「川」の話

 人間、誰しも苦手なものの一つや二つくらいはあるものだ。

 それは運動だったり料理だったり、会話が嫌とか高い所が怖いとか、まぁきっとそれぞれ色々ある事だろう。


 全パラメーターMAXの完璧超人なんて、世界のどこにだって居ない。

 どこかに飛び出たものがあれば、その分どこかがへっこんでいる。人間……というか生物全部がそういう風に出来ている。筈。たぶん。うん。部分的にそう。


 分かるだろうか?

 つまり私のようなスーパーウルトラ超合金メガ美少女DXであっても、苦手な事があって当然という事なのだ。


 そう――例え全教科のテストで50点以下を叩き出そうとも、別に何らおかしい事では無いのである!






「おかしくはなくても、ダメではあるんだよ。いいから早くやりなさい、皆終えて残りはお前だけなんだから」


「……あい……」



 放課後。私の通う中学校の教室。

 テストで幾つもの赤点を取った末の追試験を受けさせられていた私は、担当教師の冷たい物言いにガックリと首を下げた。


 他の追試仲間は既にテストを解き終えて帰宅済み。教室内に残っているのは美少女な私と陰気な男性教師でマンツーマン。

 なんだかイケナイ雰囲気に発展しそうなシチュエーションだが、漂っているのはそれとは程遠く、互いにゲンナリとした空気である。



「うぐぐ……授業もちゃんと聞いてるし、宿題だって忘れずやってるのに、どうして……!」


「今ついさっき聞いたんだがな、お前勉強が苦手らしいぞ」



 教師が気だるげにそう返し、手慰みにか何某かのバインダーをパラパラとめくる。


 そう、これはとっても意外な事実なのだが、私は頭の出来がほんのちょっぴりよろしくない。


 いや頭の回転自体は速い方だとは思うのだが、勉学の方となるとまるでサッパリ。

 体育以外の教科で高得点を取った事が殆ど無く、テストがあれば数科目で追試験を絶対喰らうレベルである。そうだよ、今の事だよ。


 まぁでも仕方あるまい。

 私にはこの美貌と頑丈な身体という二物がある。望んだものではないとしても、その分がどっかから差っ引かれてしまったのだろう。

 それが勉学の才だった――そう考えれば少しは呑み込めなくもない。そう思わんとやっとられんわ。


 ともかく、そうしてテスト用紙と格闘する事更に十数分。

 流石に見かねた教師が教科書を見る事を許可してくれたので、ありがたくそれに従う事にした。


 本試験であれば許されない行為だが、これは赤点救済の追試験。多少の融通は利かしてくれるのだ。



「これ一年後期の振り返り問題だぞ……? お前こんなので去年どうしてたんだ……」


「ちょっと前までは勉強教えてくれる友達が居たんで」



 呆れる教師に返しつつ、教科書からテストの答えを見つけていく。

 まぁ私はそれすらもだいぶ遅い訳で、もたもたと時間ばかりが過ぎていった。



「――なぁ、前から聞きたかったんだが、この名前って本名なんだよな?」



 すると、また手元のバインダーを眺めていた教師がそんな事を問いかけてきた。

 どうやら追試験を受ける生徒の一覧表を見ていたらしく、バインダーの中身に私の名前がちらりと見えた。



「そですよ。ペンネームとかな訳ないでしょ」


「うん、だよなぁ……」



 教師は癖っ毛を撫で付けつつ、言い淀む。


 まぁ、教師の気持ちも分からなくもない。私の名前は姓名どちらも割と特殊なものであり、一見どう読むのか分からない人も多いのだ。

 この陰気な雰囲気の教師は二年生になって初めて私と交流を持ったので、見慣れぬ字面にちょっと戸惑ってしまったのだろう。



「あー……じゃあ、ご先祖様にあやかってみたいな感じだったりする?」


「いえ、無いと思いますけど……」



 我が一族の家系図をどれだけ遡ろうが、私と同じ名前は無いと思う。

 というかそもそもウチってちゃんとした先祖とか居るのか? 大概な『異常』だぞ私の家。



「ええと、私の名前に何かあるんですか? もし学校に相応しくない的なアレだったら私にはどうしようもないんで、すんませんとしか……」


「そういうのじゃないんだが……うーん」



 教師はもごもごと口をまごつかせたが、それ以上言葉が続く事は無く。

 私は首を傾げながらも、テストとの激闘へ戻っていった。





 そうして、ひーこら言って追試験を終えた頃には、太陽はだいぶ傾いていた。


 オレンジ色の夕焼け空が、酷使していた目に染みる。

 私はゴリンゴリンに凝った首と肩をぐるんぐるんと回しつつ、人気の少なくなった帰路を歩いた。



「つっかれたー……これ明日もやんのかぁ、うげー……」



 私が取った赤点は四科目。今日終えた追試験は二科目。

 タイムアップで終わらなかった残り半分のテストが、明日の放課後に回される事となってしまったのだ。


 居残りにギリギリまで付き合ってくれた挙句、それを伝える事となってしまった教師のしょっぱい表情といったら、何かもうホントすんませんとしか言えなかった。すんません。



(……でも、何かおかしかったな、先生の反応)



 川沿いの土手道。夕陽に染まる川辺を眺め、ぽつりと呟く。


 私の名前を聞いて、妙な反応を浮かべたあの教師。

 名前に困惑されるのは慣れてはいたが、先祖がどうのと聞いてきたり、やはりそれだけでは無かったようにも思えた。


 一体、字面以外の何に引っ掛かっていたのだろうか。へとへとの頭でぼんやり考えたが、まぁ答えなんぞ出る訳が無く。

 早々に思考を打ち切り、ただ川の流れを楽しむ事にした。


 特に自然が好きという訳ではないが、上から水流をぼけーっと眺めているのは疲れた脳によく効いた。

 そのまま何も考えず、周囲の風景を映す水面を追いかけて、



「……ん?」



 ふと、違和感。


 ……川に映っている街の景色が、何かおかしい気がした。

 最初は鏡に映った時の反転的なアレかなとも思ったのだが、それにしてはちょっと妙。


 周囲に並ぶ住宅類は全く映っておらず、幾つかのボロッちぃ小屋が映るのみ。

 空にかかっている電線の類も見当たらず、まっさらな夕焼け空だけが綺麗に広がっている。

 そして私を含めた通行人が、誰一人として映り込んでいない――。



「…………ぴっ」



 ――あっ、これオカルトだ。


 そう気づいた瞬間、私は急いで近くの物陰へと身を隠したのであった。

 勘弁してよ疲れてんのに。





 どうやら、この川の水面に映る街並みの景色が、過去のものになっているらしい。


 ……何とも突拍子もない結論ではあるが、私も『異常』に対しては慣れたもの。

 少し観察するだけで、すぐにそんな感じのアレだと察しがついた。嬉しくねぇや。



(……何もして来ない、かな?)



 街路樹の影に隠れたまま、口の中だけで呟いた。

 しばらく油断せず警戒していたのだが、川は水面に現実と違う光景を映すだけで、それ以上何が起こるという訳でも無かった。

 流石に直接水面に手を入れればどうなるかは分からんけど、見ている分には問題は無さそうだ。


 私は恐る恐ると川へと近づき、その水面に映る景色を改めて確かめる。


 そこらへんのビルとか全部無いし、なんか全体的に田舎臭いし、私の姿も映らないままだ。

 建物や木々の数形こそ全く違うものの、道や坂の位置など地形的にはほぼ一致。

 映っている角度的に確かめられない箇所は多々あれど、これで別の場所だったなんて事は無いだろう。


 感じる雰囲気の古臭さや電線の少なさなども考えれば、映っているのはやっぱりこの川辺の過去である……と、思う。


 ……で、そうなると『いつ』を映し出しているのよ、という事だが。



「わ、わかんにゃい……」



 そう、勉強が苦手という事は、歴史にも疎いという事である。


 映し出されている建物の建築様式だの、通行人の服装だの、そんなものからハッキリとした年代を特定するなんぞ私に出来る筈が無いではないか。

 十年二十年程度の昔では無いけど、かといって江戸時代ほどの大昔ではない。分かるのはそんなもんだが、逆にそんだけ分かった事を褒めて頂きたいもんだ。


 それはさておき。



「……でもま、これならほっといていっかな」



 安堵の息と共に、強張っていた身体から力を抜いた。


 だって実害はなく、ただ過去の光景を映しているだけのものだ。

 猛獣タイプ小鳥タイプで分ければ確実に後者であり、わざわざ深入りする必要も無かろう。


 あとでインク瓶なり『親』なりに報告して、それでお終い。

 私は止まっていた歩みを再開し、先程より早い足取りで家路を急いだ。実害が無いと分かっていても、長い事近くに居たいかはまた別の話であるからして。


 ……とはいえ、自分の住む街の過去の姿に興味が無い訳でも無い。

 帰りがてらに自然と視線が水面へ向かい、古い街並みを眺めてしまう。



「ほーん……」



 見える限り、建物はまばらで少なく、あっても木造の小屋が殆どだ。

 たまに案山子のような物が見えるし、通行人も殆どがほっかむりをしたお爺さんお婆さんだったりするので、角度的に見えない地面には田んぼが広がっているのかもしれない。


 現在のそこそこ開発された街並みと見比べつつ、私はなおも水面の景色を眺め、



「――お」



 少し前方に、小さな男の子と女の子が並んで歩いているのが見えた。


 顔を上げて現在の前方を見るが、当然そこには誰もいない。水面の中だけに居る、過去の子供達だ。

 過去の景色に初めて見た若々しい存在に、なんとなく注視する。



「兄妹……ではなさそ。幼馴染かなー……」



 七、八歳くらいだろうか。流石に声までは届かないらしく何を喋っているかは分からなかったが、仲睦まじそうに歩いている姿に思わず微笑みが落ちた。


 そうしてほんわかしていると、やがて川を横断する橋に差し掛かる。

 通学路的には渡る必要のない橋だ。特に気にする事なく通り過ぎ、まるで区切りの如く一瞬だけ川が遮られ――。



「っ!?」



 次の瞬間、眺めていた子供達が成長していた。

 背も伸び髪も伸び幼さが薄れて、男児女児から十二歳くらいの少年少女の姿へと変貌していたのだ。


 慌てて橋の前まで戻ってみれば、彼らは再び男児女児の姿へと戻っている。

 どうやら、橋を境にして数年程度の時間が飛んでいるらしい。



「え、えぇ……? じゃあこれ……」



 土手道の先にはまだ幾つもの橋があり、全部通り過ぎた時にはどれだけ時間が飛ぶのだろう。

 だからって私には別に関係ない筈なんだけど、考えると何か変な怖さがある。ウラシマSF的なアレ。



「…………」



 迷ったが、そのまま進む事にした。


 少年少女は橋を一つ区切るごとにどんどん大人になっていき、彼らに流れる雰囲気にも徐々に変化が生じていく。

 ただの仲良しさんから、気になる異性に。そして友人以上、恋人未満のもどかしさ……。

 時間が飛び飛びになる分、そこらへんの変遷がものすごく分かりやすかった。初恋がまだの私ですらピンとくるレベルだ。



「ひゅ、ひゅー……」



 そのムズ痒い空気感に耐え切れず、私の視線があちこちに散る。


 まぁほら、私は初心で清楚で純情可憐が信条だから。そういう方面の経験値や耐性なんてミリも無いんだ。

 誰にともなくそんな言い訳を並べ立て、何気なく川の後方へと目を逸らした。



「……?」



 するとそこに、一人の男が立っていた。


 ボサボサ頭がよく目立つ、陰気な男だ。

 水面の向こう側に立つ彼は、前方の少年少女に向けてじっとりした目を向けている。

 ……正確には、少女の方へ。



「…………」



 どうにもイヤな目つきだ。

 気になって土手道を戻って確かめてみれば、男は二つ目の橋あたりから少年少女の後をつけているようだった。


 つまり年単位でのストーキング。ほんわか空間に隠れていた異物にゾッとする。



「うわー……どうなんのこれ……」



 恋愛展開以上にめっちゃ気になる。

 速攻で元の場所に戻り、更にその先へ。彼らの顛末がどうなるのかを確かめに行く。


 橋を一つ過ぎる度、少年少女は親密さを増し、そしてストーカーの目も濁りを増す。

 最初は単純に睨んでいるだけだった男の表情も、少しずつ、少しずつ険しくなって、最後には殺意を滲ませるものにまで歪み果てていた。


 これちょっと本格的にヤバくね?

 そう思えども、私にできる事は何も無い。水面に浮かぶ彼らの姿を、ハラハラしながら追い続け――。


 そうして、幾つ目かも分からない橋を過ぎた時、とうとうその瞬間はやって来た。



「……何か、雰囲気違うな」



 それはこれまでと違い、少年少女が向かい合っている場面だった。


 少年は兵隊さんのような服を着て、何やら決意を込めた顔。

 少女の方はその目に涙を堪えつつ、お守りを彼に手渡していた。


 ……これもしかしてアレか。戦争に行く直前、みたいな……。

 流石に私もそう察し、先程とは別の意味でのハラハラが湧き出した。



「障害ありすぎでしょこの子らの恋……」



 もう少し優しい世界であれよ。

 そう憤りつつストーカーを探せば、彼はやはり少し離れた場所に居て――その手に包丁が握られている事に気付き、私の顔が引き攣った。



「マジかよコイツ……!?」



 きっと、この男も戦争に行かねばならなくなったのだろう。少年と同様の兵隊服を着た彼は、どこか自暴自棄になっている様子だった。

 血走った眼で少年と少女を睨みつけ、ゆっくりと近づいている。


 何をするつもりかなど、考えるべくもない。



「おいおまっ……ああダメなんだった! じゃ、じゃあ、えーと、えーと」



 水面に映るこれらは過去の景色であり、全てが終わってしまった事。互いの声は届かない。

 私も何も出来ないと分かっていたけど、彼らに感情移入しすぎたのか、黙って見ていられなくなっていた。


 そうして右往左往とする内に、ストーカーは包丁を構えて走り出す。

 少年少女は気付いていない。お互いに抱きしめ合い、最後の別れに浸っているのだから。


 ヤバイ、まずい、どうしよ――。


 全てを俯瞰し、正しく状況を分かっているのは自分だけ。

 その事実が激しい焦りを呼び、私は半ばパニック状態。真っ白となった頭で、反射的に土手を駆け下りて、



「――オ、オワァーーーーーーッ!!」



 奇声と共に、持っていた学生鞄を水面のストーカー目がけ投げつけた。


 焦ると手に持っているものを投げつける――私の悪い癖だ。『足の裏』の時もそれで大変な目に遭ったのに、まるで懲りていないらしい。


 ともかく、私の全力でぶん投げられた鞄はものすごい勢いでもってすっ飛び、水面越しにストーカーへと着弾。

 まるで砲弾が落ちたかのような、冗談みたいな水飛沫を跳ね上げた。



「うわっ、あぷっ!」



 明らかに不自然な跳ね返りだった。

 当然近くに居た私は頭から水をかぶって濡れネズミ。


 そーらびっしょびしょの美少女だー……なんてクソギャグを言っている場合でも無い。

 ストーカーは、少年少女はどうなった。私は急いで顔の水を拭うと、目を皿にして川の水面を覗き込んだ。のだ、が。



「あ、あれっ?」



 しかしそこには何も映っていなかった。

 いや、水滴を垂らす私の姿は映っているのだが、先程まで見ていた過去の景色は跡形もなく消えていた。


 慌てて川を遡り確認しても、やはり変わらず。水面に映る景色に、周囲との差異は見当たらない。

 完全無欠に、元の何の変哲もない川へと戻っている――。



「――何でだよもおぉぉぉ……!」



 私が鞄を投げ込んだ事で、オカルトが壊れたのだろうか。


 あれから彼らは一体どうなった。ストーカーの凶行は、少年少女の恋の行方は。

 最早全ては文字通り水の中。まるでテレビドラマの最終回の最中に停電したような気分だ。


 媒体がテレビでは無くオカルトである以上、再放送も望めまい。ガックリと項垂れ、川の中にしゃがみ込む。



「あ~もぉ~……どうせ何も変わらんかっただろうけどさぁ~……!」



 私が鞄を投げ込んでいようがいまいが、あの先に待っていたであろう胸糞悪い結果は変わらなかった。それは分かっている。

 だったら見ないで済んだ分、むしろ幸運だっただろう――頑張ってそう思おうとしても、「だってあれから大逆転があったかもしれないじゃん……?」という考えがこびりついて離れない。あーモヤモヤする……!!



「だー、ちくしょー、余計な事したー……」



 とはいえ、いつまでもブチブチ文句を垂れている訳にもいかない。

 一際大きな溜息を吐き出しつつ、元居た場所へとペタペタ戻る。


 追試で疲れるわオカルトに逢うわ、挙句の果てに服も荷物もずぶ濡れだわで今日はもう散々だ。

 早いとこ帰ってシャワー浴びて寝たい。私は疲労とイラつきを隠そうともせず、川の中からぶん投げたままの鞄を探し、



「あ、あっれぇ!?」



 これも、無かった。


 川の水深は私の膝丈程度で、透明度も高い。

 少し探せばすぐに見つかるだろう場所なのに、どれだけ目を凝らしても鞄の姿が見当たらないのだ。


 上流に行っても、下流に行っても、水に直接顔を突っ込んで探しても、対岸の土手を探し回っても、無い。

 本当に消えてしまったかのように、全然全く見つからない――。



「――いや明日の追試どうすんのぉ!?」



 鞄の中には、明日の試験科目の教科書ノートが入っていたのに。

 端っこが群青色に染まり始めた夕焼け空に、私の絶望の叫びが木霊した。





「昨日川に落っこちて教科書とか全部なくしましたぁ~……」


「何やってんだお前は……」



 翌日。放課後の追試験。

 教室にやってきた担当教師に開口一番そう告げれば、ほとほと呆れた様子で溜息を吐かれた。すんません。



「川って、帰り道か? ケガとかは無かったんだろうな」


「そこらへんは全然……あ、体調とかも大丈夫です」


「そっちは心配してない。お前どうせ風邪とか絶対ひかんだろ」



 どういう意味だおォん???

 ……と、凄みかけたが、ぐっと我慢。なるべく殊勝な顔して縮こまる。

 悪いのは全面的に私の方だし、教師のお慈悲も欲しいのだ。



「せめて友達とかに借りたりしろよ……確か陸上部の奴とか仲いいんだろ?」


「や、今日の時間割に無かったんで、クラスメイト誰も持ってなくて……」



 昨日の内に貸して欲しいとメッセージすればよかったと気付いたのは、登校中の事である。

 このおバカ!



「あー……じゃあとりあえず最後まで教科書なしでやってみろ。それでダメだったらまぁ今日は諦めて再追試。その時までに教科書用意しとけ」


「あい……」



 教師は癖っ毛頭をポリポリ掻きつつ、テスト用紙を私に配る。

 ちなみに、他の生徒は誰も居ない。どうやら昨日で全員合格クリアしたらしい。くそが。


 そうして私の孤軍奮闘が始まろうとした時、教師が「あ、そうだ」と声を上げた。



「……ま、まだ何か?」


「いや、お前に見せときたいもんがあってな。ほれ」



 そう言って渡されたのは、一冊の古いノートだった。

 表紙は黄ばんでボロボロな上、半分以上が朽ちていて何のノートかも分からない。


 ……なにこれ?

 訝し気な顔を教師へ向ければ、彼は指を回して裏表紙を見るよう指示をする。私は首を傾げながらも、ノートが崩れないようそっとひっくり返して、



「えっ」



 ――裏表紙の隅に記された私の名前を見つけ、思わず声を上げた。


 そこはいわゆる氏名欄。

 慌てて表紙をよく見返せば、残っているその上半分に、今から受けるテスト科目の手書き文字が辛うじて読み取れた。


 ――どちらも間違いなく私の字。紛れもなく、昨日鞄と共に無くしたノートの一冊である。



「……え、えぇ? これ、どうして……」


「やっぱりお前の名前だよなぁ……ほら、昨日ちょっと聞いたやつの件だよ」



 混乱する私に、教師は軽く肩をすくめた。

 いや確かに昨日、名前についてちょろっと聞かれた記憶があるけども……これはちょっと意味が分からん。



「そのノート、先生の爺さんが持ってたやつでな。十年くらい前までこの街に住んでたんだが……まぁ、遺品だな」


「い、遺品……?」


「ああ。爺さんにとって大事なもんだそうで、ガキの頃から何度か話に聞いてたよ。本当は鞄とか他にも色々あったんだけど、戦争のゴタゴタで殆ど失くして、残ったのがこれだけだったらしいな」



 何でも、これが運命の分かれ目だったとか何とか――。

 そこまで聞いて、私の脳裏に稲妻にも似たヒラメキが走った。


 ――あの過去を映す川。あのオカルトのせいだ。


 昨日、私がぶん投げた鞄。あれは何処かに失くしたのではなく、過去へと渡っていたのだ。

 川の水面を通り抜け、映った過去の景色へと。

 想像だ。だけど目の前のノートの存在が、その真実性を補強する。



「えっと……これはどこで手に入れたとかは……」


「すぐ近くの川辺で拾ったとは聞いたな。ほら、昔田んぼだったとこ……つっても分かんないか。多分あそこら辺だな」



 そう言って教師は窓からとある場所を指差した。やはり間違いない、私が昨日通ったあの川辺だ。



(じゃあ……私の鞄はあのストーカーを邪魔出来た、って事か……?)



 でなければ、私の鞄なんぞ拾って大切にする筈が無い。


 おそらく私の投げた鞄はあの後きっちりストーカーに命中し、その凶行を阻んだのだ。

 結果として少年少女の命は守られ、私の鞄は恩を感じた彼らに拾われた。そして少年は運良く戦争を生き抜き、最後に少女と結ばれハッピーエンド。

 紆余曲折の末、ノートだけがその子孫であるこの教師に伝わった――なんて、どうだろう。結構ありそうな気はするけども。



「今でも記憶に残ってんだよなぁ、話してる爺さんの様子――」



 そんなこんなとぐるぐる頭を回している最中、教師がしみじみとそう呟く。


 ……というかそうなるとこの人、私が居なけりゃ生まれてないって事では?

 でも昨日より前から居たしなこの人。パラドックスってやつ発生してない……?


 色々と難しい考えが浮かび始めたが、私の頭では理解し切れない問題である。

 早々に思考を諦め、今は少年少女を助けられていたという過去を素直に喜ぶ事として――。



「――これさえ無きゃ、好きな人と一緒になれたのにって凄く悔しがっててなぁ」


そっちストーカーの方かよッ!!!!」



 一瞬で吹き飛んだ。

 発作的に机をバンと叩けば、教師がビクッと肩を跳ね上げた。



「うおっ!? ど、どうした……?」


「……すんません、何でもないです。続きどうぞ」


「何でもないの勢いじゃねぇだろ……」



 教師はあからさまに困惑しつつも、話を続ける。



「あーと……爺さんが悔しがってた話だったか。何でも爺さんにはずっと好きだった女の子が居たんだが、間男に誑かされてて参ってたんだと」


「……はぁ」


「その内に戦争始まって、爺さんも行く事になって。その前に最後の告白をしようと踏み出した矢先、どこかから飛んで来た鞄に邪魔されて失敗したそうで」


「告白と書いて心中って読むやつ……」


「そんでその鞄を拾って、戦時中ずっと調べてたらしくてな。これ投げた奴に絶対仕返しするって、戦争から生きて帰るためのモチベーションにしてたんだとよ」



 まぁ、結局見つけられずに逝っちまった訳だが……教師は気の毒そうに呟いたが、当然の話である。

 未来に生まれる復讐相手を、過去から見つける事など出来る訳が無いのだ。



「で、それに書いてあるの、お前の名前だろ? 昨日ふと思い出して、懐かしくなってな」



 ……ついでに、何故川のオカルトに逢ったのかも察しがついたが、それはさておき。



「で、どうなんだ。やっぱり親とか爺さん婆さんとか、何か心当たりあるんじゃないのか?」


「いんやぁ、ないですわねぇ。おほほ」



 あまりにも白々しすぎる私の返事に、教師の胡乱な視線が突き刺さる。

 いや知らんったら知らん無いったら無い見んな見んな。



「……ちなみにですけど、お爺さんが好きだった女の子はどうなったんですか?」


「爺さんが戻って来た時には、同じく生還した間男と別の街で家庭築いてたらしい。幸せそうだったんで涙を呑んで諦めたそうだ」



 そりゃ良かった。でもそれ諦めたの、ほんとはその街まで追いかけて襲いかかったけど返り討ちに逢ったからとかじゃないの。口には出さんが。

 すると教師はもう語るものは無いと話を切り上げ、教壇に戻ろうとした。慌てて残されたノートを差し出すも、いらんいらんと片手を振って、



「それお前にやるわ。そっちに心当たりが無いと言っても、その字面での同姓同名は流石に無関係とは思えないしな」


「えー……」



 確かに正真正銘私のノートではあるが、ここまでボロボロになったものを渡されても正直困る。

 しかし教師は渋る私を無視してノートを押し付けると、どこか清々とした顔をする。お爺さんの遺品ちゃうんかい。


 私は暫く唸っていたものの、落し物が帰って来ただけなのだから仕方が無いと諦めた。


 それに考えを変えれば、これのおかげで教師のお爺さんは戦争を生き延び、最後にはストーカーを止めてちゃんと家族を作れたのだとも取れる。

 一応、これも人助けした証って事なのかな。なんとなく、素直に認めたくない感じ。



(……まぁ理由はともかく、大変な時期を頑張ったんだよなー、この人)



 どうにも形容しがたい複雑な気持ちに苦笑を浮かべ、なんとなしにノートを開く。

 そうして、強く力を籠めたら壊れそうな紙の感触を感じながら、これを手に戦時を駆けたお爺さんの人生に想いを馳せて――





『いつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺』





 ぱたむ。

 一ページの端から端までびっしり書き連ねられたその一文に、私はそっとノートを閉じた。



「…………」


「…………」



 ギギギと教師を見上げれば、すっとぼけた顔でそっぽ向き。私の額に青筋が走る。



「……ふー……」



 もう一度ノートを開き、一ページ目から最後のページまで確認したが、どこも全部同じ。

 かつて私が書いた板書も全て上から塗り潰され、殺意に歪んだ一文だけが延々と詰め込まれている。

 余白は、無い。



 ――私は静かに席を立ち、ノートを教室のゴミ箱へと全力でブチ込んだ。



「よーし、じゃあテスト始めるぞー」


「はーい、おなっしゃーす」



 互いに何も触れず、何も聞かず。

 やけに乾いた声音と共に、私と教師は追試験のテストを始めたのであった。

 きっついわ。

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