさ。なんでも、早いうちに亡くした母さんの形見らしいんだけど。おれはそれを狙ってるやつがいるんじゃないかと思うんだ」
オレンジってよく聞くけど結局どんな色だい、好奇心みたいかい、という問いかけを、セヴィアンは引っ込めた。オレンジだろうが何だろうが、オパールという宝石はおしなべて、セヴィアンには大小の染みだらけの石にしか見えないのだ。
「そんなにきれいな石なのかい? 」
「ああ、びっくりするぜ。アリアは後生大事にしててさ、今でも首から下げてると思うよ。母さん代わりのお守りと同じなんだろう。アルモニアがまだ小さかった頃、道端でそのオパールをつけて歌ったら、いくらでも出すからぜひ譲ってくれって頼まれたことがあるらしい。それがまた相当しつこく食い下がられたらしくて、それから人には見せなくなったんだってさ」
「賢明だね」
セヴィアンは館内図を後回しにして部屋を調べたが、目ぼしいものは特に何もなかった。あのマルチノはこんな気持ちだったのだとぼんやり考えて、セヴィアンは嫌になった。
「宝石を狙ってる人なら、僕の近くにもよく出るけど――」
「そいつ、怪しいな」
「どうだろう。僕がこの町に引っ越してきてからずっとだから、アリアとは関係ないと思うけどね……」
彼はそんなに凶悪な人には見えないんだ、と続けたかったが、自信が持てなかった。マルチノ・フリアーニだって、あまり褒められたことをしていないのには違いない。彼は空き巣と呼ぶには堂々として、いつの間にか持ち去り、煙のように消えてしまう。迫ってくるピッケをからかいながら、きっと逃げおおせてしまう。それがセヴィアンのマルチノに対する印象であり、彼のことを(迷惑に思うことは多々あったが)嫌っているわけではなかった。
だからといって、まったく疑わないわけにはいかない。彼にはまだ、セヴィアンの知らない一面があるかもしれないのだから。
「あれ、アリア? 」
急にスオロがそう呼んだ。セヴィアンは彼の方を見た。
「なんだって? 」
「アリアだ、ほら――もうこっちに着いたのか」
スオロは窓越しに外を指差した。確かに彼女だった。人気のない廊下をうつむいて歩いている。すると――。
時間にすれば、瞬きする間ほどのことだった。彼女の周りにある窓のガラスに、蜘蛛の巣のような亀裂が走るのがセヴィアンから見えた。
※
突然で、一瞬のことだった。
ぴりっという甲高い音が石の廊下に短く響いた。だが、クロエには気のせいと思えたくらい、一見したところ石の廊下には何の変化もなかった。
この廊下には、はめ殺しの大窓が左の壁に、同じ形の鏡が右の壁に、ずらりと並んでいる。右壁の鏡には左壁にある窓の外の景色が映っているので、本当よりも広々としたところにいる気になる(ちなみに、実際に右壁の向こうにあるのは売店だ)。まるで、広大な庭園の中の回廊を歩いているみたいだ。静かな潮騒だけが遮られずに届く設計になっているため、〈瞑想の廊下〉という名前で呼ばれているらしい――。クロエは知らず知らず気持ちを落ち着けて、廊下を歩きながらこれからのことを考えていた。
だから彼女が異変に気がついたときには、猛獣の口の中だと気づかずに踏み込んでいって、鼻先に牙が触れて我に返った――そんな状況に限りなく近づいていた。
数歩先の右壁の鏡から、やけに眩しい光がクロエの目に反射した。日差しが強いのではなかった。鏡に亀裂が入っていて、陽射しが乱反射したのだ。
いや、違う。ひびが入っているのは、窓の方だった。
クロエは立ち止まり、無意識に息を詰めた。彼女が後ずさりすると、そのあとを追うかのように廊下中の窓にひびが入った。
沈黙――崩れる気配のないひび割れのガラスは、ひとかけらひとかけらがこちらの隙を窺っている何人分もの目のようだ。
見られている。誰かに見られているんだ!
「クロエ! 」
そのとき庭園から飛び込んできたのがよりによって考えごとの原因となった張本人だったので、クロエは一瞬そちらにすべての気を取られた。彼の後ろから、置き去りにされたスオロが走ってやって来ようとしているのが見えた。
今この廊下に入ってはいけない!
「来ないで! 」
スオロと、庭でくつろいでいた数人の客がぎくりとしたが、セヴィアンだけはクロエの方へ走ってきて、彼女に触れようとした。
その瞬間、窓がこちらに向かって吹き飛んだ。
※
セヴィアンは窓の破片からクロエを守るために何か魔法をかけたに違いない。おかげで、氷の滝のように輝きながら飛び散ったガラス片の矢がクロエを傷つけることはなかった。廊下の窓のガラスはすべて粉々に砕け散り、中庭のお客のあげる鋭い悲鳴が、クロエにはとても遠く聞こえた。
「セヴィアン」
ガラスに構わず近寄って、クロエは倒れて動かないセヴィアンに手をかけた。右腕と左の頬にひどい傷ができて、血が流れている。遅れてやって来たスオロはそのありさまを見て、ひえっ、と息を呑んで立ちすくんだ。そして混乱するあまりに、すべての質問の作法を忘れてしまったようだった。
「――死んじゃいないだろうな? 」
「なんてこと言うのよ」
クロエは自分でもわけの分からないうちに泣き出しながら、おばあちゃんを呼んできてよ、とかなんとか、震える拳を振り上げてスオロを罵った。スオロはすっかりうろたえてしまっていたが、さすがに年上らしくすぐに落ち着きを取り戻した。
「そうか、噂のばあちゃんと来たのか。今どこにいる? 」
「お茶を買いに行ってるんだと思うわ……紫色の肩掛けをしてるの。名前は、イルゼ」
「分かった、動くなよ。泣かないでも大丈夫だからな」
スオロは庭園を突っ切って打ち合わせ室に戻っていった。
クロエは少しでもガラス片を遠ざけようとセヴィアンの頭を膝に抱き上げて、この数カ月でイルゼに教わったことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。切り傷を作った人には、何をしたらいい? 倒れて、動けない人には?
彼は本当に、気を失っているだけなの――?
考えたのは、一瞬だったかもしれないし、何十分もかかったことだったかもしれない。クロエはセヴィアンを見ていたのに、彼の手が彼女の頬を撫でるまで、彼の目がようやく開いたことにもまるで気がつかないでいた。
「やあ、クロエ」
セヴィアンはクロエがものも言えないほど驚いて、その上怯えているというのに、何もなかったかのようにガラスの山をざらざらいわせながら起き上がった。
「ああびっくりした、ずいぶん派手にやったもんだね――いてて」
「あなた、どうして……」
セヴィアンはにっこりした。
「君が手紙をくれたんじゃないか。あっちの打ち合わせ室で館内図を見せてもらってたんだ。君はいつこっちへ来たんだい」
「ついさっきよ。先にあなたのおうちにも行ったんだけど、あなたはいなかったわね」
「行き違いになっちゃったかな。僕、フランコさんの手伝いをしてから来たから」
セヴィアンは指揮をするみたいに手を振って、廊下中に散らばったガラス片をそれぞれの窓枠の下に集めた。
「よし、これでいざ修理するとなっても困らないぞ。……クロエ、怪我してないかい。あーあ、それ僕の血か……」
ここで泣いてはいけないのだ。クロエには怪我なんかなかったし、あったとしても小さな子どもみたいに泣くのはおかしなことだ。けれども一度泣き出してしまった目に、それ以上の我慢は難しかった。
「どこか痛いのかい? 」
お人好しにクロエのことを心配するセヴィアンに首を振って、なんとか、怪我があるわけではないのだと伝えた。セヴィアンは袖を血塗れにして頬の汚れを擦った。
「よくこれだけの怪我で済んだよ。君の魔法だろ? ちょっとの間に上達したねえ」
「……完璧じゃないわ。間に合わなかったのかと思った」
「もし間に合ってなかったら、もっと……」
鋭いガラスの破片が自分をいかに切り刻むところであったかをセヴィアンは言いかけたが、彼は賢明な青年だったのでクロエにさらなる恐怖を与えることはなかった。
代わりに、心の浮き立つような明るいほほえみをクロエに向けた。
「元気だったかい? 」
あなたのおかげで、とクロエは涙混じりに答えた。喉をきちんと治したことや、魔女になったこと。マドレブランカの人たちと友だちになったこと。〈魔法通り〉のこと。ルイージとシャルロッタと、イルゼのこと。〈夕焼け〉のこと。話したいことと話さなければならないことが頭と心でもつれあい、せっかくセヴィアンに会えたのに、何も言えはしない。
ひとつは、再会が唐突で、衝撃的すぎたせいだ。もうひとつは、クロエがどれだけ不義理でわがままかを知らずに、セヴィアンがひどく優しいことをするせいだった。
だって彼は、クロエが彼の方へ顔を上げられないわけを知らないのだから。
クロエはセヴィアンの手を取った。
「あなたに渡さなきゃならないものがあるの」
「君が? へえ、何だろう」
「もともとはあなたのおうちのものだったって、おばあちゃんに聞いたわ」
「じいちゃんがイルゼさんに貸したものかな? じいちゃんが借りっぱなしのものならすぐ思いつくんだけど……」
『東洋の呪い大全』ってもしかして君のうちのじゃないかな、とセヴィアンは呑気に言った。
クロエはブラウス越しに胸に手を当てた。〈夕焼け〉は今もそこにある。クロエの心臓の上で、走ったくらいに早く打つ鼓動を聴いている。
「明日一日だけ、わたしに貸していてほしいの」
近く渡される品物が何かを知ってか知らずか、セヴィアンは朗らかに眉を下げた。
「一日だけでいいのかい」
「明日の舞台で使いたいの。――母さまの得意だった役だから」
「君、リーツェ再来って言われているんだってね」
いいよと言う代わりにセヴィアンはクロエの耳元に唇を寄せて、君の望むとおりに、と囁いた。祝福のおまじないだわ、と今のクロエには分かった。他の誰にも聞かれないように相手の幸福をそっと願うと、願ったとおりの結果が約束されるという――。
「うまくいくといいね。……なんにも心配いらないよ」
「まあまあ、大変」
黒っぽいドレスのふっくらした女性が、足早に廊下の向こうからやって来た。劇場つき魔法医のグラニータ先生だ。救急箱を両手に抱えている。劇場の玄関広間から意を決して来たのだろうに、廊下がすっかり片づいているのを見て彼女は目を丸くした。
グラニータ先生はセヴィアンの頬の傷にうんと怖い顔をした。
「まったく、なんてことかしら! ふたりとも、怪我は……聞くまでもなかったわね」
「僕、構いませんから……」
セヴィアンはグラニータ先生から逃げようとしたが、先生は彼の頬に消毒液をたっぷり染み込ませた包帯をべったり貼りつけて彼を黙らせた。
「構わないとはなんです、そんなに大きな傷を作って! アリアさん、あなたも――もっと慎重に行動すべきだったのではなくて? この劇場は、あなたにとって安全とは言えないわ。近々、また舞台に立つんでしょう? もしその顔に傷でもついたら、いいえ、もしこの騒ぎが問題になれば、公演そのものが取りやめになってしまうかもしれませんよ」
この一言に顔色を変えたのは、クロエよりもむしろセヴィアンの方だった。クロエは彼の顔からさっと血の気が引き、まなじりが焼いた鉄のように真っ赤に燃え立ったのを見た――彼は表向きには眉を寄せてみせただけだったが、その仕草からはとても想像できないほど怒っていたのだ。セヴィアンの沈黙が、クロエには信じられなかった――彼ならば、反論だろうが罵詈雑言だろうが、その気になればいくらでも思いつくだろうに。
グラニータ先生が正しいからだわ、とクロエは思った。彼女は神妙にうなだれた。
幸運なことに、味方はすぐに現れた。お茶のカップを持ったイルゼが、スオロに手を引かれて来てくれたのだ。
「まあまあ、大変」
グラニータ女史とはまるで違った口ぶりで言いながら、イルゼは廊下の一同を見回した。
「わたし、この子のおばあちゃんなのよ。ごめんなさいね、喫茶店が混んでいたものだからなかなか買ってこれなくて」
「窓が爆発して、怪我人が出たのですわ」
グラニータ女史はイルゼの登場に少し気勢をそがれながらも、厳しい顔を崩さずに言った。
「わたしにとっての事実はそれだけです。ええ、どこかの危険人物が、冗談を言うつもりだったというなら話は別ですとも! 」
「まあ、みんなちょっと落ち着きましょう。ちょうどここに、お茶もあることだし……この子をひとりにしたのはわたしの失敗ね。人混みじゃ誰がどこにいるか分からないからと思ったのだけど」
イルゼはとりなした。
「この劇場でこの子に何があったかは聞いてるわ。それに、これだけ人の多い日のことだし、浮かれて怪我をする人もいるでしょう。現場を預かる魔法医として、あなたがお怒りになる気持ちはよく分かるわ」
「今度の最終公演だって、わたしは正直なところ賛成できませんわ」
グラニータ先生は少し冷静になって言った。
「前に毒を仕掛けた人も見つかっていないのに、今日またこんなことがあるなんて! とてもじゃありませんが、手放しで賛成なんかできません! 」
イルゼはとっておきのほほえみを繰り出した。
「だけどこの子にとって今回この劇場で歌うことは、そのくらいの価値があることなのよ」
ね、と同意を求められたスオロが、かくかくと頷く。グラニータ先生は、イルゼにひいきがあることを何としても探り出そうというように、クロエをじっと覗き込んだ。
「判断なさるのはペルラさんです。あなたにそれだけ覚悟があるというなら、わたしから言うことは何もありません」
グラニータ先生はむっつりしたまま、愛用の救急箱をばたんと閉めた。
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