「 」の話
『平素より大変お世話になっております。
皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。
歩んで来た道は遠く、そして険しく、膝を折りそうになった事は一度や二度ではございません。
ですが、ようやくここまで辿り着く事が出来ました。
全ては皆様方あっての事でございます。本当に、本当に、心よりの感謝を。
・・・ 67 』
朝の登校途中。
気まぐれに通った道の塀に、そんな張り紙がしてあった。
「…………」
足を止め、眺めてみる。
それはやたらと古びた和紙で作られており、紙の真ん中にはこれまた古びた書体のひらがなが一文字だけ大きく書き記されていた。
先の文章はその下部に並べられており、それ以外の情報は無い。何もかもが要領を得ない、正真正銘の怪文書である。
どこぞの新興宗教のビラとかそんな感じだろうか。
若干おもしろく思ったけど、それ以上の感情は無く。なんとなくスマホのカメラでパシャリとやって、それきりその場を後にした。
……67って、何の数字なんだろう?
ふと疑問に思ったものの、数秒も経たず、忘れた。
「はーい、じゃあプリント配りまーす。ニ十分で回収な」
「げっ……」
三時限目、社会の授業。
教科担当である陰気な雰囲気の教師はそう言うと、束になったプリントを私達に配布した。
中身は四月中に行った授業の小問題集だ。
真面目に授業を受けていれば問題なく満点を取れるもの……との受け売りではあるが、私にとっては難問もいいところだ。
周りがサクサク解いている雰囲気を肌で感じつつ、私は頭を抱えてウンウン唸る。くそぅ。
(……タマ吉~、答え教えてあげよっか~?)
すると、右後方の席からそんな呟きがぼそりと聞こえた。
軽く首を傾げて見てみれば、ニヤニヤと笑みを浮かべる足フェチと目が合った。
コイツは私の足の速さだけではなく耳の良さも知っているため、時々授業中に囁き声での内緒話を持ちかけてくるのである。こっちから返事する方法ないっつーのに。
(どうせ半分くらい分かんないんでしょ? プリント逆さまにしてそっちから見えるようにしとくから、盗み見ていいよん)
ヤダよ、どうせその代わり足触らせろとか言うんだろ。
簡単に予想できる事なので、不自然にならない程度に首を振って拒否の意を示す。何で私はこんな変態よりバカなんだろうな。世の中どっかおかしいよ。
(まま、そう頑なにならんでさ~。ほんのひと撫で程度で済ませるからさ~)
ほらみろ。
今度は少し強めに首を振るが、それでも懲りないへこたれない。諦め悪く囁きは続く。
(ね~ね~、この問16とかちょい難しいよ~? タマ吉じゃ絶対解けな……あっ、そもそも問題文読める??)
ぶん殴るぞ。
答えはまぁともかくとしても、問題文が読めねー訳ねーだろがい。日本語だぞ日本語。
私は額にピキピキ青筋を立てつつ、その問16の問題文とやらにさっと目をやり……。
「……、……、……」
読めなかった。嘘やん。
いや違う、違うのだ。問題文はほぼ全部読めたし、意味も把握できたのだ。
ただ、とあるひらがな一文字――何故かそこだけ手書きだった――の読み方をド忘れしてしまい、ちょっと詰まっただけなのだ。ほんとそれだけ。文自体は読めたから。答えはまぁ、その、ともかくね!
(……え、嘘でしょ。タマ吉……?)
するとそんな私の様子に何かを察したのか、足フェチの引いたような声が聞こえた。
だから違うって言ってんだろ!!
流石に彼女に引かれるのはあまりにも耐えがたく、私は反射的に振り向いて、
「こらそこ、カンニングはやめ……ああ、お前か……いやでもな……あー……」
それを見咎めた陰気な教師が何故かカンニングを認める気配を醸し出し、私は思わず机に額を打ちつけたのであった。
そこまでか……お前らの頭の中の私は、そこまでだと思われてるのか……。
*
『平素より大変お世話になっております。
皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。
そう、あと僅か。あと僅かで、私どもは共に在れるのでございます。
音と結びつき、知の深くへとこの根を伸ばす。
私どもは、その尊き日を待ちわびております。心待ちにしているのです。
・・・ 49 』
「……んー?」
違うなぁ、何か。
翌日。昨日と同じ通学路を通ったところ、その張り紙はまだあった。
張られている位置も、ボロボロの紙質もそのまんま。
やはり古びた怪文書――しかし、その文面が微妙に変わっている……ような気がしなくもなかった。
紙の真ん中にデカデカと書かれたひらがな一字はそのままに、下部にある文章と謎の数字がちょっと違うように思うのだ。うろ覚えで自信無いけど。
そんな違和感に暫し首を傾げていると、そういえば昨日この張り紙の写真を撮っていたなと思い出す。
そうして、スマホを取り出し見比べてみたのだが――。
「あれ、合ってる……?」
画像の張り紙と目の前にある張り紙。その内容に差異は無かった。
何度も確認するけれど、文章も、書かれている数字も、昨日と今日とで変わりなし。私の勘違いで確定だった。
……本当に?
「んんー……」
何か、色々納得いかないなぁ。
そうは思えど、だからといって何がどうなる訳でも無し。
とりあえず今日もスマホでパシャリとやってから、私はモヤモヤ感と共に学校へと向かった。
『すまん、ちょっといいだろうか』
給食を終え、昼休みの教室。
ぽかぽか陽気とお腹いっぱいの合わせ技に気持ちよくなってウトウトしていたら、髭擦くんからそんなメッセージが飛んで来た。
メッセージでの彼は基本的に雑談の類はせず、用件が出来た時にだけ端的に送って来るつまんないタイプである。
だが確実に用があると分かっている以上はスルーするのも気が引け、仕方なしに寝ぼけ眼を擦って『なによ』とだけ打ち込んだ。
『いや、大した事じゃないんだが、これ、読めるか?』
「うんー……?」
そうして送られてきたのは、紙に書かれたとあるひらがな一文字の画像だった。
それは朝にも見た、例の張り紙の中心に書かれていた一文字だ。
……そして昨日の社会の時間に読み損なった一文字でもあり、私の眉間がキュッとする。
『さてはあんた、足フェチにでも何か聞いたな?』
『何の話だ? これ読めるのか?』
『読めらぁんな! 昨日ばちぃっと調子悪かっただけだで、あんま馬鹿にすんでねーだど!!』
『意味分からんし、どこの生まれなんだお前は。でもそうか、読めるのか』
返って来たその一文には、どこか戸惑いのようなものが感じられた気がした。
私もだいぶ眠かったので、ただの気のせいかもしれなかったけど。
『で、それが何? そのひらがながどしたん』
『本当に大した事じゃないんだよ。ただ一瞬、何か分からなくなって』
『は?』
『いや、何でもない。変な事聞いて悪かったな』
それを最後に彼のメッセージは途切れ、私が幾らメッセージを連打しても返事は無かった。
こういうとこだよな、この男の悪いとこ。
「……読めるか、ねぇ」
呟きつつ、もう一度彼が送って来たひらがなの画像を開く。
いや、こんなの幼稚園児ですら読めるだろ。これの何が気になってるんだ。
私は大きなあくびを零しながら、そのままぼんやり画像を眺めた。
「うん?」
ふと首を傾げる。
……髭擦くん、何でわざわざ紙に書いて送って来たんだ?
普通にメッセージに打ち込んで送ってくればいいのに、わざわざ写真に撮って添付してくるなんて二度手間じゃないか。
私は胡乱に思いながら、試しにそのひらがなをメッセージに打ち込んで、
「……………………」
どう……打ち込むんだっけ。
画面上のキーボードを隅から隅まで探しても、そのひらがなを入力できるキーが無い。
ローマ字は勿論、直接入力や音声入力でもまた同様。何をどうしても、その一文字だけが入らない……。
――『ただ一瞬、何か分からなくなって』
「――……」
髭擦くんのメッセージが脳裏をよぎる。
先程まであった心地のいい睡魔は既に無い。
それから昼休みが終わるまで、私の指が動く事は無かった。
*
『平素より大変お世話になっております。
皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。
そう、再び加わる事が出来るのです。私どもは、許されるのでございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
・・・ 15 』
「……やっぱ、変わってるよね」
また次の朝の通学路。
例の張り紙を確認した私は、昨日抱いた違和感が勘違いでなかった事を確信した。
文面も謎の数字も全部違う。もう絶対に間違いない。
私はすぐにスマホを取り出し、昨日の写真と見比べ――思わず目を見開いた。
「あ、あれぇ……?」
同じだった。
画像の中の張り紙と、目の前の張り紙。二つの文面は全く同じもので、違いなんて一つも無かったのだ。
そんな馬鹿な。昨日は最後のありがとう三行なんて無かったし、数字も49だった筈だろう。今度はちゃんと覚えてるんだぞ。
なのにこんな、まるで張り紙が変わるのと一緒に画像も書き換わってるみたいじゃ――。
「っ」
オカルトだ。
困惑の最中、瞬間的にそう悟った私はすぐにその写真をスマホから消し、速足でその場を後にする。
内容変わるとスマホの画像データまで変えてくる張り紙なんて、どう考えてもまともな存在じゃない。
迂闊にも気付かないまま関わってしまった事に舌打ちを鳴らし、道の角へと身を滑り込ませた。
「…………」
……その間際、ほんの一瞬だけ張り紙へと振り返る。
時間にして一秒未満。私はすぐに向き直り、そのまま走って逃げ去った。
――張り紙の中心に大きく記された、たった一文字のひらがな。
昨日。昨日からだ。
どうしてか、それが無性に気になっていた。
学校についてからスマホを色々調べてみたが、幸いにも異常の類は無さそうだった。
あの妙な張り紙の画像を保存してしまっていたのだ。
何かしら悪影響が残るのではないかと不安だったけど、これといった問題は見つからず。
画像データもどこかに残っているという事も無さそうで、少なくとも今は大丈夫っぽい。ほっと安堵の息を吐いた。
「…………」
ホームルーム前の教室はまだ人もまばらで、どこか落ち着いた空気があった。
足フェチも陸上部の朝練でまだ来ておらず、雑談する程度に仲良いヤツらもまだ来ていない。スマホは……さっき散々弄り回したし、暫くいいやとしまっておく。
……で、そんな手持ち無沙汰な時間が続くと、チラチラ意識を向けてしまうものがある。
黒板の隅。
掲示板に貼られたプリントの一部。
クラスメイト同士の会話。
文字や会話の違いはあれど、それらの端々にちょいちょいあの一文字が混ざるのだ。
あの張り紙にもデカデカと書いてあった、あのひらがな――。
朝の一件でだいぶ過敏になっているのか、やたらめったら気になってしまう。
「……意外と使ってんな、あれ」
そうして改めて気にしてみると、意外とその使用頻度が高い事に気が付いた。
まぁ日本語のメインとも言えるひらがなの一つだし当然と言えば当然だけど、なんせスマホで出ない程に影の薄い一字でもある。
日常生活で使う機会なんて、ほぼ無いんじゃないかと思ったのだが……。
「……?」
……何か。何か、思考に違和感があった。
それは昨日、髭擦くんとのメッセージのやり取りで感じたものとよく似ていた。
「…………」
黒板の隅、日直当番の氏名が書かれた場所を見る。
そこにはクラスメイトの男女一名ずつの名前と出席番号が書かれており、それぞれの下にそのひらがなが付け加えられている。
まぁごく普通の表記だ。おかしく思うところは無い。
「………………」
次に掲示板に目を向ける。
時間割をはじめ、今秋頭に配布された様々なお知らせプリントが雑多に掲示されており、所々に手書きでそのひらがなが混じっている。
……別に普通だ。どこもおかしくはない。
「……………………」
クラスメイト同士の会話。
やれアイドルの話だの、やれ漫画の話だの。それぞれが楽しそうに談笑していた。
そしてそれらに耳を澄ませると、誰もがあのひらがなを使っている。
自然に、何一つの疑問も無く、ありふれたひらがなの一つとして、普通に……。
「………………………………、」
スマホを取り出し、メッセージに再びそのひらがなを打ち込もうと試みる。
……だが、やっぱり出来ない。出来ないのだ、どうしても、何をしても。
「何で……なんでだ……?」
こんなにもあちこちで見かけているのに。
こんなにも普通に使われているのに。
なのにどうして、スマホだけ――。
「――ッ!」
――違う。書かれてるの、全部手書きだ。
それに気付いた瞬間、私は弾かれるように教科書を取り出した。
手作りの時間割や掲示物じゃなく、手書き部分の無いちゃんとした印刷物。
国語、数学、理科、社会。その他あるだけ取り出して、目を通す。
「……無い……無い、無い……無い……無い、無い、無い」
するとそのどれもに、そのひらがなは記載されていなかった。
全ての教科、全ての文章、どこを探しても、そのひらがなは見つからない。
そう――国語、漢字教材の巻末にある、五十音表にさえも、それは、無く、て、
「――ぁえ?」
その瞬間、私は『分からなくなった』。
どう読んでいたのか。どう発音していたのか。
どう書いていたのか。どう使っていたのか。
読めなくなった。言えなくなった。
書けなくなった。使えなくなった――。
――知らぬ内、私の認知に異物が混じっていた事を自覚した。
「ひ」
そうして全てが理解できなくなった途端、クラスメイトの会話に異音が混じり始めた。
いや、きっと正しく認識できるようになっただけなのだろう。
彼らが『それ』を発音する度、その喉から異常に低い濁音が零れ落ちる。
意味あるものとは到底思えず、ただの不気味な鳴き声としか思えない。私は堪らず席を立ち、そのまま教室から飛び出した。
「く、くそっ、何だこれ……何なんだこれッ!?」
校内で目にする文章の多くには『それ』があり、すれ違う人々からは絶えず濁音が飛び出している。
私の知らない『それ』が言葉として、何食わぬ顔で日常に混じっているのだ。
私も同じ状態だったのか?
何故こんな異常な状況に今まで全く気づけなかった?
込み上げる怖気に総毛立ちながら、とにかく学校の外に出る。こんな場所になんてもう一秒も居たく無かった。
「い、インク瓶――」
懐から小瓶とメモを取り出しかけ、手が止まる。
……もし、よりにもよって彼の口や文章から『それ』が飛び出しでもしたら。
頼るべきアイツが、そうでなくなってしまっていたら。例え悪い想像だとしても、考えるだけで躊躇した。
なら、どうする、どうしたらいい。迷っていたのはたったの数秒。
「――ああああもうッ!!」
私は自分を鼓舞するように叫ぶと、学校の校門を飛び出しひた走る。
何が起きているかは分かっていない。でも、何が原因かは完全に察していた。
――向かう先は朝に通った通学路。言うまでも無く、あの張り紙がある場所だった。
*
『平素より大変お世話になっております。
皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまでもう間もなくとなりました。
心より、心より御礼申し上げます。
そして、今後ともどうかよろしくお願いいたします。
私どもをどうか。
どうか。
どうか。
どうか。
・・・ 4 』
件の張り紙の文章は、またも大きく変わっていた。
しかし必死になって転げるようにそこへ辿り着いた私は、その文章をまともに読む事なく張り紙へと飛び付いた。
確かな根拠なんて無い。だけど絶対にこれだ。
こんなものがあるから、皆おかしくなっている――。
私は張り紙の中心に目立っている『それ』を睨みつけ――思いっ切り破り剥がそうとした。
「――ぐ、く……っ!?」
けれど、張り紙はビクともしなかった。
触れれば崩れそうな程にボロボロの紙質だというのに、私の膂力でも千切るどころか破れもしない。
両手を使っても、全体重をかけようとも。張り紙は塀にぴったりと張り付いたまま、どうする事も出来ず。
「……ねぇ、何してるんだろ、あの子」
「!」
そうこうする内、背後から話し声が聞こえた。
反射的に振り向けば、大学生くらいの女性二人がこちらに歩いて来るのが見える。その会話に低い濁音は無く、まだ『それ』に侵されていない事が窺えた。
普段であれば気恥ずかしさに大人しくなるところだが、残念ながら今の私にそんな余裕はない。
クスクスと笑われる気配を感じながらも、私は張り紙を剥がそうと奮闘し、
『・・・ 2 』
「っ、はぁ!?」
突如として張り紙に書かれている数字が変動し、声を上げた。
一体何が起きた。私は数瞬の間呆け――先程の女性達の会話に濁音が混じるようになったのが聞こえ、ゾッとした。
「こっ……見たヤツの、カウント……!?」
この張り紙を見たヤツは、皆『それ』を植え付けられるのか?
というかこの張り紙、普通の人にも見えるの?
いやそれより、この数字が0になった時に何が起こる――?
幾つもの疑問が通り過ぎ、その殆どに答えが無い。
ハッキリしているのは、ただ一つだけ。
『――私どもが加わるまでもう間もなくとなりました』
――ダメだ。
酷い嫌悪感と共に、そうとだけ思った。
「くそ、えっと、えっと……!」
このままではらちが明かない。
力尽くでは無理だと悟った私は一度張り紙から離れ、何か術が無いかと辺りを見回した。
けれど当然、ただの小路に何がある筈も無い。
長く続くアスファルト道と塀があり、それ以外は電柱と川、そして小さな橋があるだけだ。
解決策に繋がるようなものは見つからない。
そしてそうしている内にまた人が過ぎ、私に釣られ張り紙を見て数字を1にしてしまう。
咄嗟に身体で隠しても無駄だった。今更ながら目立つ私が張り紙の傍に居ちゃダメだったと気付いたけど、もう手遅れだ。
「っぐ……!!」
最早迷っている暇は無い。
私は恐怖心を振り切り、小瓶を取り出し――その中身をメモにぶちまけるより先に、また通行人がこちらにやって来るのが見えた。
「なっ、ちょ……!」
慌てて張り紙から離れるけど、何かの拍子にそちらを向かれたらアウトだ。
すると張り紙の文面が見ている最中に変化し、『それ』と数字を残して全て消えた。
『 1 』
先程まであった丁寧さが嘘のように無機質。私はそこに、その本性を垣間見た。
「――――」
終わりだ。
逃げる時間も、術も、インク瓶に相談している暇すらも無い。
動悸が酷い。呼吸が浅くなり、瞳が収縮を繰り返す。
恐怖し、焦り。そして悪足掻きとして、握る小瓶を張り紙目掛けぶん投げて――
「っ!!」
瞬間。考えが浮かび、腕を止めた。
何かを思うより早く身体が動く。
私は張り紙へと縋りつき、小瓶の蓋を開け――黒インクに浸した指先をその紙上へと滑らせた。
「こ、のっ……!」
『 1 』と書かれたその右横に、掠れた円が幾つも並ぶ。
インクが黒い火花のように不自然に跳ね飛ぶけど、いちいち構っていられない。
私の白い髪が斑に染まるのも無視して、余白全て、張り紙の右下隅に至るまで、一心不乱にインクを引きずり続けた。
『100000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000』
一体、幾つ0を書き連ねた事だろう。自分でも桁が分からない。
インクは未だ火花を上げて、微細に揺れて蠢いている。
まるで虫の集合体のような光景に怖気が走り、最後まで書き終えるや否や堪らず跳ね飛び距離を取った。
やがてやって来た通行人が、そんな私を不思議そうな目で眺め――次に、吸い寄せられるように張り紙を見、て、
『99999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999』
――そして数字がそう変わった事を確認した瞬間、私は深く息を吐き出した。
「……は、はは、は」
力が抜け、反対側の塀を背にずるずるとへたり込む。
張り紙の数字に書き加え、カウントを滅茶苦茶に増やして妨害する――。
苦し紛れも良いところだったが、結果は成と出たらしい。
……というか、ここまで書いたら時間稼ぎどころかカウント達成自体が不可能になったんじゃなかろうか。
たぶん地球上の人間全部合わせても無理だよな、これ……と、グダグダ考えてる場合でなく。
「い、今のうち……」
今度こそインク瓶に連絡すべく小瓶を掲げたが、小指の先くらいしか残っていない。連絡用として使うには心許なく見えた。
でも電話かけても出ない時多いんだよな、あいつ……。
さっき散々インク使ったし、この張り紙で成立しないかな。私はスマホを取り出しつつも、また張り紙に目を向けて、
――轟音。
「ッ!?」
雷のような大きな音が耳を劈き、張り紙が内側から盛り上がる。
紙の裏側。塀の方から何かの拳が叩き付けられているように。
「……、……」
何度も、何度も。
何度も、何度も。
轟音は繰り返され、張り紙に記されている『それ』を裏から膨らませていく。
……私はそれに、嘆きのようなものを感じた。そして間もなく、それが殺意に変わるだろう事も。
私は必死に息を殺し、その場を離れた。
音は続く。
完全に離脱し、遠く離れた場所に逃げ切っても。それは止む事無く、どこまでも響き続けていた。
■
「…………」
翌日。
件の小路には、もう張り紙の姿は無かった。
あれほど強固に貼られていたボロ紙の接着痕も、剥がされた痕跡も見当たらない。
この塀に昨日まで何かが貼られていたなど、言われても気付けないだろう。
……ただ、一つだけ。
張り紙があった場所の塀に、少しの文章が残されていた。
『(読めない)、心無い愚か者の妨害により、私どもが加わる事が不可能となりました。
皆様方のご協力を無意味なものとしてしまい、本当に申し訳りあまんせ。
全ては、愚か者どもの(読めない) であござま いす。
申し訳あまりせ ん。
(読めない) 申し訳あり
まんせ。
どうか。お許しください。
お許くしだいさ。
お許くだし なさい。
さない い 』
最後の文字は結ばれず、下方に引きずられるように伸びていた。
それは塀と地面の僅かな隙間に伸びているようにも見えたけど、覗き込むような事はしない。
私はそれきりそこを見る事も無く、淡々と歩き去る。
――その時、後ろから低い濁音が聞こえたような気がしたけれど。
気のせいだって、無視をした。
『ああいうインクの使い方、なるべくしないでね……』
あれから暫く経った後、ようやく連絡の取れたインク瓶は疲れた声でそう言った。
事の詳しい説明は無かった。
私も流石に怪訝に思ったけど、「もう問題ないから」と言い張るだけで、結局最後まで何も話してはくれなかったのだ。
正直、何もかも意味は分からなかったし、モヤモヤもだいぶ残っている。
あの張り紙は何だったのか。書き記されていた『それ』とは、加わるとは何の事だったのか。
気になるだろ? と問われれば、私は首を縦に振るだろう。
……だが一方で、聞きたいか? と問われれば首を横に振ってしまうのも確かな訳で。
だからまぁ、いい。
少なくとも、インク瓶の言葉に低い濁音は混じっていなかった。それでよし。
その安堵をもって、今回はおしまいとする事にしたのである。
「おはよ~タマ吉~。……ありゃ、勉強なんて珍しいじゃん」
「はよ。そんなんじゃないよ、暇潰し」
ともあれ、そうして戻った日常の中。
朝のホームルームを待つ間、私は漢字の問題集を開いていた。
といっても漢字の書き取りとかをしている訳ではなく、巻末の五十音表を眺めているだけだ。
当然ながら、その中に変な物は無い。
今となっては何かもう見ているだけで心が和むね……。
「ちゃんとしたひらがなって癒されるんだなー……今まで知らんかったよ……」
「そうね~、『あ』と『し』とか超良いよね~」
コイツほんと。
私は勝手に話に乗って来た足フェチの尻をぺちっとはたき……一方で彼女の言葉にも低い濁音が混じっていない事を確認する。
もう作られてしまっている時間割や掲示物はともかくとして、人々の会話などの中からは『それ』が消えている事は確認していたが、イマイチ実感はなかった。
しかし足フェチを相手にしてようやっとインク瓶の言葉を実感できた気がして、知らず止めていた息をつく。
これなら、時間割なども次の張替えの時には元に戻っているだろう。たぶん。
「で、何で突然ひらがな? かるたでも始めたん?」
「まさか。最近ちょっと……自分がひらがなだと勘違いしてる精神異常線見ちゃってさ、そのダメージが……」
「いやどんな……?」
首を傾げる足フェチを横目に、私は並ぶ五十音を一つ一つ指でなぞる。
『あ』から『ん』。そしてその次の、最後の一文字。
私は見慣れたそれらに最早心地よさすら感じ、小さく笑みを零したのだった。
「――うん。ちゃんと全部、分かるや」
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