【私】の話(中⑫)




それから、何度もあかねちゃんの名前を呼び続けた。

蜘蛛に見つかる危険なんてこれっぽっちも考えず、何度も、何度も。


……けれどいつまで経っても返事は無く、ただ無為に体力を消費するだけで。

やがては怪我の事もあってか叫ぶのも辛くなり、自然と口を閉じていた。


後に残ったのは、荒い息遣いと湿った足音。



「……はぁ……はぁ」



そうして黙って下に降りられる道を探して歩いていると、暗闇の静けさが肌を刺す。


月の無い日の夜道や山の洞窟内とは全く違う、昏く閉じられた空間。

肌に纏わりつく冷たい空気は重たく湿り気を帯びていて、息をする度に肺の奥へと積み重なって、その総容量が減っていくみたいだった。



「……はっ……はっ……」



幾ら呼吸を繰り返しても、酸素を取り込めている気がしない。

息がし難くて、口が開きっぱなしになってしまう。


そのせいか頭がぼんやりとして、思考が鈍る。足の動きが悪くなり、酷く歩きづらかった。



(暗い、痛い……怖い――)



光で照らせない範囲に何かが居るんじゃないか。

暗闇に紛れ、近づいているんじゃないか。


今更そんな疑念が次々と沸き上がり、じりじりと精神を削る。

眼球がぎょろぎょろと忙しなく巡り、それに付随しライトもあちこちに振り回す。



「っ……」



すると背後の地面に血の跡が見え、肩が跳ね……すぐに自分のものだと気付いて息を吐く。


手の傷は服に押し付けて血止めをしているけど、足の傷の方もそこそこに深い。

歩く度、痛みと共に血の足跡が残っていくのだ。


それを意識した瞬間、またその痛みが膨れ始めて……。



「……くそ。ちがう、なんか、違う事……」



ダメだ。周囲に意識を向け続けてると、どんどん調子が悪くなってくる。

それらを考えるのは後でいい。今はなるべくそちらに意識を向けないよう、別の方向に思考を散らした。



(……そ、うだ。さっき靄が入ってきたの、何だったんだろ……)



そうして、手始めに靄の事へと水を向ける。


私が捕まっていたあの時、手の傷口に靄が入り込んでいったのは何だったのだろう。

今のところ明確な異常は起こっていないものの、オカルト由来のヤツが体内に入り込んだというのはイヤな感じだ。



(憑りつかれる……寄生? 身体の内側から何かされる……とか)



蜘蛛の生態には詳しくないが、だからこそ悪い想像が幾らでも出来てしまう。

今でさえいっぱいいっぱいなのに、更に不安が重なっていく。



(……や、でも、それじゃぶん回された理由が分からんくなる)



そうだ。あのまま放っておけば私の身体にもっと靄を送り込めた筈なのに、どうしていきなり暴れて中断させたんだ?

釈然としない。まぁオカルトとはいえ虫の考える事だし、いちいち理屈付けて考える方が間違っているのかもしれないが……。



(なんか……嫌がってた? みたいな動きではあった……ような)



……なんだろ。何か、根本的な部分が間違っている気がする。

とはいえそれが何かも分からず、言いようのない苛立ちが不安な気持ちと絡み合い――。



「……、っ」



その時、何気なくライトでなぞっていた岩壁が途切れた。


一瞬崖際まで来たのかと腰を落としたけど、違う。

壁に大きな穴がぽっかりと口を開けていて、より深い暗闇を湛えていた。



「……洞窟?」



もともと洞窟みたいな場所だし、その表現も違うような気がするが。


ともかく慎重に近づいて中を光で照らせば、起伏だらけの道が続いていた。

その先を辿れば若干の傾斜が付いていて、心なし下の方に向かっているように見えなくもない。


……降りる道に、なり得るだろうか。

洞窟内の見える隅々にまで光を当てながら、少し迷う。



(でも、このまま行っても……か)



視線を外し、洞窟の外にライトを向ける。

進める地面は闇の向こうへ続いていたが、その道筋はどちらかと言えば上り坂になっているように見え、下に降りていく気配は無い。


洞窟。外。

洞窟。外。


私は暫く交互にライトを振って――やがて洞窟の方へと固定する。



(……あんま、時間かけてもらんないしな)



私の体力も、スマホのバッテリーも有限だ。

ならば、少しでも可能性の高そうな方から当たるべきだろう。


私は震える息をひとつ残し、強く一歩を踏み出した。







洞窟内の道は、こっちの道を選んだのをちょっぴり後悔するほど進みにくいものだった。


グネグネで、でこぼこで、おまけに狭くて息苦しい。

今のボロボロの状態で進むには、かなりキツめの悪路である。


しかし確実に下には降りられているので、選択としては今のところ正解だったと思うのだが……同時に、イヤな予感もし始めていた。



(なんか変な臭いすんだよな、ここ)



すん、と鼻を鳴らす。

入った時には分からなかったが、この洞窟の奥にはうっすらと異臭が漂っていた。


これまでに感じていた岩や土の湿った匂いとは全く違う、イヤな甘ったるさのある臭い。

生ゴミを更に酷くしたようなそれは、先に進むごとに段々強くなっており、生理的な嫌悪感を掻き立てて来る。



(くそ、マジで何なんだ……?)



どこかで嗅いだ覚えがある気もするが、今の状況的にどうせロクなもんじゃあるまい。


……このまま進んで大丈夫なんだろうか。

前方を照らすライトの光が小さく揺れるけど、今の私に進む以外の選択肢は無い訳で。


結局少しだけ歩みが遅まるだけに留まり、そのまま先へと進んで行く。



「……はぁ、長い……」



しかし幾ら歩けど先は見えず、流れる血と共に少しずつ体力も減っていく。


どんだけ歩いたんだろう。スマホで今の時間を確認しようとしたが、ヒビだらけの画面は握り込んだ掌の血でべったりだ。

時刻が表示されている部分も拭いきれない赤に隠され、マイクもイカれたのか音声認識も無反応。


真っ暗の中、現在時刻すら分からないというのは、思ったより精神的にクる。

顎先から汗が一滴ぽたりと垂れて、岩の地面にシミを作った。



「はぁ、はぁ……――っい!? ってぇぇぇぇ……!」



そうした疲れが集中力を削いだのか、途中盛り上がった岩を登ろうとして、失敗。

岩肌を掴んだ手が滲み続ける血で滑り、表面の露出した指の骨が、ごり、と強く擦れた。


その場は何とか登り切ったものの、私はその岩の上で蹲り、襲い来る激痛に暫く悶絶せざるを得ず。

嘔吐感と、目じりから零れそうになる涙を堪えながら、私は恐々と指先を窺って――。



「……あ、あれ?」



息を荒らげながらも首を傾げる。


今まさに激痛を訴えている指先の肉が、若干盛り上がっているように見えたのだ。

流れ出る血で隠されハッキリとは確認出来ないものの、さっき見た時よりも傷口が小さくなっている……ような。



(いや、つか、他の傷もなんか……)



よくよく見れば、違和感は指先の傷だけではない。

剥がれかけの爪は僅かに癒着しているような気がするし、手のあちこちに出来た裂傷も心なし小さくなっている気がする。痛みは……まぁよく分かんないけど。痛すぎて。



(治って……いや、うーん……?)



私も大概傷の治りは早い方だが、さっきの今だ。いくら何でも早すぎる。


勘違いか、或いはこの暗闇で見間違えただけか。

どこか納得できず首を捻ったが、それ以外に考えようがなかった。ひとまずそう気を取り直す事として、歩みを再開させる。


しかしどうにも気にかかり、歩く最中もちょいちょい手の傷を観察していたのだが――。



「っ……くっさ……」



強まっていく異臭がとうとう無視出来ない程となり、他に思考を割く余裕が無くなっていった。


口呼吸をしてもなお鼻の中に留まって、嘔吐きが何度も胸をつく。

そしてその臭気が一層強まった曲がり角へと差し掛かった時、私はこれをどこで嗅いだのかを思い出していた。



(――森林エリアの山ん中。肉を食べる動物の、食べ残し……)



つまり、死骸の匂い。


何かの生き物の死体が放置され、腐った末に放つ腐敗臭――この洞窟の先で、死んで腐った何かが転がっている。



「…………」



絶対、あかねちゃんじゃ無い。

居なくなってからそんなに時間は経ってないし、何より無事だって決まってるから。


じゃあ……何が、あるんだ?



「ぅ、ぐ……」



私の鼻の良さじゃ、落ち着くための深呼吸も出来やしない。

イヤな跳ね方をする心臓をそのままに、せめてもの対策として鼻と口を腕で覆い、恐る恐ると曲がり角から顔を出し、



「――ひ」



――そこには、腐肉の山が広がっていた。


天井の抜けた、開けた場所だった。

見える範囲に壁も無く、どこからか風も流れている。ある種大広間のようなその一帯に、幾人もの人間の腐乱死体が転がっていたのだ。


ぐずぐずになった肉と、その隙間から流れるとろけた臓腑と、突き出る折れ曲がった骨。

それらが幾つも幾つも重なり合って、潰れて互いに混ざり合い、悍ましく醜悪な腐肉の塊となっている。


これが、この洞窟に漂う臭気の大本――呆然と悟った瞬間、強烈な腐敗臭に煽られ堪らず嘔吐く。我慢出来たのは、殆ど奇跡に近かった。



「ぐ、おぇ……な、なんなんだよ、これっ……!?」



弾かれるように曲がり角まで戻り、せり上がる酸っぱいものを堪え切る。


意味が分からない。混乱と恐怖で身が竦む。

誰だよこいつら。何でこんなところに人の死体がいっぱいあって、ぐちゃぐちゃになってんの。

そもそも人が簡単に来られるようなとこじゃないだろ。なのに、何で――。



「!」



と、そこまで考えた時、思い出したものがあった。


それはつい今日の昼頃に聞いた、無感情な声。

どれもこれもが信じ切れないアレソレの、締めの言葉。


――『我々は御魂雲として、蓋の役目を担っている』



「……も、もしかして……『うちの人』……か?」



アイツらが言うには、街に蜘蛛の穴が開いた時には、自分の身体をその中に飛び込ませているらしい。

つまりは投身自殺。そうして穴の中で死ぬ事を利用して、蜘蛛の力を削いでいる。


……ならこの腐乱死体達は、役目を終えた『うちの人』の身体、その成れの果てなのではなかろうか。


この数だ。一般人の犠牲者と考えるよりも、だいぶ可能性は高い気がする。

そう考えた途端に多少の落ち着きは取り戻せたが……それはそれで嫌な適応だった。



(……だと、しても。なんでこんなとこに。真上に穴があるとかか?)



なるべく広間の惨状を直視しないようにしつつ、その真上にライトを向けた。

しかし当然、光は途中で闇に呑まれて途切れてしまう。地上に繋がる穴があるのかどうかもハッキリとしない。



「…………」



暫くそうしていたが、見える変化は何も無く……やがて諦め、渋々ライトを前に向ける。


その多くが老若男女すら分からないほど人の原形を留めていない、腐って異臭を放つ死体の山。

それらは地面いっぱいに積み重なっていて、避けて通れそうにはない。この先を行くのであれば、直進するのも迂回するのも大した違いはなさそうだった。



(引き返……いや、でも)



順調に下に降りられていたのは確かなのだ。

引き返したとして、また別の道があるかどうかも分からないし、最悪戻ってきての二度手間になる。


せめて、この先が行き止まりだと確信出来れば遠慮なく戻れるんだけど……それが分かんないのが現状で。



(……勘弁してよぉ……)



殆ど裸足で、足の裏に傷だってあんだぞこっちは。

そんな泣き言が口を突きそうになったが、唇を噛んで我慢する。



「あぁ、くそ……!」



躊躇の後、腹をくくった。

一回、二回。服に顔を押し付けて浅い呼吸を繰り返し――息を止め、腐臭の中へと走り出す。



「……っ」



足の裏に、柔らか過ぎるものを踏みつける感触が伝わった。


干からびもせず腐って溶けた、肉の泥。

それは皮の剥げた足裏の肉に染み入って、今までとは比べ物にならない嘔吐感が湧き上がる。

けれど必死にそれを耐え、腐肉の地面を駆け渡る。



(これは『うちの人』……! 全部からっぽ、ほんとは死んでない!)



さっきのようにそう考えて紛らわそうとしたが、今回は直に触れている。

びちゃ、ぶちゅ、と跳ね散らされる黒ずんだ肉片も、踏みしめた場所から滲む穢らしい汁も。全てが実感を持ち、嫌悪感は少しだって薄れなかった。



(――っ、あ)



だからたぶん、力み過ぎてたんだろう。

踏みつけた先の腐肉がずるりと滑り落ち、大きくバランスを崩してしまった。


咄嗟に足を突っ張り腐肉へのダイブは避けられたものの、その弾みで詰めていた息が吐き出され、代わりに猛烈な腐臭が肺を満たす。


――俯けば。白く濁った誰かの瞳と目が合った。



「うぐっ……か、ぉえ、んぶっ……」



胃の底がひっくり返り、その中身が食道を昇る。

私は反射的に血塗れの手で口を抑え――そのまま顔に自分の血肉を擦り付け、激痛と鉄錆の匂いとで強引に感覚を上書きする。


……いっそ吐き戻してしまれえば楽なのだろうが、こんな所で一度でも立ち止まったら、それきり動けなくなってしまう気がして。

私は喉を鳴らして口の中のそれを飲み戻し、ただただ足を動かした。


だが、腐肉の地面は途切れない。幾ら走っても、どれだけ前を照らしても。先にはずっと腐乱死体が続いている――。



(これっ、どこまで……っ!)



足を踏み出す度、どぷん、どぷんと湿った音が鳴り響く。

踏んだ腐肉の内側で何かが破裂し、足元からガスのようなものと一緒に腐った汁が飛び散って、私の真っ白な肌を汚した。


息が苦しい。脳が痛い。そろそろ息を止めているのも限界だ。

酸欠で徐々に視界が霞み始め、震える膝から力が抜けて、



「!」



前方。ライトで照らした地面に岩肌が見えた。


腐肉の隙間に出来た小さなスペースだったけど、更に先を照らせばそこを境に死体の数が減っていく。

私は残った力を振り絞り、足が縺れるのも構わず駆け抜けた。


やがて踏みしめるものが硬いものに変わり、目に映る死体も疎らになった。

しかしそこで足を止めずに、限界まで走り続け――行き当たった大きな岩の陰に転がり込んで、そこでようやく喉を開く。



「ひゅっ、はぁっ、は、ごほっ、はぁっ、はぁーっ……げほっ!!」



酸素を求めた肺が震え、何度もせき込む。


死体は未だ近くに転がり、腐臭も漂っているけど、さっきのを思えば全然耐えられる。

そのまま四つん這いで喘ぎながら、口の中に残っていた吐瀉物を唾と一緒に吐き出した。



「はぁ、ぅぐ……も、もう、やだ……」



二度と通りたくない、こんなとこ。力なく呟き、岩に背を預ける。


肉体的にはもとより、精神的な消耗が激しかった。

全身に力が入らず指先一本動かすのすら億劫で、腐乱死体の上で立ち止まらなくて良かったと心底思う。



「……あぁ、うわ……」



そうして一度息をつくと、自分の惨状にも気が回る。


下半身は私の脚力で跳ね散らかした腐肉で汚れ、身体のあちこちにも腐った汁が飛んでズルズルだ。

今は他にもっと酷い匂いのものがあるから誤魔化されてるけど、私自身も確実に結構な腐臭を纏っている事だろう。


そして一番ヤバそうなのは、傷口で直接腐肉を踏みつけた足の裏。

衛生がどうのとか詳しい知識は無いが、ほっといたら酷い事になるのは私でも予想がついた。



(い……いく……足が動くうちに、行かないと)



たっぷりと腐った汁が染み込んだ片靴下を脱ぎ棄て、気合を入れて立ち上がる。


その際に身体についていた腐肉がぽたぽたと流れ落ちるものの、もう躍起になって拭い去る気にもなれず。

まだ少しだけおぼつかない足取りで、ふらふらと前に進んだ。



「はぁ……はぁ……」



闇と悪臭の満ちる中、私の荒い吐息が続く。


歩く先には『うちの人』……だと勝手に思っている死体がまだ幾つも転がっていて、気が滅入る。

なるべく直視しないようにはしているけれど、ライトで照らせる範囲外から突然入って来られるとどうしようもない。見てしまう。



「おえ……」



男、女、子供、老人。

さっきのように折り重なって潰れていないせいか、比較的原型も残っていて、それなりに判別がついてしまうのもまたキツい。


とはいえ今はそれに叫びをあげられるような気力も無く、私はそれを認識した瞬間にライトをずらす程度の反応しか出来なかった。



「……はぁ、はぁ……」



ふと上にライトを向けてもやはり天井は無く、横に向けても壁は無い。


……ひょっとすると、ここは広間というより、洞窟の出口だったりしたのだろうか。


なら、私はもう下層に降りられたのか?

そう思ってライトを振り続けるも、高さの指標となるものが見当たらない。自分の位置が、分からない。



(……今、どのへんなんだ。どこに……どこを)



私は今、どのあたりを進んでいるんだろう。


いつまで歩けばいい。どこまで進めばいい。

というか、まっすぐ進めているのかな。どっかで曲がっちゃってたり、とか。

突き当りとか、無いの。崖とか壁とか、そういうのも。

蜘蛛は……いや、そんなもんより、あかねちゃんは、どこに――。



「はぁ、はぁ……あ、あかねちゃ、んぐ、んっ……」



大声で名前を呼ぼうとして、上手くいかずに喉が詰まった。


何度呼び直しても、どうしてか小さなしゃがれ声しか出て来ない。

その理由も分からないまま、私はひゅうひゅうと抜けていく息をかき集め、必死に彼女の名を叫ぼうとして――「うわっ」足元に転がっていた何かに蹴躓いた。


どうやら、集中するあまり『うちの人』の死体を見逃していたようだ。

なんとか転ばずには済んだものの、反射的にライトを向けて直視してしまった。また気分が悪くなり、顔を顰めて光を逸らし……。



「……?」



その直前、死体の形にどこか違和感を覚えた気がした。

……少しだけ迷ったものの、ゆっくりと死体にライトを戻す。


それはまだ完全には腐りきっていない、男性の死体のようだった。

中肉中背。こちらに背を向けた姿勢で転がっていて、一見すると異常は無いように見えるけど……少し覗き込めば、ハッキリとそれが分かった。


――本当なら頭のあるべき場所に、真っ赤な球体が生えている。



「……何だ、これ」



恐怖よりも、困惑が勝った。


おそらく血肉の塊……だと思うそれには、所々に毛髪や皮膚、顔の一部が混ざっていて、人間の頭部の面影が残っている。


……人の身体って、こんな風に腐る事もあるんだろうか。

考えるけど、答えなんて出る訳もなく。ただ言いようのない不気味さを抱えたまま、光を外して立ち去った。



(……? ……??)



呆けていると、自分でも分かる。


見たものの意味が分からず、何を思うべきかの判断もつかない。

そうした穴あきの思考のまま、私はひたすらに前へと歩き続け――また、死体を見つけた。



「…………」



またライトを向ける。

今度は腰の曲がったおばあさんの死体で、さっきの男性と同じくまだ腐り切ってはいなかった。


だけど――顔面の穴という穴から、無数の眼球が零れ落ちていた。



「――……」



口に眼孔、そして耳や鼻の穴からも。

ぐずぐずに崩れ、柔らかく広がるそれらは十や二十ではきかず、人間の持つべき二つを大きく超えていた。


明らかに一人だけの物ではなく、複数人の眼球を無理やり詰め込まれたと考えるべき有様だった。

……けれど私は、どうしてかその眼球全てがおばあさん自身の眼だと確信してもいて。

それが薄気味悪くてしょうがなく、私はまた足早に立ち去った。



「はっ……はっ……」



その後も、似たような死体をたくさん見つけた。


ある子供の死体は、胸から上が白い繭のようになっていて、中にはボーリング大の眼球が収まっていた。


ある女性の死体は、大きく膨らんだ腹部から米粒ほどの眼球を溢れさせていて、その他の部分がミイラのように干からびていた。


ある原形を留めていない死体は、無数の真っ赤な眼球が癒着し合う一塊になっていた。


ある死体は――。


ある死体は――……。


ある死体は――…………。



「な、なん、はぁ、何、なにが、はぁ、はっ……なに……?」



気付けば走り出していた。


通り過ぎる死体達の殆どが、身体のどこかを眼球にまつわる醜悪な何かに変えられているようだった。

腐敗とか死後何たらとか、そういう自然になるものじゃ断じて無い。


明らかにオカルトの力が関わっていて、それは確実に蜘蛛の力なんだろう。


だって、少しずつ変わって来ていたから。


さっきまで見かけていたのは、大きさこそ様々だったが人間の眼球っぽいのが殆どだった。

だけどその中に段々と別の生物のものが混じるようになり、やがて人の眼球と完全に入れ替わっていた。



「……っ」



通り過ぎた死体が、頭に空いた孔から人のものではない眼球を零していた。


血の色みたいに真っ赤な単眼。

見間違う筈が無い。夢でも現実でも幾度となく目撃した、蜘蛛の目玉――。



「はぁっ、はっ、はぁっ、はぁっ……!」



……嫌な。

とても嫌な予感がしていた。


死体の変容は進むごとに大きく、悍ましいものになっている。

私はそれを辿って走り続け、導かれるように暗闇のある一点を目指していた。


理由なんて分からない。

だけど、早くそこに行けって私の身体が叫んでる。


動悸が激しい。息が辛い。

転がる死体を避けるのも煩わしく、飛び越え、踏んづけ、ただ前へ。ライトの照らす方向へ。


走って。

走って。

走って。

走って。

走って――そして、



「――、――、――、――っ」



……濁音交じり。千々に乱れ切った呼吸音が、闇を震わせる。


ライトの光は相変わらず壁にも天井にも届かなくて、そこがどんな場所かも分からない。


冷たく、昏く、寂しい世界。

辿り着いたその暗闇の一角で、私は。



「………………………………………………………………」



――私はやっと、あかねちゃんそれを、見つけた。



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