愛とロックが僕たちを
@syu___
プロローグ
『どこ見てんのよ変態』
「……え」
すっと通った鼻筋。女豹のような鋭さと兎のような潤しさを兼ね備えた目。薄っすらと桜色がかった唇。そしてそれらが散りばめられた透き通った白い肌。
ユウが在籍する二年A組の教室の前に立つ一人の美少女。男なら誰もが釘付けになるであろう美貌を引っさげたその美女に、ユウもまた例外なく目を奪われてた。
始業のチャイムが鳴り響く中、その視線は本能のままに下降し、やがて二つの膨らみの部分で一時停止する。
だがそれは雄としての生理的欲求が働いていただけではなく、眼前で起きている不可解な現象のせいでもあった。
「文字……?」
女子の胸を見ながら漏らす言葉ではない事は当人が一番理解していた。だが、その言葉には何の偽りもなかった。
なぜなら、『どこ見てんのよ変態』という文字そのものが、胸元から垂れ下がる形で真っ白のポロシャツにくっきりと浮かんでいたからだ。
無論、制服の上に現れているので刺青でもなければ、外国人がお土産に買って帰りそうなデザインを採用した制服でもない。
だからこそユウは困惑した表情でそう口にした。
そしてそれは隣にいたエイジも同じであった。
「まじか……」
大きく目を見開いたエイジの口からは朧げな声が発せられる。
そうなるのも無理はない。
この美少女が先程エイジが鼻の穴を膨らませながら言っていた転校生だろう。その美女が初対面にも拘わらず罵声に似た言葉を、それもどういう仕掛けか制服の上に浮かび上がらせているのだから。
始業のチャイムが鳴り終わり沈黙が三人を包む。
教室を目の前にして遅刻が確定した二人であったが、この状況下においてそんな事はどうでもよかった。
やがて、浮かんでいた文字は徐々に薄くなり消えていく。
ユウは意を決してその謎現象のトリックを聞こうと口を開いた。がそれと同時に突如エイジは彼女に近づき片膝をついた。
「女神様ですか?」
「は?」『は?』
とぼけたユウの声とシンクロするように、次は腹部に文字が浮かび上がる。
彼女を見上げるエイジの顔の角度からしても、その文字はばっちりと映っているはずだ。にも拘らず、エイジの両目は宝石を見るような輝きを放っている。
「いやエイジ、何でこの状況でそんなこと……」
「この状況で言わなきゃいつ言うんだよ⁉ 邪魔するなら引っ込んでろ」
エイジは声を張り、至って真面目な表情でそう言い放ち──その刹那、勢いよく教室のドアが開き担任が出て来るや、流れるように二人の頭を出席簿で叩いた。
「遅刻してまで転校生をナンパとは何様のつもりだっ! 早く教室に入れっ!」
じんと残る痛みで頭を抑えた二人は、名残惜しそうに教室に入る。
「ちぇっ。お前がうだうだ騒ぐからこうなったんだ」
「……人のせいにしないでよ。そもそも、エイジが彼女に迫ったせいで……」
「黙って入れっ!」
「「……」」
剣道部顧問でもある担任の一喝に、肩をびくつかせそそくさと戻って行く二人。
その後ろ姿を見た転校生は徐に人差し指を鼻に掛け、くすっと笑った。
しかしどうして二人はこんな事になってしまったのか。少しだけ時間を巻き戻してみる事にする。
「……はぁ」
ユウは深く息を吐きながら、手放したペンと共に真っ新なルーズリーフの上に突っ伏す。
廊下から漏れ聞こえる登校した生徒たちの声で始業のチャイムが近いことを知ったユウは、頬にルーズリーフを貼り付けながら顔を上げ、埃を被った時計に目をやる。
「また書けなかった」
声帯を最小限のエネルギーで震わし発した弱弱しい声が誰もいない部室に響く。同時に頬から剝がれたルーズリーフはひらひらと左右に振れ、そっと足元へと落ちた。
二年に上がってから約二週間。気づけば毎朝こんなことを言っているような気がした。
一年前。周辺で唯一軽音部があったこのM高校へ無事合格したはよかったが、少人数且つ全員同学の三年生で構成されていたため、ユウの入学と同時に部員全員が卒業し、四月以内に三人を集めなければ即廃部という問題に直面した。
そんな状況を打破すべく、入学当初から何人もの生徒に声を掛け、やっとの思いで同じクラスで且つ音楽経験者であったドラムのエイジと、ベースのルイを説得し、何とか廃部という危機を乗り切った。が、同時期に大量の志願者が集まり演劇部が発足されると、軽音部の部室兼練習場であった防音室を譲り渡すこととなり(奪われ)、代わりに吹奏楽部が楽器置き場として使用していた七畳程の準備室が部室として分け与えらえた。
チャイムが迫るにつれ、扉の外から聞こえる声量が賑わいを増していく。
一方ユウは立ち上がろうともせず、制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、蓋をするようにしてイヤホンを両耳に突っ込み、音楽アプリを開いた。
鼓膜に流れ込んできたのは昨日エイジに勧められたロックバンドの新曲。
速い口調で連なる日本語と英語が混じった歌詞とサビの突き抜けるような高音が若者の心を掴み、あらゆるヒットチャートを軒並み席巻している今最も人気のあるバンドであった。
しかしユウはイントロが流れてすぐ、親指で一時停止のボタンを押し、その指でお気に入りのプレイリストを再生した。
ハイハットシンバルがアクセントとなり軽妙なリズムで奏でられていくドラムの音。そこへ溶け込むようにして入り込むベース。そしてそれら全てを包み込み、一塊の音としてまとめ上げる包容力を持ったギターの音。
もう何百回と聞いたイントロに全てを委ねるように没入していると、やがてボーカルの声が加わる。
優しく淋しい、不安定な輪郭を保つその声の中心には、誰にも触れられない、その人間を形成する全てが凝縮された、透明無色の集合体がちゃんと存在していて──そこから紡がれていく声は、時にその輪郭をぶち破り、何にも縛られない言霊となって、ユウの乾いた心の隙間に溶け込んでいく。
幼い頃から音楽が好きだったユウは中学入学と同時にスマートフォンを買い与えてもらって以降、毎月少ないおこずかいを削り月額制の音楽配信アプリに登録し続けていた。
そして受験勉強で行き詰っていたある夏の夜。音楽を聴いて気分転換しようと、当時流行っていたスポーツドラマの主題歌のジャケットをタップしようとしたとき、誤って隣のジャケットをタップした。
すぐに戻ろうと左上の矢印に指を翳したとき、イヤホンから流れてきたボーカルの声が鼓膜を打ち──まるで時間が止まったかのように、翳していた指がピタリと静止した。
『涙の中にかすかな灯りがともったら』
『君の目の前であたためてた事話すのさ』
画面上に一滴の雫が落ちる。
それはロック。そう、間違いなくロックだった。
だけどなぜか、これまで聞いてきたそれらとは全く違う『力』が一節ずつに渦巻いているのをひしひしと感じた。
『新しい日々をつなぐのは 新しい君と僕なのさ』
『僕等なぜか確かめ合う 世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ』
一滴、また一滴と雫が落ち、画面の光を受けたそれらは虹色となって画面を滲ませる。
一曲を聴き終えるとすぐに検索窓をタップし、そのアーティスト名を雫を払うように打ち込む。
その夜、ユウは手放したペンを再び握ることはなかった。
その日から生活の全てが音楽中心となった。
受験が終われば、貯めていたおこずかいとお年玉を全て使い、そのボーカルと同じモデルのギターを買った。
入学までの期間は人間であるために必要な生活必需時間以外、全てギターの練習に費やした。
そうした情熱に突き動かされた猛練習と元々手先が器用であったことも追い風となり、高校入学のときには既にあらゆるコードをマスターし、数年の経験者が持ちうる演奏技術と同等かそれ以上のレベルまで成長していた。
ガチャッ。
耳の中でフェードアウトしていくボーカルの声を遮るように、勢いよく扉が開く音が鳴る。
視線を向けると、そこには前髪の中心部をゴムで括り上げたエイジが立っていた。
「なーにこんなとこでサボってんだー?」
いたずらな笑みを浮かべながらづかづかと部室の中に入って来ると、鞄の中から今日発売の少年誌を取り出す。
「エイジこそ、もうチャイム鳴るのになんで」
「いやー、今日抜き打ちで持ち物検査あるって聞いてさ。急いでこいつを隠しにきたってわけ」
そう言いながら最奥にあった掃除道具入れを開け、それをぶち込む。
道具入れの中には青年雑誌、漫画、携帯ゲーム機など、バレれば即廃部決定であろう大量の持ち込み禁止物が保管されていた。
ユウも何度か注意しようとしたが、それが理由でメンバーから抜けられてしまえばどちらにせよ廃部になるので見て見ぬふりをし続けていた。
「で、お前は」
振り返ったエイジは落ちていた真っ新なルーズリーフを拾い上げ、またかと言わんばかりに短く鼻から息を吐く。
新生軽音部となり既に一年が経過していたが、オリジナルの曲は一曲も作成できておらず、昨年はコピーバンドとして演奏の練習や発表を行い、何とか部としての名目を保ち続けていた。
「朝の方が頭動くかなって思ってさ」
「ばーか。やっぱ何もわかってねぇなぁ、お前は。歌詞ってのはな」
溜息交じりにルーズリーフを片手でくしゃくしゃに丸め拳中にしまい、それをユウの心臓の辺りにぐっと押し付ける。
「ここで書くんだよ」
「……なんだよ偉そうに。書いたこともないくせにさ」
「馬鹿言え。俺はお前の何倍も人生経験豊富だからな。書こうと思えば、ビートルズ並みに深い曲だって書ける。だけどお前がどうしても歌詞は自分で書きたいって言うから、仕方なく任してやってんだ」
「そりゃそうだけどさ……」
口ごもりながら視線を逸らす。
本当にそんな歌詞が書けるかという真偽は別として、確かにユウはそれほど社交的な性格でもなく、もちろん恋愛経験もなかった。それ故、正論を叩き込まれたユウは押し黙る他なかった。
やがて二人の間に張り詰めた沈黙の隙間から気まずい空気が流れ始めようとしたとき、それを掻き消すようにして始業のチャイムが鳴り響いた。
「やべっ」
反射的に声を重ねたエイジは手の中で丸まったルーズリーフをユウの額へ投げ、慌てて部室を飛び出す。続いてユウも机の側面に掛けてあった通学鞄を手に取り、後を追う。
チャイムが完全に鳴り終わるまでの時間、約二十二秒。それは部室から教室まで全力疾走すればギリギリ間に合う時間であり、二人には何度か間に合わせた実績があった。
「あ、あともう一つ面白い話聞いてさ」
少し上がった息を交えながら、後ろを走るユウに言葉を漏らすエイジ。
「今日、転校生が来るらしい。それも超絶美人の」
「それ、今言うこと?」
「なーに強がっちゃってんの、ほんとは嬉しいくせにっ」
満面の笑みを浮かべたエイジは意気揚々とスピードを上げる。
それはエイジの方だろ、と返そうとしたユウであったが、窓から差し込んだ春の光に照らされたエイジの背中を見るや、その言葉を喉元に詰まらせた。
自分にはない溌溂とした気力漲る背中。
それはきっと春の光のせいではなく、エイジが持って生まれたオーラがそうさせているのだと思った。
同じだけ歳を重ねてきたはずなのに。本当は自分だって彼のように輝いていてもいいはずなのに。
そう思えば思うほど傷だらけの背中が痛み、エイジとの距離が開いていく。
中学三年間、ユウは学校のマドンナ的存在であった江上ハルナに片思いをしていた。
ハルナが近くに来ると、五感は鋭くなり、鼓動は早まって、脈がうなる。身体的反応の観点から見てもれっきとした恋愛感情だった。
やがてそれは抱えてられないほど温度に達し、全ての気持ちを伝えようと思った。
しかし、同時にその周りを渦巻く無限の言葉たちに阻まれた。
怖い、無理、失敗。決心へと繋がった扉に導いてくれる言葉は毎回違うのに、最後に立ちはばかる言葉たちは決まっていつも同じで、それらは常に感情が帯びていた熱を相殺するだけの冷たさを兼ね備えていた。
ユウはひたすらにぶつかり続けた。
その度、あの日聞いたロックバンドの歌を耳に焼きつけるよう何度も聴き、自分を奮い立たせた。
「好きです」
ある日の放課後。ハルナの前で初めて口にしたその言葉は、薄く、細く、脆かった。そして、その言葉が自分の鼓膜に届いた瞬間に失敗したと悟った。
「ごめん。他に好きな人がいるの」
その返事に驚きはなかった。それよりも、自分の言葉の薄弱さが理解できなかった。
声量は十二分にあった。腹の底から声を出した。好きだという気持ちも確かにあった。
なのに、あのボーカルのような熱は全く帯びていなかった。
茫然と立ち尽くすエイジの隣をハルナが俯きながら横切る。
その間もずっとユウの頭の中は『なぜ』で埋め尽くされていき──やがてそれは一つの塊となり、哲学的な疑問へと姿を変えユウの脳内を占領した。
好きとは一体何なのだろうか、と。
始業のチャイムが鳴り止む数秒前のタイミングでユウは最後の廊下を曲がる。教室は角を曲がったすぐの場所に位置するため、何とか間に合ったとユウは気を抜いた。
がその瞬間、既に教室に入っていたと思っていたエイジの背中が眼前に現れ──咄嗟に足を止めるも突撃を免れることができず、勢いよくその場で尻餅を着いた。
「なんでこんなとこで突っ立ってるの……」
顔を痛みに歪めながら立ち上がる。
しかしエイジは突撃されても尚、棒立ちのまま一点を見つめている。
不自然に感じたユウはエイジの視線をなぞるようにしてその先を見て──立っていた一人女子生徒は、全身に纏った春の光を吹き込むようにして微笑み、
その光を一身に受けたユウは一瞬にして彼女に釘付けとなった。
この後、罵られる事も知らずに。
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