【私】の話(中⑦)

4




 さぁさぁ、さぁさぁ。

 雨粒よりも細かく、そして温かい水滴が、泡に塗れた私の旋毛に降り注ぐ。



「…………」



 無駄に広く、イヤミに和風な大浴場。

 熱めのシャワーのお湯がシャンプーを流し、泡と同じ色の髪を曝け出す。


 泡はそのまま大した起伏の無い胸やおなかを滑り落ち、やがて排水溝へと流れて消えた。

 ……一瞬、これで身体の方も洗った事にならないかとも思ったけれど、流石にどうかと自重する。



「……、」



 ちらと、浴場の扉に目をやった。


 そこに嵌る磨りガラス越しに更衣室の様子がうっすら見えるけど、当然そこに誰が居る訳もない。

 けれど、更にその向こう側。廊下の方で立っているヤツの気配が感じられ、どうしても気がささくれ立つ。


 ――そう、『うちの人』の、ヤな気配。



「……はぁ……」



 自然と溜息が落ち、漂う湯気の中へと紛れ込んだ。


 今現在、私は自分の家に居る。

 謝り、そして問い詰めるべき『うちの人』にようやく遭えたというのに、悠長にシャワーなんぞを浴びている。


 こんな事をしている場合じゃないとは自分でも思ってるけど、だからって烏の行水になったところで、物事の進みが早くなる訳じゃない。


 私が今やるべきは、昨日からの疲労を少しでも癒しておく事。

 そして逸る心を宥め、気持ちを落ち着けておく事。

 ……インク瓶に、そう言われた。



「ああ、くそ……」



 そうは言っても、こんな状況じゃ無理だよ。

 もどかしい。私は悪態をひとつ吐き、身体用のスポンジに大量のボディソープをぶちまけた。



 ――『うちの人』と、インク瓶とを交えた話しの場。

 風呂上がりに待つその時間が、ただひたすらに遠かった。







『――ごめん、なさい』



 あのループするバスから脱出を果たした後。

 インク瓶に連れられた先で、迎えらしき『うちの人』の一人と出くわした私は、開口一番頭を下げた。


 昨夜、私の巻き添えで真っ赤なぐしゃぐしゃに殺されてしまった、『うちの人』の一人であろう金髪の青年の事だ。

 あかねちゃんの件について訪ねたい気持ちを抑え込み、口を開き――。



『――ぁ』



 ……そこで初めて、具体的にどう謝るかまで考えていなかった事に気が付いた。


 逃げずに向かい合い、そしてまず謝るという気持ちが先行し、内容にまで意識が及んでいなかったのだ。

 正確には、考えている余裕がなかったのだが……まぁ、言い訳にもならない。正真正銘頭が真っ白になる中、つっかえつっかえ言葉を落とす。



『あ、あの……昨日の金髪の人……本当に、ごめんなさい。私が、私のせいで、あんな、死に、死ん……。で、でも私、わざとじゃな、あ、ちが、そうじゃなくて、あの……ご、ごめんなさい』



 声が震えて纏まりも無く、おまけに自己弁護まで飛び出しかけた、なんとも酷い謝り方。


 これでは、昨夜に彼らから逃げ出した時のまま、何も変わらない。

 いや、それよりもなお不格好で、ちゃんと向き合うと決めた意味が全く無かったように思えた。地面を見つめ、唇を噛む。



『…………』



 対する『うちの人』は、やはり何の言葉も返す事は無く。

 ただ無造作に車のドアを開けたかと思うと、冷たい瞳をこちらに向けた。


 昨日、病院前で金髪の青年がしたものと同じ動作――私はぐっと息を詰め、更に言葉を折り重ねて、



『……その、すまない、話が見えないのだけど……』



 すると、横合いからインク瓶が口を挟んだ。

 どうやら彼は私達の詳しい事情を知らされていなかったようで、私と『うちの人』とに戸惑いの視線を送っている。


 私は無視するべきか、それとも反応するべきかを迷い、少しの間狼狽えて――。



『――昨夜。我々の身体の一つが例の滓からこの子を庇い、目の前で殺された。それを気に病んでいるようだ』


『!?』



 いきなり『うちの人』が喋り出し、思わず小さく飛び跳ねた。


 ……いや、コイツらが私以外が相手だと饒舌になる事は知っているけど、いきなり喋るのを目の当たりにするとやっぱりビビる。言葉の内容なんか意識の外だ。

 そうして、私が予想してないところからの動揺に固まっている一方、インク瓶は更に困惑を深めたような顔をした。



『……何だよその喋り方。いや、というか気に病むって……君の死に? そんなに酷い死に方……いや待て、まさかとは思うが彼女、本当に根っこから何も知らないのか……?』


『…………そうだ』


『バスで話した時から薄々察してたけど、そこまで? 家の事も、君に関しても何一つ話してない? 本気で言ってる?』


『……………………そうだ』


『……君の、子供だろ? 流石にそれは……えぇ……?』



 彼は私相手の時と違い、砕けた口調で『うちの人』へと捲し立てている。

 その内容はあまりよく理解出来なかったけど……一つだけどうしても我慢ならない間違いがあり、口を挟んだ。



『……ちげーよ』


『え?』


『そいつ……そいつらは「うちの人」っていう、何でか私の家に居る知んない人ら。私の「親」なんかじゃ絶対ない。そいつらが適当言ってるだけで、騙されてんだよあんた――』



 ――そう伝えた瞬間。インク瓶は顔に手を当て俯いて、『うちの人』は無表情のまま横を向く。

 そのまま黙り込む事、暫し。



『……とりあえず、だ』



 奇妙な沈黙が広がる中、インク瓶の疲れたような声が落ちる。

 そして顔を抑えていた手で、『うちの人』の車を指差した。



『――御魂雲邸に向かいがてら、まず君のこれまでについて詳しく教えて貰えるかい……?』



 ……彼は私にそう提案した後、じろりと『うちの人』へ白い目を向ける。

 常に変わらぬ筈の無表情が、一瞬だけピクリと乱れた気がした。







 それから私は『うちの人』の運転する車に揺られながら、インク瓶に様々な事を尋ねられた。


 ……本当は私の方こそ『うちの人』に色々聞きたかったのだが、ヤツはやはり私からの言葉には何も反応せず、会話が成立するのがインク瓶しかいなかったのだ。


 そして彼に仲介を頼んでも、「いいけど、まず僕に状況を把握させてくれ」と言われてしまえば、私は従う他なかった訳である。ちくしょう。


 プロフィール、生い立ち、毎日の過ごし方、そしてここ数日の出来事と、私の目的、どうしてあのバスに乗る事となったのか――。

 ……本当に話す必要があるのかと怪しむ質問も多々あったけど、その様子は真剣で興味本位ではなさそうだった。


 というか、私が何か答える度にインク瓶がどんどん不機嫌になっていったのはどういう事なんだろうな。

 その矢印は私ではなく『うちの人』に向いていたようだが、私が一言紡ぐごとに眉間のシワが深まっていく姿はちょっと怖かった。そのうち眉間に穴あきそう。


 ともかく、質問に答え続けるうちに車は私の家に到着。

 道中での問答も大体終えたし、さぁ今度はこっちの番だと意気込む私に、しかしインク瓶は首を振った。今度は『うちの人』からも話を聞きたいから、少し時間が欲しいとの事らしい。


 当然、私はこれ以上待ってられっかと反発したが――その瞬間最悪なタイミングでおなかが鳴った。

 おまけにインク瓶の「あと君ちょっと臭うよ」という最悪な後押しを受け、徹夜で動いていた私の休憩時間を兼ねてという体で、渋々了承させられた訳である。あの眼鏡きらい。






「……はぁ」



 そうしてお風呂から上がり、一息。

 リビングへの廊下を歩きながら、湿った髪をタオル越しにかき混ぜる。


 結局シャワーだけで済ませてしまったからか、臭いはともかく疲れまでは完全に流しきれなかった気がするけど、まぁ仕方ない。

 こんな心境でゆったり湯船に浸かっていられる訳が無いし……何より、うっかり気持ちよくなって眠ってしまうのも怖かった。



「…………」



 タオルで髪を拭く最中、左手に刻まれた黒い線が目に入る。


 例のバスの中で見た、ヤバそうな悪夢を防いでくれる……かもしれないおまじない。

 それはインクのクセにシャワーやソープの泡にも流れず、未だハッキリと私の肌に刻まれていた。



(これも、どうにかしないとなんだよな……)



 このおまじないがキチンと機能するのであれば良いのだが、もしダメだった場合、私はきっと終わってしまう。

 夢の中で私を捉えかけた血色の単眼を思い出し、温まった筈の身体がぶるりと震えた。



(……時間、まだか、そりゃ)



 その悪寒から逃げるようにスマホの時計を見れば、インク瓶と約束した時間まではまだまだ余裕があった。

 軽食をとっても時間が余りそうで、このもどかしさはもう暫くは続きそう――と、



「――……」



 その時、廊下の曲がり角から『うちの人』がやって来た。

 小学生くらいの小さな女の子だ。お運びさんをしているらしく、小さなお盆を持っていた。


 ……けれど、その顔はやっぱり無表情で、目も冷たい。こんな私より小さな子まで何をやらせているんだと、イヤな気分になった。


 更衣室前に居た成人女性の『うちの人』には舌打ちを残してきたけれど、流石に年下の子相手にそんな事をする気にはなれず。

 私は努めて目を合わせないようにしながら、速足で女の子の横を通り過ぎ――。



「…………」


「わっ……?」



 いきなり、私の目の前にお盆が差し出された。


 当然、小さな女の子からだ。

 すれ違いざまだったためぶつかりかけたが、咄嗟に立ち止まってどうにか回避。視線を落とせば、お盆の上にはラップ包みのおにぎりが数個乗っていた。



「え、な、何? ええと……これ食べろ、って?」


「…………」



 小さくても立派な『うちの人』ではあるらしく、やっぱり反応は無かった。

 しかしその冷たい瞳は私をじっと見つめ続けていて、お盆も下げられる様子は無い。


 ……普段なら、いらねーよと突っぱねるところではあるのだが。



(……卑怯だよなぁ、こういうの)



 ものすごく、断り辛かった。

 私は暫く迷ったものの、女の子の視線に圧される形で仕方なくおにぎりに手を伸ばす。



「…………」



 甘いはちみつ梅干し入りで、それ以外の塩気は無い、私の好みから外れた薄い味。

 ……いつも食べてる、『うちの人』の味。


 とはいえ疲れて腹ペコな身体にはそのほのかな酸っぱさでもありがたく、二口で全部食べ切った。



(……この子が、作ったんかな)



 だとしたら、料理の味付け傾向まで統一させるとかほんと何考えてんだろう。

 今更ながらに『うちの人』という集団へのうすら寒い気持ちを抱えつつ、なんとなく女の子の冷たい目を見返して……、



「……ねぇ、あなたのところの大人の人が、そこの自然公園で何かやってたかとか、知らないかな?」


「…………」



 無言。


 ハイハイ分かってた分かってた。

 私は浅はかな希望を抱いた己を鼻で笑い、二個目のおにぎりに手を付けた。







「……もうちょっとお淑やかに出来ないの?」



 約束の時間。呼び出された客間の一室。

 叩きつける勢いで扉を開けば、長机で革手帳を睨んでいたインク瓶が呆れた顔でそう言った。


 あんたが待たせすぎるのが悪いんだろ――すぐにそう返そうとしたけれど、同時に目に飛び込んだ部屋の様子に、開いた口が思わず閉じた。



「…………」



 ――だだっ広い室内には大量の『うちの人』がずらりと並び、まっすぐに私を見据えていた。


 その中にはさっきの女の子や私達を迎えに来ていた男性も居て、老若男女多種多様。

 昨夜の金髪の青年が死んだ時の一幕が否応なく思い起こされ、自然と一歩二歩後退る。



「……え、と。な、何だよ。こんな集めて……」


「……不気味なのは申し訳ないけど、この方が話が進めやすいと判断したんだ。まぁ我慢してよ、僕だって座りが悪いの耐えてるんだから……」


「…………」



 インク瓶は本当に申し訳なさそうに零しつつ、じろりと隣の席を睨む。


 彼の隣席には、『うちの人』の一人であろう無表情の女性が腰掛けていた。

 彼ら側の代表という事だろうか。長い髪を肩元あたりで二つに纏めた、可愛らしい顔立ちの人だ。


 彼女は隣からのトゲトゲした視線から逃げるように、ついと明後日の方向を向いている。

 ……その『うちの人』らしからぬ感情的な仕草に、やっぱり気持ち悪いものを感じてしまう。



「さて、じゃあまずは状況の整理から始めようか」



 ともかく、ちらちら周囲を気にしながら空いている席につくと、インク瓶がそう切り出した。

 流石にこれ以上の遠回りは看過できず、座ったばかりの椅子を蹴飛ばし立ち上がる。



「もういいっつーの! 散々あんたの話聞いたんだから、今度はこっちのターンの筈だろ!? いい加減回せ!!」


「そのための状況整理だよ。君が彼女達に……『うちの人』に謝るにしろ何かを聞くにしろ、前提として幾つかの事を話しておく必要がある。でないと君は何も理解できない」


「――……っ」



 一瞬、私の頭の悪さを当て擦られたと思ったけど、インク瓶の目にこちらをバカにする色は無い。

 まっすぐ、真剣にこちらを見つめていて……私は暫く唸った後、ゆっくりとまた腰を下ろした。



「……手短に、一言で済まして」


「無理」



 私の方を一言で済ますな。



「まず、君の事情。君は生まれてからずっとこの……『うちの人』と暮らしていたけど、一度も言葉を交わした事が無い。自分の家や血統、霊能についても何も知らず、君の言うところのオカルトも視えた事が無かった。しかし失踪した友人を探す内にどうしてかその血が目覚め、紆余曲折あった末、『うちの人』からその手がかりを聞き出そうとしている……だよね?」


「……紆余曲折の一言で色々纏めすぎだけどな」


「では次に、君が『うちの人』と呼ぶ彼女達だけど――」



 インク瓶はそこで一度言葉を切ると、隣の『うちの人』の女性に視線を移す。

 それを受けた彼女は、インク瓶を見つめたままに一つ頷き、



「――我々は『うちの人』ではなく、御魂雲。個であり群体の存在だ」



 無感情にそれだけを告げ、口を閉じた。


 ……そして、私がその意味を咀嚼するより先に。

 壁際に立ち並ぶ『うちの人』の一人が、言葉を引き継ぎ、喋り出す。



「我々は一つの魂を数多の身体に配し、同一の意識でもって別個に行動している」

「我々には自らの魂を代償に成す霊能があり」

「それをもってこの御魂橋の地下深くに漂う『くも』を封じ続けている」



 いや、一人だけではない。

 誰かが言葉を区切る度、別の『うちの人』がその続きを口にする――。



「御魂雲 異は我々の身体の一つが胎に宿した実子であり」

「諸事情によりその血を」「その霊能を封じ」「接触も最低限に抑えていた」



 迎えの男性も。

 更衣室前に居た女性も。

 おにぎりをくれた女の子も


 老若男女、一切の乱れなく個々の声を繋げ、言葉の形に縫い付ける。

 その異常な光景に、私は声も出せなくて。



「しかし二日ほど前」「何らかの理由」「によりその封が」「解かれた」

「その対応」「として」「インク瓶」「と呼ばれるあなた」「へと助力を」「乞うた」

「――以上」



 そうして散々に語り続けた後、『うちの人』は一斉に口を閉じた。

 それきり誰一人として口を開く事は無く、再び私に冷たい視線を集中させる。


 ……痛いほどの沈黙が、満ちた。



「……、……ぁ、……ぇ?」



 何も、何も分からなかった。


 その話し方も、内容も。

 今の光景全てが分からず、理解も出来ない。脳みそが受け付けてくれない。



(……な、に? 今……なにが、何を、見せられた? 何を、聞いた……?)



 隠し芸とか、冗談とか。

 何もかもがそう笑ってしまえるような現実味の無いものなのに、幾つもの無表情と冷たい瞳が決してそれを許してくれない。


 そんな、どう反応すべきかもつかない酷く奇妙な困惑の中――インク瓶の溜息がひとつ、やけに大きく部屋に響いた。



「……この世には、気が遠くなるほどの昔から、沢山の『異常』が存在するそうだ」


「…………」


「それは僕達の傍らに常に在り、多くは厄介事を引き起こす。殆どの人はそれを視る事すらかなわないけど、中にはそれに対処出来る特殊な素養を持つ者達も居る。御魂雲……君の『親』は、その一つ」


「……霊能力者……?」


「そう。そして、君もその力を目の当たりにしている筈だ。昨夜、君の目の前で彼女達の身体の一つが死んだのであれば……それをしたものが、無残な姿になる様を」



 自然と、あの金髪の青年の最期が頭に浮かぶ。


 真っ赤なぐしゃぐしゃが体内に入り込み、全身に裂け目を作ってミイラになった、全く意味の分からない死に方。

 正直、思い出すだけで吐きそうになるけれど……大切なのは、その後の事。



(……真っ赤なぐしゃぐしゃ、金髪の人の死体から流れ出た後、黒くなって、動かなくなって……)



 そうだ。あの真っ赤なぐしゃぐしゃは金髪の青年の死後に真っ黒なねばねばとなり、沈黙していた。まるで、アレもまた死んだかのように。


 私はあの光景を「そういうもの」だとして、深く考えてはいなかった。

 ……だけど、あの光景は、まさか――。



「簡単に言えば、君達は生贄の血統なのさ」



 私の思考を遮り、インク瓶が静かに告げる。

 淡々と、それでいてどこか私を憐れんだような声だった。



「切られ一倍、返し朝雲――千切る魂雲を精霊とし、神と怪異に……君が言うオカルトへ捧げ鎮めるための力。人を呪わば穴二つ、とは少し違うかもしれないけど、分かるかな。つまりね――」



 インク瓶はそこで一度言葉を切り、持っていた革手帳を長机に開き置いた。


 何も記されていない、白紙のページ。

 しかし、そのページとページの合間――のどの部分から、真っ黒なインクがじわりと滲み、



「――自分を殺した奴を、殺し返す。そういう風に出来ているんだよ、君達『魂』の家は」



 ――瞬間、白紙のページが展開した。



「なっ……!?」



 訳が分からないけど、そうとしか表現出来ないのだ。


 まるで折りたたまれた紙が開いていくように、白紙のページがぱたぱたと広がっていく。

 呆気にとられる私をよそに、白紙のページは机の半分ほどを覆うまでに広がると、その上をのどから滲んだ黒インクが縦横無尽に蠢き走る。



「そして、彼女達はその霊能を用いて、とある役目を担っている」



 そうして、元の何倍にも大きくなったページに記されたのは、文字ではなく地図だった。


 近代的な街並みから深い森林までが混在し、様々な顔を見せる土地。

 無数の川が流れ、数多の橋の架かる街。

 まるで航空写真のように精巧に描かれた、私達の住む御魂橋市――。



「――この街の地下深くには、『くも』が居る」



 ――その、蜘蛛の巣を象った街の中心に指を置き、インク瓶はそう告げた。



「……は? く、蜘蛛……?」


「オカルトで一つ括りにしていい存在かは疑問だけど、まぁそこはいい。ともかく、『くも』はここが御魂橋と呼ばれる前、遥か昔にこの地に広がり、沢山のものを吞み込んだそうだ」



 そして彼が再び隣の女性を見やれば、またさっきのように継ぎ接ぎの声がした。



「その『くも』は」「白の身体と赤の眼を持ち」「唯々害悪であった」

「そこに在る全て」「を己が内に取り込み」「血肉と変える」

「多くの」「霊能力者が向かった」「しかし」「幾度散らせど」「すぐに集い」「いつまでも消えない」



 次々と語り部を変える言葉はやはり不気味で、その内容が上手く頭に入って来ない。


 でも、きっと聞き流していいものじゃないっていうのだけは分かってる。

 必死になって耳を傾ける中、やがてぴたりと声が止まり、



「――だが、我々の死は効いた」



 インク瓶の隣の女性が呟き、地図上の蜘蛛の巣に目を落とす。



「故に我々は」「幾つもの身体を遣い」「その討伐を試みた」


「幾十の身体で八つの眼を潰し」

「幾百の身体で八つの肢を落とし」

「幾千の身体でたった一つの腹を破った」


「……だが、頭だけは幾万の身体を遣えど砕くには至らなかった」

「地面の奥底に押し込める事が関の山であったのだ」


「以降、我々はこの地を御魂橋とし、『くも』を封じ続けている」


「この地で身体を産み続け」

「この地で生を歩み続け」

「そしてこの地で死に続ける」


「それにより、削り続けるのだ」

「『くも』が決して地上に上がらないように」

「再び、それがおりる事の無いように」


「我々は御魂雲として、蓋の役目を担っている」


「――以上」



 それを最後に、声は止んだ。



「…………………………………………、」



 さっきと同じく、どう反応すればいいのか分からない。


 あまりにも話が大げさすぎて信じられず、でもこれも嘘だとも思えずに。

 ただ、何に対してかも分からない酷い嫌悪感だけが、ぐるり、ぐるりと巡り続ける。


 そうして、また沈黙が訪れるかと思ったけれど――今度は、そうはならなかった。



「……さて、その封じられているという『くも』だけど、完全に眠っているって訳でもないらしい」



 今度はインク瓶が語りを引き継ぎ、途切れた話を拾い上げる。

 ……どうしてか、胸底が微かにざわついた。



「時折思い出したかのように、地面の底から街のあちこちに干渉して来るようだ。ただの反射か、思考能力があるのか。判断はつかないけれど」


「…………」


「僕はまだ見た事が無いが、地面を無視して地上に穴を開け、覗き見をしてくるらしい。眼が潰れている筈なのに、器用な事だ」


「……穴……」


「言うまでもなく、危険なものだよ。普通の人が落ちたらどうなるか分かったもんじゃないから、君の『親』も見つけ次第すぐに対処している」



 胸のざわつきが、どんどんと大きくなってくる。


 立て続けに変な話を聞いて、不安定になっているのだろうか。

 俯くと、いつの間にか服の胸元を握りしめていて、布地に消えないシワが寄っていた。



「その方法というのが、開いた穴に飛び込んで死ぬ事。穴の向こうで死ねれば、より効果的に『くも』を削げるのだとか」


「……、……」


「……穴の大きさは、小さい時もあれば大きな時もある。形もその時によってまちまちだから、対処の際には老人や子供といった小さな体格の身体も揃えるそうだ」



 あの雨の日が。

 あかねちゃんと過ごした、自然公園での一幕が蘇る。


 たくさんの『うちの人』が集まり、何かを視下ろしてた光景。

 ……若い男女の他にも、老人や子供だって居た筈で。



「……親御さんに尋ねたい事が、あるそうだね」


「っ」



 肩が跳ねる。

 恐る恐ると視線を上げれば、どこか痛ましいものを見るような瞳と目があった。


 ……やめろよ。

 そんな目で見るな。まだ決まってないだろ。


 頭の良いコイツの事だから、きっともう色々な察しはついてるんだ。

 でも、違うかもしれないじゃないか。勘違いかもしれないじゃないか。

 だからやめろ。やめてよ。見るな、言うな――。



「――件の雨の日、我々は自然公園に発生した『くも』の穴に対処していた。その姿をこの子の友人に見られていた事は、我々も承知している」



 ――縋る希望を砕いたのは、インク瓶ではなく、その隣の『うちの人』だった。


 さっきと違って一人だけの身体で言い切った彼女は、インク瓶に注いでいた視線を私に移す。

 相変わらずの無表情。だけどそれに何かを思う余裕は、今の私には無い。


 だって、もし今の話が全部本当だったなら。


 蜘蛛とか身体とか封とか穴とか、そんな荒唐無稽が全部事実で。

 そして私の予想も何もかも、全部が合ってる前提で一纏めに繋げたら。


 私の思う、あかねちゃんは。

 オカルトを求めて夜中に家を抜け出して、きっと自然公園で遭ったオカルトのせいで居なくなった筈の、あかねちゃんは――。



「――蜘蛛の穴、見つけて……その中、に……、……」



 無意識の呟きが、弱々しく落ちた。


 ……証拠も、根拠にも乏しい。

 悪い考えに悪い考えを重ねた、文字通り穴だらけで、否定も容易い突飛な妄想。


 それは無い。考えすぎだ。そんな一言ですぐに切り捨てられる……その筈、なのに。



「――……」



 なのに、インク瓶も、『うちの人』も――そして私すら。

 誰も、鼻で笑ってくれなかった。

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