ノア
柏木椎菜
一話
あたしの脳裏には、多分一生忘れることの出来ない、鮮明な光景が残ってる。それは昔、あたしが自分の家に帰った時の光景で、子供でなくともあまりに衝撃的すぎるものだった。
「ただいま……」
普通に家へ入り、普通に家族がいるものと思ってた。でも一歩入った目の前は、明らかに異様な状況だった。あたしの足は固まり、玄関から動けなくなった。徐々に心臓の音が大きくなり始め、息は浅くしか吸えなかった。
誰かが倒れてる――最初はそう思った。でもすぐにそれが父だとわかった。少したるんだ体や服装は毎日見てる。その腹から足にかけて真っ赤な染みが広がり、服が吸い切れなかった分は床を汚してた。死んでるんだ――流れる血の量を見てそう感じた。
倒れた父の手前には、こっちに背を向けてうずくまる彼がいた。でもあたしは彼よりも、部屋の隅で膝を抱えて震える弟アロンのほうに気が向いた。アロンは目を見開いたまま父を見続けて動かなかった。膝を抱える両手は血で汚れて、体にもその血がたくさん付いてた。それを見てあたしはアロンが怪我をしてるんじゃないかと思い、父を避けて歩み寄ろうとした。
「ア、アロン……」
そっと呼んでみても反応はなかった。そして近付いてみて、少しだけ開いた口が何か呟いてることに気付いて、あたしは耳を寄せた。
「――僕が、殺した――」
アロンは蚊の鳴くような声でそう繰り返してた。あたしは震える弟を抱き締めて、こう言うしかなかった。
「大丈夫、大丈夫だから……」
頬を寄せて、背中をさすり、泣きたい自分をこらえながらあたしは弟を慰めた。
すると後ろで物音がして、あたしは顔を振り向けた。うずくまってた彼が立ち上がり、こっちを見てた。その顔は苦しそうで、憐れむようでもあり、寂しげにも見えた。その手元には父を刺したであろう血まみれのナイフが握られてた。
「ノア……」
彼――幼馴染みの名前を呼んだ途端、ノアはあたしの声を振り切るように玄関へと走り出して、そのまま飛び出して行った。呼び止める暇もなく、ノアはそれきり行方をくらましてしまった。それが、今から六年前の出来事……。
父の死は殺人事件になって、ノアはその容疑者になり、追われる身になった。数日間は警察も聞き込みをしたりして熱心に働いてたけど、一週間も過ぎればその姿はどこにも見えなくなった。住んでた貧民街じゃ大小様々な事件は日常茶飯事だった。殺人事件も例外じゃなく、一つの事件にかかりっきりというわけにはいかなかったのかもしれない。でも一番の理由は被害者が貧民街の住人ということだ。そんな人間が一人殺されたところで多くの人は心配もしないし困らない。だから警察も本気で解決しようとしてくれない。運よく犯人が見つかってくれればいいぐらいに思ってるんだろう。そんなだから未だにノアは逃亡を続けてる。自分が指名手配されてると知ってるからだろうか。だとしたら彼は一体どんな気持ちで逃げ続けてるんだろう。後悔、信念、それとも……。
あたしはノアの行方を個人的に捜し続けてきた。と言っても仕事の傍らだからたくさん時間を割いてきたわけじゃないけど、でも二十歳になった今日まで出来る限りのことはしてきた。暇な時間があれば、このベリアラの街を歩き回ってノアの姿を見つけようとしたけど、成果は何もない。手掛かりも目撃情報も、何一つ得られてない。私の捜し方が悪いのか、それともノアの逃げ方が上手いのか。とにかく、彼の行方捜しは随分と行き詰まってる。行き当たりばったりじゃ、もう無理な気がする。
雑貨倉庫での検品と梱包作業を終えて、あたしは夕暮れの街並みを眺めながら特に当てもなく歩く。買い物かごを提げた人や、遊びから帰る子供達がすれ違って行く。商店の並ぶ通りは夕方になっても人通りが結構ある。パン屋や料理店の前を通ると、空腹にはたまらない匂いがそよ風と共に漂って来る。でもあたしには一日二食買えるほどの余裕はまだない。お腹が鳴る前に息を止めて素通りだ。
「……ん? ここって……」
商店通りを抜けて、人通りの少ない道に入ったところで、ある看板が目に入った。
「便利、屋、セビ、ンケ、ル……?」
二階建ての建物の入り口脇に看板はかけられてた。この道は何度か通ったはずだけど、こんな看板今まであったっけ? あたしが見過ごしてただけだろうか。なになに、他にも何か書かれてる――
「……午前、十一時、から、午後、三時、まで、ご依頼を、承ります……四時間しか開いてないんだ」
今はもう五時を過ぎて、とっくに閉まってる。あたしが知る限り、便利屋というのは人の依頼で物を届けたり、何かを修理したり、手伝ったり、いろいろな雑用や用事を代わりにやってくれるところだと思ってるけど、こんなところにこんな店があるなんてまったく知らなかった。でもあたしには関係のない――いや、待って。どうなんだろうか。あたしは今、人捜しに行き詰まってるけど、便利屋って人捜しもしてくれるものなんだろうか。もししてくれるならぜひ頼んで……ああ、でもそうなれば当然お金がかかることになる。ノアが見つかるなら多少高くてもいいとは思うけど、人捜しの料金って一体いくらなんだろう。依頼なんてしたことないあたしには想像がつかない……。
ふと建物を見ると、玄関脇にある小さな窓の奥には灯りが灯っていた。中に人はいるみたい。この便利屋が開いてる四時間中、あたしは仕事から抜けられないわけで、明日出直すにもその四時間の間にはどうしても行けない。迷惑かもしれないけど、人捜しを受けてくれるか確かめるには今聞いてみるしかない。
あたしは扉に近付いて、軽くコンコンと叩いた。少しドキドキしながら待つこと十数秒、窓の向こうを人影が横切ると、扉はすぐに開いた。
「おい、そこの看板見えねえのか。今日の営業は……あん? 何だ、お嬢ちゃん」
出て来たのは長い茶髪を結った強面の男性だった。筋肉の付いた大きな体は、目の前に立たれるとかなりの威圧感があって、お嬢ちゃんと呼ばれたことに言い返そうとした気持ちをあっさりしおれさせた。
「え、えっと、あの……」
男性の睨むような目に、なかなか言葉が出てこない。……落ち着いて。心を静かに。
「大した用じゃなきゃ閉めるぞ」
「あっ、待って」
扉を閉めかけた男性をあたしは咄嗟に止めた。
「……何だよ。早く言え」
いかにも迷惑そうに男性は表情をしかめる。気が変わらないうちに聞かなきゃ。
「聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと? 何だ」
「ここは、便利屋ですよね」
「ああ。だったら何だよ」
「便利屋って、人捜しもしてくれるんですか?」
これに男性は片眉を上げてあたしを見下ろす。
「まあ、内容と報酬次第じゃ、しないこともないが……お嬢ちゃん、まさか依頼に来たんじゃねえだろうな」
やってくれるみたいだけど、やっぱりお金か……。
「その、報酬って、いくら必要なんですか?」
男性はしかめた表情をさらにしかめて、あたしを見つめてきた。
「俺に人捜しを頼む気か?」
表情と口調の圧に後ずさりしたくなったけど、ここは踏ん張って――
「出来れば……捜してほしい人がいて……」
「なあ、お嬢ちゃんはどこに住んでんだ」
「え……?」
「少なくとも、この西地区内じゃねえだろ」
このベリアラの街は広くて、東西南北の四つの地区に分かれてる。男性の言う通りここは西地区で、あたしが働く倉庫もここにある。でも住んでるかと言われると、はいとは答えにくい。
「もともと住んでた場所は、違います……」
「やっぱりな。でなきゃ依頼になんざ来るはずねえしな」
「ここは便利屋でしょ? 何で依頼するのがおかしいんですか?」
男性は壁に寄りかかって腕を組み、面倒そうにあたしを見る。
「この近所の人間なら、ここが普通の便利屋じゃねえことくらい皆知ってるよ。だから何か依頼するにも、別の便利屋に頼みに行くんだよ」
「普通じゃないって、何ですか?」
「言葉通りだ。お嬢ちゃんみたいな一般人の依頼は受けねえの」
普通の人達の依頼を受けないなら、じゃあ誰の依頼は受けるっていうんだろう。
「たとえお嬢ちゃんの人捜しを受けてもだ、その身なりじゃこっちの要求する額は払えねえと思うがな」
身なりと言われてあたしは自分の体を見下ろした。もう何年も着続けて生地が薄くなったチュニック、色あせたスカート、修理しながら履いてる布の靴――あたしには新しい服を買う余裕すらない。
「……金額は、いくらですか?」
「聞いたところで無駄だよ」
「一応、教えてください」
「……標準的な額を言えば、十万リド」
「じゅ……!」
聞いた瞬間、あたしの期待は派手に砕かれた。今貰ってる給料の何十年分っていう額だ。もちろん払えるわけがない。少し高めでもいいと覚悟してたけど、それより遥か前からまるで話にならないことだった……。
「言葉にならないか? まあ、そういうことだ。わかったか? 用が済んだらさっさと消え――」
「何? 誰か来てるの?」
男性の背後から女性の声が聞こえたと思うと、その姿はすぐに目の前へやって来た。
「……随分若い娘ね。誰かの使い?」
キャラメル色の綺麗な髪をなびかせて女性は男性の肩に手を乗せると、あたしをまじまじと見つめた。
「そんなんじゃねえ。ここの事情を知らない、ただの一般人だ。間違って人捜しの依頼に来たんだよ」
「ふうん、一年に一人はいるわね、知らずに来る人が。……ごめんね。私達は一定の人達の依頼しか受けてないのよ。あなたの依頼も受けてあげたいけど、線引きはしないと。際限なくなっちゃうから」
「金が払えねえとわかって、今帰るところだったんだ。それじゃお嬢ちゃん、もう間違って来るんじゃねえぞ」
男性があたしにひらひらと手を振ったのを見て、女性が急にその手を叩いた。
「いてっ――な、何だよ」
「あんたは、金の払える相手にしか礼儀を見せないわけ? 来るんじゃねえぞじゃなくて、他の便利屋を紹介してあげるとか、そういう優しさは見せられないの?」
「他のって言われても、場所も何も知らねえし」
「私も知らないけど、街の地図見ればわかるかもしれないでしょ。本当がさつね」
女性は男性の肩を小突くと、次にあたしの顔をのぞき込んできた。
「こいつに何か失礼なこと言われなかった? 私が代わりに謝るわね」
「い、いえ、大丈夫です……」
少し邪険に扱われはしたけど、ここは穏便に帰ろう。
「間違って来て、すみませんでした。もう行きます」
「あなた、人を捜してるの?」
「……はい」
女性は薄く笑みを浮かべた。
「見つかるといいわね」
「はい……それじゃ」
あたしは踵を返す。
「食べる物はあるの?」
振り向いたあたしに、女性は気遣うように言った。
「勘違いだったらごめんなさいね。あなた、随分と痩せてるし、服装も今時の若い娘が着るようなものじゃないから、生活で困ってることがあるんじゃないかと思って」
女性の心配する目があたしを見つめる――世の中にはあたしの困窮に気付いてくれる人もいるんだ。
「昔からあたし、痩せてるんで。それと服にはあんまり興味がなくて」
「そう……あ、他の便利屋探してあげ――」
「それはもういいです。親切にしてくれて、ありがとうございます。失礼します」
あたしは軽く会釈してから二人の前を小走りに立ち去った。
やっぱり世の中、何かしたいと思うことにはお金が必要なんだ。別の便利屋に依頼したとしても、きっと今持ってるお金じゃ足りないんだろうな。行き詰まった状況は、自分でどうにかするしかなさそうだ。歩く範囲を変えて気長に捜そう。今はそうする他ない。
今日はひとまず休んで、ノアを捜すのはまた時間がある時だ。日が暮れて、辺りには夕闇が迫ってる。完全に暗くなる前にいい場所が見つかるといいんだけど。
「……ん、あそこいいかも」
周囲を眺めながら歩いてると、民家の並びが途切れたところに広めの空き地があった。次に使われる予定がないのか、低木や雑草がたくさん伸びてる。
「あの木の陰なら風は当たらないかな」
あたしは空き地に入り、地面の状態を確かめる――あたしには帰る家がない。だからこうして毎晩野宿する場所を探して歩き回ってる。大体はこういう空き地で寝るけど、雨が強い日なんかは私有地にこっそりお邪魔して納屋に入らせてもらうこともあるけど、住人に見つかれば間違いなく警察を呼ばれて面倒なことになるから、出来るだけ空き地で野宿するようにはしてる。そういう空き地でも絶対に安心出来るわけじゃなく、同じ境遇の人に追い出されたり、酔っ払いに絡まれたり、いつも使ってたところで工事が始まってたり、時々苦労することもある。今日こうして空き地を探してたのも、まさに前の寝場所が工事で立ち入れなくなったからだ。そういう場所がなくなるたびに、あたしは新たな寝る場所を探さなきゃならない。地味な作業だけど、睡眠は健康の資本だ。最高とはいかなくても、ほどほどにいい寝場所は見つけたい。でもそれが案外難しい。
「うーん、とげのある草がなければ寝られるんだけどな……」
風避けを狙った低木の裏を見てみると、そこにはとげを付けた雑草が一面にはびこってた。今日はさほど風が強いわけじゃないし、木の裏じゃなくてもいいんだけど、暖かくなり始めた季節、夜風は身にこたえる。風邪をひいて仕事に行けなくなることだけは絶対に避けたい。他に風を避けられそうな場所はないものか――広い空き地内をとぼとぼと歩き回ってた時だった。
「あれ? あなた……」
聞き覚えのある女性の声に顔を向けると、空き地の前の道からこっちに近付いて来る姿があった。ほっそりとした体形にキャラメル色の長い髪――さっきの便利屋の人だ。
「こんなところで何してるの?」
女性は不思議そうに聞いてきた。その腕には買い物でもしてきたのか、何かが入った紙袋を抱えてる。
「別に、何も……」
寝場所を探してるなんて何だか言いにくくて、あたしは言葉を濁した。
「何もってことはないでしょ。ここ空き地だし、何にもないし。散歩ってわけじゃないんでしょ?」
「まあ……」
「家は? 帰らないの? この近所じゃないの?」
「家は……えっと……」
事情を言うべきかどうか――そう迷ってると女性が言った。
「もしかして、帰る家がなかったり?」
図星を指されて顔を上げたあたしを、女性は微笑みながら見てきた。
「ははあん、なるほどね。理由はわかったわ。……いつからこんな生活してるの?」
女性は全部お見通しらしい。ここは言うしかないか。
「……四、五年くらい」
「そんなに? どうりで貧弱な見た目なわけね。人間苦労はするべきだけど、若い女の子がこんなところで野宿するのは見過ごせないわね」
「構わないでください。もう慣れてますから」
「慣れとかの問題じゃない。いかにも非力そうな娘が草むらで一人寝てるなんて、危なすぎるでしょ。暴漢にでも襲われたらどうする気?」
「今までそう言う目には遭ってないんで、大丈夫――」
「何が大丈夫なのよ!」
女性は急に声の音量を上げると、あたしに詰め寄って真剣な表情を見せた。
「今は何もなくても、明日はわかんないでしょ? 何かされた後じゃ遅いんだから」
「はあ……」
真っすぐな視線に気圧されて、あたしは吐息のような返事しか出来なかった。便利屋での時もそうだったけど、この人は何であたしをこんなに心配してくれるんだろう。
すると女性は首を傾けながら何か考え始めると、意を決したようにあたしを見据えた。
「決めた。今夜はうちで寝なさい」
「え? うちって……」
「そう。うちの便利屋。ベッドもあるし、雨風もしのげる。何より襲われる危険がないわ。最高でしょ?」
「そ、そうですけど、でも……」
「ああ、あいつ? 心配いらないわ。がさつだけど女子供に手を上げるほど程度は低くないから」
「いえ、そういうことじゃなくて……」
今日初めて会ったばかりの赤の他人を自分の家に招くなんて、それだって危険だと思えるけど。
そんなあたしの心の声を察したのか、女性は笑みを見せると言った。
「あなたは困ってるけど、悪さをするようには見えないし、する気もないでしょ?」
「も、もちろんです。親切にしてくれる人に、そんなこと……」
「じゃあ今夜、あなたはうちに泊まる。それで決まりね」
「本当に、いいんですか? お互い何にも知らないのに……」
「知らないなら聞けばいいだけよ。まずは名前ね。私はリベカ・ダヤン。リベカでいいわよ。あなたは?」
「あたしは……ミリアム・カーネマン」
「ミリアムね。よろしく。今夜はうちでゆっくり休んで」
差し出された手をあたしは恐る恐る握った。それをリベカさんがぎゅっと握り返す。強いけど、優しい感触。この人がどんな人か知らないけど、でも少しだけ心を許してみてもいいかもしれない。そんなふうに思えるのは本当に久しぶりのことだ。
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