【毎日20時更新】銀の宿り

ユーレカ書房

 駆け抜けてきた坂は、とても暗かった。後ろ手に持っていたつるぎを下ろし、イザナギは白く清廉な衣の腕や肩を何度も叩き払った。じっとりとした重い死者の気配は、陽の下で生きるイザナギには冷たすぎた。


 イザナギは冷や汗を拭い、四肢にまといついてくる暗がりを振り切ろうと足を進めた。今は、一歩でも遠くへ逃れたかった――黄泉路を辿りながら、濃くなる妻神の気配がいとおしく、胸いっぱいに呼吸したことが信じられない。


 なんというおぞましさ。なんという汚らわしさ。〈すべてのもの〉から見出されるものの中には、あんなものもあろうとは。


 わたしは、かつてあのようなところに暮らしていたというのか。なぜ今まで気がつかなかったのだ!


 「イザナギさま……」


 あとを追ってきたイザナミの声は近くなったり遠くなったりしながら、切れぎれにイザナギの耳に届いてきた。鈴を振るような声は生きていたときのままで、イザナギの体は意に反してイザナミの方を振り向こうとした。


 「イザナギさま……」


 ひゅうと鳴る、笛のに似た吐息には遠雷のようなごろごろという恐ろしい響きが混ざっていて、イザナギは我に返った。あの美しいイザナミは、死んだのだ。イザナミは、イザナギとともに国を造った麗しい女神は、今や死者たちの主となった。


 イザナギの目にその姿は、腐り果てた骸としか映らなかった。


 「イザナギさま」


 ふいに、声がすぐ耳元でした。イザナギは我知らず、手に持ったままだった剣をそちらに突き出し、めちゃくちゃに振り回しながら駆け出した。


 「ひどい……ひどいことを……」


 剣に手ごたえはなかった。イザナギは鉛のような体を無理に走らせてイザナミの声を振り切り、見当をつけた大きな岩を持ち上げて黄泉路を塞いだ。


 イザナミはわずかな隙からすり抜けようとしたが一歩及ばず、向こう側から岩を叩いているらしい小さな音と、腕に巻かれた玉飾りがちりちり触れ合う音がした。


 許せ、とイザナギは呟いた。


 「生と死とは、やはり分かたれなくてはならない。……あまりに違いすぎる」


 叩くような音も、ひっかくような音も、ぴたりと止んだ。イザナミは哀願した。


 「国を閉じてしまうというのですか。あなた、それだけは……大いなる巡りが、あなたには見えないのですか」


 イザナギは怖気を抑え込んで叫び返した。


 「大いなる巡りだと! あなたこそ、みずからの姿を顧みるがいい! わたしたちの国に、あなたはあんなおぞましいものを持ち込むつもりだったのか! あんな、化けものじみた……」

 「イザナギさま」


 イザナミが呼びかけてきたが、イザナギは沈黙を守った……いや、みずからに絶望して、何も言うことができなかったのだ。


 おぞましい? 化けもの? イザナミが? みずからの口から出てきた言葉が信じられず、かといって、みずからの目に見えた姿も、みずからの感覚も、疑うことができなかった。おぞましい。あの国も、妻も、何もかもが。


妻との間にあるのは岩ばかりではなくなってしまった。溝だ。目には見えないが、取り返しのつかない溝――。覗きこむことすらためらわれるような。


 ややあって、イザナミは静かに言った。


 「……そう。それでは、あなたの国のひとびとを、あなたの国の時で数えて一日のうちに、千人こちらに呼ぶことにしましょう。あなたがそれを〈死〉と呼び続ける限り、わたしたちの子らはその恐れから解き放たれることはないでしょう」


 イザナギは心を奮い立たせた。手足が震える――声を震わせることはできない。イザナミに対する、それが最後のまことだから。


 「ならば、わたしは一日に千五百の産屋を建てることにしよう。そうして、あなたの国へ行った人々を、わたしの国へ呼び戻すことにしよう。……いつかあなたがこちらへ戻ったとき、きっとわたしがそうする意味が分かるだろうよ」


 お別れでございます、とイザナミは言ったかもしれない。涙の勝る囁きを聞くのは、膿みただれたような低い呪詛を浴びるよりも辛かった。イザナギは据えたばかりの、千人の力で引かなければならないような大岩に背をもたせかけ、天を仰いで少しの間泣いた。


 イザナギの巻く、金糸を織り込んだ淡い緋色の帯は、イザナミが手ずから糸を染めて織り上げたものだった。他の衣や、玉飾りよりずっと、イザナミの気配が残っているものだった。ほつれなく織られた帯の端を両手で握りしめて、泣いた。



 イザナギが黄泉国から豊葦原へ戻り、〈死の気配〉を清めるために禊ぎをしたとき、帯からは旅の道中の安全を守る神が生まれた、と語りべは伝える。


 しかしもうひとつ、神と呼べるものかは分からないが、この帯から生れ出たものがあって、人の口に上らない〈それ〉について、表立って記されることは絶えてなかった。

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