【私】の話(中⑩)




 まだ日暮れ間もない時間帯である筈なのに、街にかかる夜闇はいつもより深く見えた。


 それはどんよりと濁った雲の広がる夜空のせいなのか。

 それとも、この街に関する色々な事を知ってしまったからなのか。

 すれ違う街明かりですら皆どこか翳っているように感じてしまい、視界全てにうっすら幕を張られているかのような、漠然とした不快感がつきまとう。


 闇が重たく、光が浅い。

 そんな、妙にイヤな気持ちになる夜の街を、私は全速力で駆けていた。



(いそげ、いそげ……!!)



 なるべく人目につかない道を選びつつも、遠回りにはならないように。

 着の身着のまま靴すら履きそこねた有様だけど、一切気にせずとある場所へとひた走る。


 ――どこに向かっているかなんて言うまでもない。件の自然公園にある、あの噴水である。


 また調べに行く訳じゃない。今度はちゃんと、あかねちゃんを助けに行く。

 分かったんだ。あそこはあかねちゃんが居なくなったきっかけだけど、だからこそ必要な場所だった。


 とにかく、一刻も早く駆けつけて助ける。

 それは他の誰にも任せちゃいけない、私がやらなきゃいけない事なんだ。


 だって、あかねちゃんはそのために私におまじないをかけた。私にオカルトが視える眼を持たせた。

 ……それについては色々言いたい事があるけど、今はいい。よくないけど。


 あかねちゃんを助けたいと願う私が、あかねちゃんに助けてと求められた。

 筋の通りはハッキリしてるし、そして彼女へ繋がる道が見えたなら、もう迷って足踏みしてる暇なんて無い――と、



「っ」



 ふと前方に幾人かの人影が見え、咄嗟に横道に逸れる。


 夜とはいっても、まだ宵の口。

 会社や学校帰りの通行人も多く、人通りの少ない道を選んでも完全に遭遇を避ける事は難しかった。


 だが、下手に人目に触れる訳にもいかないのだ。

 昨日の聞き込みの時のように面倒くさい事になりかねないという事もあるが、一番の理由は、通行人に混じっているであろう『うちの人』に見つからないようにするためだ。


 何せ、インク瓶が私を大人しくさせたいと言うのであれば、彼らも協力してくる筈だ。


 私を危険に晒したくないという配慮なのは分かるが、正直言って有難迷惑もいいところ。

 インク瓶自体は口で諭して来るくらいだとは思うが……私と会話をしてくれない『うちの人』の方は、口の代わりに物理的な妨害をして来る姿が目に浮かぶ。それも、そのたくさんの身体でもって。


 そうなると流石の私も百パー無理だ。

 十人二十人に囲まれるくらいなら何とか逃げ出せる気もするけど、百人万人に群がられたらどうしようもない。


 だから私は家を出る際、自室の窓からこっそりと抜け出したのだ。

 それが衝動的な行動だった事は否定しないが、バカ正直に玄関まで下りれば、途中にうじゃうじゃ居る『うちの人』にバレると思ったというのもあったから。


 ……まぁ、その結果靴下で走り回る羽目になってるんだから、どっちにしろバカである。足の裏痛いよぅ。



(……つっても、今ちゃんと隠れられてんのか……?)



 しかし決して足を緩める事無く、きょろきょろと周囲に警戒を走らせる。


『うちの人』は、本当にどこにでも紛れている。

 そこらの家で暮らす誰かが『うちの人』で、カーテンの隙間から覗かれている可能性も十分ある訳で。

 むしろ、家を出た直後の時点で見つかっていたとしても全くおかしくはなかった。



(……もういっそ、バレてるの前提で行くか?)



 また前方に見つけた通行人から隠れつつ、そわ、とつま先を捩る。


 ……こんな風にモタモタする分だけ、『うちの人』に囲まれる可能性は高くなるのだ。

 多少強引にでも噴水広場まで直行し、その付近に隠れ潜んで雨を待つのが正解な気もしなくはなかった。


 どうする。

 私は徐々に早まり始めた鼓動を抑えながら、ボロボロになった靴下を引っ張り直し――。



(いや……いや、落ち着け……)



 ふと、夜空を見上げる。


 さっきより湿った匂いは濃くなっているけど、雨が降るのはまだ先だ。

 時間的な余裕はあるし、本当に『うちの人』にバレていると確定している訳でも無し。ここで突っ走って、それが本当に彼らに見つかってしまう原因になったらそれこそ目も当てられない。


 というか、どうせもぬけの殻となった部屋に気付かれれば、その時点で絶対インク瓶が私の目的を察してくるのだ。

 そうなると『うちの人』の身体を使って噴水広場に先回りしてくる筈で……だったらせめて、私の現在位置を把握されない事を徹底しておくべきじゃないのか。


 ……近づいてくる通行人をそっと伺えば、その中に無表情のヤツは居ないように見える。けれど。



「……チッ」



 やっぱり、慎重に行こう。

 私は飛び出しかけた足を引き戻し、迂回する道を走り始めた。






 そうして走り続ける事暫し。

 どうにか忍び込んだ自然公園には、今のところ『うちの人』の姿は見当たらなかった。


 暗くなっている事もあってか人影自体が少なく、見かけるのは精々が夜散歩中の老人か夜間ランナーくらい。

 おかげで街中をコソコソするよりはよっぽどやりやすかったが……これはこれで、不安を煽られる静けさではあった。



(……どうなんだ? バレてる? バレてない……?)



 待ち伏せされていないのだから、私の警戒が功を奏したという事だろうか。

 いや、そうやって油断した隙を突き群がってくるつもりなのかもしれない。


 私は途切れかけた警戒心を張り直し、暗い公園内を草木に紛れて進んでいく。

 もっとも、目的の噴水広場は入口から五分くらいの位置にある。隠れながらでもすぐに到着し、近場の植え込みに身を潜め、そっと広場の中を伺った。



(……誰も居ない、よね)



 パッと見、無人。

 広場にある街灯の光は薄らぼんやりしたものだったが、それくらいの判断がつく程度の明るさはあった。


 私のように物陰に潜む何者かの気配も無く、私は足早に中央の噴水池へと駆け寄った。



「……えぇ?」



 すると、その周囲には三角コーンとバーの仕切りが並べられており、おまけに故障中との張り紙がしてあった。


 昼には無かったそれらに一瞬困惑したものの、すぐにインク瓶達の仕業だと察する。

 夕方この公園を後にした後、こっそりと何かしらの手を回していたのだろう。もしかすると、明日にでも噴水の撤去か何かを始めるつもりだったのかもしれない。


 無論、私にここのオカルトを利用出来なくさせるためだ。



(飛び出して正解だったな、これ……)



 幸いまだ水を抜くまでには至っていなかったようで、噴水の止まった水面は静かに夜闇を映していた。


 ……もし明日以降に機を回していたら、知らない内にあかねちゃんへの道が断たれていたかもしれない。そう考えると冷や汗が出る。

 私は舌打ちと共に三角コーンを蹴っ飛ばし……いや、やめとこ。噴水覗くんなら跨ぎゃいいんだから意味ないし、余計な事して気取られたらめんどくさい。



「ふんっ」



 振り上げていた足をダッシュの一歩目と変え、手近にあった背の高い木へと駆け登った。


 突っ込んだ枝葉の中はチクチクしていて居心地は良くなかったけど、春の豊富な緑が私の真っ白な身体を余すところなく隠してくれる。

 太く頑丈な枝の上で息を潜め、少し離れた噴水池の水面を見降ろした。



「…………」



 当然、見つめていても変化はない。

 続いて周囲を見渡しても、時折広場の外を通り過ぎていく人がいるくらいで、中にまで入ってくる者はいなかった。


 まぁここは昼でも静かな雰囲気の場所だし、夜でも同じなんだろう。

 私は周囲への警戒はそのままに、枝深くに腰掛け幹に寄り掛かる。座り心地は最悪に近いけど、そのおかげで居眠りする心配も無さそうなので良しとする。



「……雨、まだかな……」



 葉っぱの隙間から覗く雲は、さっきよりも厚みを増しているように見えた。


 そろそろ雨粒の一つでも落ちてきそうな雰囲気だったが、中々に身持ちが固い。

 ボロボロを超えてズタズタになったこの靴下で、てるてる坊主でも作ろうか。そんな事すら思いながら、じっとその時を待つ。



(…………その時、か……)



 口の中で呟きつつ、また噴水池へと目を向ける。


 ……これから雨が降り、あかねちゃんの居る場所に行けたとして。

 私は、彼女をどう助けたら良いのだろう。


 これまであかねちゃんを探し出す事だけを考えてきたけど、こうして立ち止まり腰を落ち着けてみると、そのあたりの事に考えが及んだ。

 特に今は待ちの時間で、とにかく身体を動かして誤魔化す事も出来ない。無意識に考えないようにしていた事柄を、強制的に直視させられる。



(昨日までは、単に見つけて通報したり、おぶって連れて帰る感じでいたけど……それだけで済むのか?)



 何せ、蜘蛛で地下でオカルトだ。

 色々と特殊すぎて、物事の見通しが全く効かない。



(……暗いとこなのは分かってる。そん中からどうにかあかねちゃんを見つけ出して……帰りどうすんだ。地下……穴……最悪おぶったまま崖登り? つーかホントに蜘蛛ってのが居るんなら、絶対何かして来るよな……?)



 一つ考えると次から次に懸念が浮かんできて、不安が心を侵食していく。

 いっそ今からでもインク瓶や『うちの人』に縋りたい気分になってきたが、それが出来たらこっそり家を抜け出してないのである。


 ここ数日で慣れ切った、腹の底がずっしりと重くなる感覚。

 とはいえそれに圧し潰されてる場合でもなく、薄い腹筋に力を入れて追い出した。



(考えなしなのは最初からだろ。もう全部、出たとこ勝負でやるしかないんだ)



 私のこの身体能力ならきっと何とかできる筈だ。そうだろ?

 ……これまで遭ったオカルトには、逃げる事しか出来なかったのに?


 に、逃げる事が出来たんなら、今回だっていける筈だ。そうだろ……?

 ……バスの時は、インク瓶の力がなきゃ逃げる事も出来なかったのに?



「……う、うぐぐ」



 しかし鼓舞する端からネガティブな声が重なり、不安を払うには至らない。

 結局どうする事も出来ないまま、貧乏揺すりで枝葉を揺らし続けるだけで、


 ――その時、電子音が鳴った。



「わぁっ!?」



 スマホの基本設定から変えてない、聞き慣れた電話のコール音。


 いきなりのそれに私は思わず木から落ちかけ、なんとか踏ん張り慌ててスマホを引っ張り出す。

 画面に映っていたのは、電話帳に登録されてない番号。当然見覚えも無いけれど――今このタイミングでかけてくるヤツなんて、一人しか思い当たらない。



(い、インク瓶……だよなぁ)



 おそらく、私の不在がバレたのだろう。

 やかましく鳴り続けるスマホに溜息を落とし、そのままじっと見つめる。


 こうなれば、きっとすぐに最寄りの『うちの人』が来る。

 せめて見つかるまでの時間を稼ぐためにも、さっさと通話なんて切ってしまった方が良いというのに、私の胸には迷いがあった。



「…………」



 電話に出たところで、どうせまた諭して言い包めようとしてくるんだって分かってる。


 ……でも、改めてちゃんと頼めば、インク瓶が折れてくれるんじゃないか。

 そんな都合のいい考えが消えなくて、応答ボタンの上で指が彷徨う。それは期待ではなく、ただの甘えだ。



「……どう、しよ」



 出るか、出ないか。

 途切れる様子の無いコール音が響く中、私の指がゆっくりと画面に近づいていき――。



「――っ!?」



 ぽたり。

 突然、画面に小さな水滴が落ちた。


 無論、私の涙とかではない。

 ハッと空を見上げれば、視界を覆う緑の隙間に流れる筋がパラパラと見え――私の鼓動が一段と大きく跳ねた。


 ――雨だ。やっと、やっと雨が降ってきた……!


 それは酷く弱々しく、小雨にも満たないようなささやかなものだったけど、雨である事には変わりない。

 私はすぐに噴水へと駆け出そうとして……手の中で響く電子音が、その行動を阻害する。



「――……」



 同時に胸に燻る迷いを思い出したけど、再びスマホの画面に目を落とした途端に霧散する。

 うるさい着信を電源ごとブチ切って、私は一切の躊躇いなく枝の上から飛び降りた。


 ――スマホに落ちた小さな小さな雨粒が、通話拒否のボタンの上に乗っていた。







 予想通り、噴水の水面は凪いでいた。


 雨の勢いが弱すぎるとかそういった問題ではなく、揺らぎ自体が存在しない。

 ぞっとする程に静かな平面――以前見たのと、同じもの。



「――よし、これなら……」



 これなら、問題なく噴水のオカルトを利用できる――。

 絶対に大丈夫と確信できるほどの知識も経験もないけど、何となくそれが分かった。


 私は一度大きく深呼吸をすると、噴水周りに張られた三角コーンバーを跨いでその前に立つ。

 後は、探しものを頭に浮かべて水面を覗き込む。それだけ。



「…………」



 ……二日前、私はあかねちゃんを想いながらそれをした。

 本当に偶然で、何も狙ってはいなかった。半ば事故みたいな形で私はあの暗い場所を見て……今、こうしてこの場に立っている。


 あの時と同じくあかねちゃんを想えば、きっとまた彼女の居場所を覗き見る事が出来る筈――だけれど。



(――それじゃ、あかねちゃんの所に行けない)



 そう、またあかねちゃんの事を想ったとしても、彼女の姿を見るだけに終わるだろう。

 いや、そうならない可能性もゼロじゃないけど……それよりも確実なものがあった。



(バスの中で見た、あのクソ悪夢……)



 そっと、左手のおまじないを見つめる。


 ……インク瓶の話では、私にその悪夢を見せていたオカルトは、相当に厄介なヤツであるらしい。


 何となく分かる。あの夢の中で見たものは、昨日の真っ赤なぐしゃぐしゃよりも怖いって感じていたから。


 その正体について、インク瓶は詳しく言及していなかった。

 私のあやふやな説明がもとだし、単に見当がついていないだけだと思っていたけど……きっと敢えて詳しく説明しなかったんだ。



(――アレも、たぶん蜘蛛だ)



 根拠は無いが、繋がりならある。


 蜘蛛の穴に落ちたあかねちゃんを、私は噴水のオカルトを通して見たんだ。

 そしてそれが、見られた相手に気付かれるという性質を持っていたのなら――蜘蛛だって私の視線に気付いたんじゃないのか?


 あの噴水に映る暗闇は真っ黒で、何を見たかも分からなかった。知らない内に蜘蛛を見ていたとしても、おかしくはない。

 直接の対象じゃなかったからか、或いはすぐにあかねちゃんが目隠しをしてくれたから私を正確に察知出来ず、夢という遠回しな方向からでしかちょっかいをかけられなかった……とか。いいセン行ってる気がする。



(噴水。あかねちゃんが夢に出てきた事と……真っ赤な単眼。そんで蜘蛛。色々知った今なら、幾らでも繋がってく)



 私がちょっと考えるだけでこれだ。インク瓶なんて、噴水のオカルトの事を知った時点でもっと深いとこまで考えてたんじゃないか。

 それで言わずに伏せたっていうのは……つまりそういう事だろう。少なくとも、私はそう思っていた。



「…………」



 深呼吸。

 左手のおまじないを擦り付けるように、噴水の縁を強く掴む。


 推測では、あかねちゃんは蜘蛛の穴を思い浮かべながらここを覗いて、その中の蜘蛛に見つかって落とされた。

 だったら、それをなぞれば同じ所へ行ける筈だけど――残念ながら私は蜘蛛の穴の実物を見た事が無い。形も深さも、何一つとして分からないのだ。


 すると当然、私のイメージする穴は常識的な別のものになる筈で、覗き込んだ水面には見当違いの光景が映し出される事だろう。

 あかねちゃんへの道は、繋がらない。



(……でも、他のなら――)



 私は強く目を閉じて、それをハッキリと頭の中に浮かべる。


 例の悪夢、めくれ上がったあかねちゃんの顔の中から現れた単眼こそ、蜘蛛の眼球に他ならない。

 夢の中から私を見つけかけたもの――あの時感じた怖気と共に、それが私の脳裏に居座った。



(間接じゃない、直でなら)



 色、形、大きさ、質感、光の反射。


 記憶に残るその姿を出来る限り鮮明に思い描き、その嫌悪から逃げるように勢いよく噴水へと身を乗り出した。


 そうして、雨が落ちながらも全く揺れない鏡の水面に、怯え交じりの私の顔が映り――次の瞬間、真っ黒に染め上げられた。



「――っ!」



 動いた。


 眼の奥が熱い。全身の血管が軋む。

 どくんどくんと心臓が脈打ち、異常なほどに集中していくのが分かる。


 しかし、水面に映し出されているのは前と同じくどこかの暗闇。きっと地下。

 景色は数歩先ですら全くと言っていいほど見通せず、ただ黒が広がるだけ。



(でも、居るんだろ、目の前に……!)



 インク瓶の言葉が正しければ。

 私の思っている事が正解なのであれば。


 思い浮かべた真っ赤な単眼。

 もう既に、この水面の中に、それが――。



「――っが」



 ――その瞬間。唐突に、左手が爆ぜた。



「、ぁ?」



 手が爆発したって訳じゃない。

 そうと間違う程の衝撃が掌を貫いて、腕ごと勢いよく弾き上げられたのだ。


 肩関節が変に開き、健がキリキリ捩れるものの、この頑丈な身体はふらつく程度で収まった。

 とはいえ衝撃に痺れた腕はすぐには戻らず、私はいきなりの出来事に呆けたまま、挙手の形で揺れる左手を恐る恐ると見やり――目を見張る。



(おまじない、が)



 ……掌に刻まれていた黒インクの線が、消えていた。


 いや、弾け飛んでいた、と言うのが正確だろうか。

 掌には細かなインクの飛沫だけが残っていて、これがさっきの衝撃の元だと察し、


 ――どうして?


 それの意味するところを瞬時に悟り、慌てて噴水へと目を、もどし、て。



「ひ、」



 ――視界いっぱいに真っ赤に染まった水面が飛び込み、喉が引き攣る。


 一瞬血の池かとも思ったけど、違う。


 眼。

 全部、眼だ。


 ぎょろり、ぎょろりと蠢く真っ赤な単眼。

 まるでおもちゃ屋のガラスに顔を押し付け覗き込む子供のように、水面の向こう側からそれが押し付けられている――。



(気付――焦点、合わせ、ようと、)



 最後まで考える前に、身体が勝手に思考を打ち切り飛び退る。


 だが遅かった。

 それよりも僅かに早く赤の水面がぎょるんと回り、私の顔をまっすぐに射抜く。


 赤の中に人間のような瞳なんて無く、視線なんて感じられる筈も無いのに。

 その時の私は、確かにそれと眼が合ったのだと確信してしまっていて。


 ――直後、私は落下した。



「――え?」



 飛び退った先、着地する地面が存在していなかった。

 足元にはいつの間にか暗闇が大口を開けていて、私の身体を飲み込んでいた。


 ――穴だ。


 私は咄嗟に縁に手を伸ばし「――っ!」しかし途中で唇を嚙み、その手を無理やり引っ込める。



(上がるな! このまま、これでいい……ッ)



 怖かった。逃げたかった。

 でも、それじゃ意味がない。助けられない。逢いに行けない……!



「――あかね、ちゃんっ……!!」



 落ちる。


 耳の周囲で風が暴れ、雲に覆われた空が遠のいていく。

 闇が深まり、穴底へと引きずり込もうと纏わりつく。


 それでも私はその全てに抗わず、逆に姿勢を穴底へと傾がせた。



「――――」



 遥か眼下に見えたのは、闇の底にゆらりと浮かぶ白と八つの赤斑と、その中心で瞬くたった一つだけの赤。



 ――蜘蛛。

 夢の中で逃げ出したその視線の中に、私は真っ逆さまに落ちていった。

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