第三話 夏休みは始まったけれど

 夏休みが始まって一週間が過ぎた。

 外にいると溶けてしまうんじゃないかと心配になるくらい、暑い毎日が続く。


 あれから夏期講習の話は一切出なかった。

 ぼくの考え過ぎだったか、あるいは母さんが兄さんの訪問に気を取られて忘れてしまったか。

 興味本位でいてみたくなったが、藪蛇やぶへびになりそうなのでやめた。


 夏休みのあいだ、ぼくたちの軽音部は土日以外毎日活動する。

 午前中は涼しいだろうとの期待に反し、登下校だけで汗がにじむ。蝉は暑さを増幅してやるぞとばかりにミンミンミンミン鳴くし、悪ガキ軍団は海やプールに連れて行けとうるさい。

 あの子たちはみんな旅館やホテル、土産みやげ物屋の子供たちで、家族は休日ほど忙しい。

 だから旅行に連れて行ってもらうことはないに等しい。ぼくも同じだからあの子たちの気持ちはよく解る。


 母さんとおばあちゃんは今日も旅館の仕事で忙しい。

 普段は家の用事だけしかやらないぼくだが、夏休みのあいだは宿の仕事も手伝う。チェックアウト後の部屋の掃除くらいだけどね。

 今日も旅館は満室で、おばあちゃんと母さんはあっちにつきっきりだ。

 今朝も早起きして洗濯機を動かし、ざっとリビングの掃除をしていると、

「出し巻き卵とおみおつけ、テーブルにおいておくね」

 おばあちゃんの声がキッチンから響いた。

「ありがとう、おばあちゃん」

 朝ご飯はいつも旅館のものを分けてもらう。といってもお客さんと同じだと多すぎるので、少しだけね。


 食べているうちに洗濯が終わったので、ベランダに干した。まだ八時にもならないのに日差しは強い。今日も真夏日になるだろう。

「洗濯物がよく乾きそうだな」

 ぼくは主夫みたいなことをつぶやきながら、雲ひとつ見当たらない空を見上げた。


 食器を食洗機に入れたら、登校するのにちょうどいい時刻になった。ぼくは鞄とギターを持って家を飛び出す。

 朝とは思えない暑さにうんざりしながら歩いていると、途中で学童保育に向かう悪ガキ軍団がぼくを見つけ、勢いよくかけてきた。

「ハッちゃん、今日も部活?」

「ギターはうまくなった? 今度聞かせてよ」

「ぼくも弾きたい」

「ボク、夏休みのあいだに教えてほしいな」


 四人の小学生はぼくを囲み、口々に話しかけてくる。この子たちはいつもぼくのギターに興味津々だ。

「じゃあ、秋の文化祭のときに遊びにおいでよ」

 ぼくはぽんと胸を叩きながら返事をした。みんなが音楽に興味を持っているのが嬉しい。よし、来年中学生になったら、軽音部に入部してもらおう。


 じゃれあいながら歩いていると、いつもの交差点を渡っている麻衣を見つけた。

「あっ、ハッちゃんのカノジョだ。ヒューヒュー」

「昭、麻衣は彼女じゃないって、何回言えば解るんだ? さあ、きみらとはここでお別れだよ。小学校はあっちだからね、バイバイ」

 ニヤニヤしながら見ている小学生たちをしっしっと追い払うと、四人はクスクス笑いながら小学校の校門まで走って行った。


 毎朝ここで偶然を装い、麻衣と合流する。実はぼく、ふたりで登校できるように家を出る時間を調整しているんだ。

 早く着いたときは、同じくらいの時間帯に登校する悪ガキ軍団と遊ぶふりをして麻衣を待っていた。

 ところが四人にバレて以来、「ハッちゃんのカノジョ」とからかわれるようになった。いつだったか、

「麻衣はまだ来てないのか」

 とポツリと言ったのを聞かれていたなんて。一生の不覚だ。


「おはよう、麻衣。今日も暑いね」

 今朝もいつもと同じ挨拶から会話を始める。些細なことだが、麻衣と一緒に過ごす時間は、かけがえのない大切な瞬間だ。

「ほんと、どうしてこんなに暑いのかな。学校に行くだけで汗だくよね」

 麻衣の額にうっすらとにじむ汗を見たら、なぜかドキッとした。こんなことは初めてだ。

「あ、そうだね。荷物も多いし、仕方ないよ」

 ときめいているのを悟られないように、視線を鞄のベルトに移した。

 ぼくは楽譜やおやつの入ったエナメルバッグを斜めにかけ、ギターケースを背負っている。麻衣のバッグはサックス入りの大きなサイズだ。

 同じ音楽仲間でも部活が別で悲しい。


 吹奏楽部は校内でもスターだ。入学式から始まって、行事ごとにみんなの前で演奏する。

 体育祭ではチアリーディングと合流し、マーチングバンドを見せる。冬の定期演奏会は一般のお客さんが殺到する中、クラシックからジャズまで幅広く演奏する。

 大会に出れば県代表になるし、地域のスターは誕生するときた。すべてが注目されて華やかだ。


 それに比べてぼくらの軽音楽部は、今はまだ文化祭の出し物にすぎない。理科室での公演はライブハウスみたいで楽しいけどね。

 観客に近い場所で、みんなの息遣いを感じながら演奏する。聴いている人たちの反応を見ながら、そのときのノリでどんどんアドリブを入れる。ライブ感がたまらない。

 ジャズコンサートみたいでカッコいいなって自画自賛しているんだ。

 今年はデモ動画を作って、大会に応募する。優勝したらプロのバンドになれるかもしれない。夢は大きく持たないとね。


「ハヤトたちは文化祭の準備、進んでいる?」

「ばっちりだよ。曲もだいたい決まったし、あとは練習あるのみさ」

「じゃあ宿題は? 夏休みが一週間も過ぎたのに、あたし、ほとんどできてないの」

 麻衣は軽く肩を上げる。宿題か。こんなもののせいで夏休みの楽しみは半分くらい減ってしまう。


「いきなり現実に引き戻されたじゃないか」

「ごめんね。でも『地球のためにできること』って作文が気になっているの。テーマが大きすぎて何を書けばいいのか、ちっとも解らないのよ。だれがあんな宿題を考えたのかしら」

 優等生の麻衣が行き詰っているなんて意外だった。

 てことは、地球の未来を真剣に憂いている中学生なんてほとんどいないってこと? まあ考えてみればそれが普通だと思う。だってぼくらは日々の生活で精一杯だよ。


「きっと学年主任の森田もりた先生だよ。あの人、こういうテーマが好きそうだし」

 森田先生は大げさなテーマで作文を書かせるのが好きだ。

 去年は『水の与える恵みについて』なんて、中学一年生にはちょっと硬いものが出された。ぼくはネットや図書館で苦労して調べ、なんとか完成させた。今年も環境問題に絡めた課題を選んでいる。


 集められた作文は校内の審査を済ませたのち、優秀な作品は新聞社主催のコンクールに応募される。生徒が入賞すると、先生たちも嬉しいだろう。

 そして驚いたことに、毎年だれかが賞をもらう。推敲という名の書き直しが何度も繰り返されているに違いない。

 ぼくはそんなのごめんだ。決まり切った言葉の並ぶ、新聞社が求めるような作文なんて書きたくない。

 だから悩んでいる。


「夏休みの宿題って面倒よね。難しい問題は平気だけど、作文に感想文、自由研究に美術の宿題……部活をやってたらそんなに時間もとれないでしょ」

「優等生の麻衣でもそんなふうに思うんだね。ぼくがてこずるのも当たり前かな」

 話しながら歩く通学路は、あっという間に終わる。

 普段は一緒に教室まで行くけれど、夏休みは部活だから行き先は別々だ。昇降口で別れるのが残念でならない。


「麻衣ちゃん、おはよう」

 靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。振り返った麻衣の顔が輝き、ぼくはふくれっ面になる。

「く、倉田先輩、おはようございます」

 麻衣は声のトーンがひとつ上がった。ぼくには聞かせてくれない、よそいきの声だ。


 倉田先輩は、いつものようにブラウンに近いサラサラの前髪をかきあげた。カッコつけて、なんだよ。

 染めていないと本人は言っているらしいが、嘘に決まっている。

 どこが少女マンガのイケメンなんだか。

 男子の目からは、ひょろっとしてちょっと神経質そうな人にしか見えない。ぼくのほうがずっと元気で健康的なのに。

 女子の基準は理解できない。


 唯一の救いは、倉田先輩が麻衣の気持ちを無視していることだ。

 あんなに真っ赤になっている麻衣に、ほかの女子と同じ態度で話しかけているんだよ。ぼくだったら、自分に気がありそうな女子がいたら絶対に意識してしまう。

 悔しいけど、それだけれられることや告白されることに慣れているってことなんだろうな。


「地球がどうのって言ってたけど、なんのことだい?」

 えっ、倉田先輩、ぼくたちの会話を聞いていたのか。趣味の悪い。

 もしかして登校しているあいだ、後ろをずっとついてきていたの? いや、まさかね。

「あ、あの、夏休みの作文で、地球のためにできることってテーマで書かなきゃならないんです。で、でも何を書けばいいかさっぱり解らなくて」

 麻衣はしどろもどろしながら倉田先輩に答える。いつもの颯爽とした姿は見られない。


「地球のためにっていうなら、温暖化防止や環境問題について書くのはどうだい?」

 倉田先輩が得意げに話し始めた。

 麻衣はうっとりしながら先輩を見つめる。それを見るぼくは不機嫌になる。


「温暖化を防ぐためにはエコロジーな生活だろ。ガスの使用を減らして二酸化炭素の発生を抑えたり、ごみを減らすために無駄のない生活を心がけたり……そういうことを書いたらどうだい?」

「あ、そうか。まずは身近なところから考えて、温暖化防止にたどり着けばいいんですね」


 なんだよ、目をキラキラ輝かせて。倉田先輩の言うことくらい、ぼくだってとっくの昔に思いついているよ。

「解らないことがあったら、いつでも相談に乗るよ。なんでも訊いて」

「は、はいっ。ありがとうございます」

 麻衣は倉田先輩のアドバイスをもとに、作文を書くことに決めたようだ。


 一緒に登校してきたぼくは蚊帳かやの外におかれた。


 並んで音楽室に行くふたりを力なく見送っていると、倉田先輩がいきなり振り返った。意図せずぼくと視線がぶつかる。

 え?

 理由は解らないが、先輩ににらまれたような気がして、ぼくはあわてて目をそらした。だめだ、なに気後れしているんだ。


 次に見たときふたりの姿は消えていて、ぼくはひとり昇降口に残された。

 倉田先輩のアドバイスがなんだ。もっとすごいことを書いてみせるぞ。麻衣を驚かせてやるっ。

 こうなったら、地球を守るヒーローになる方法を考え出すぞ。

 倉田なんかに負けるもんか。



     ☆   ☆   ☆



「地球を守るヒーローになる? なんだよそれ。方向間違ってないか」

 英嗣ヒデがキーボードの前に座ったまま、訝しげにぼくを見上げた。

「オレはもう終わったよ。二酸化炭素の排出量を抑えて地球温暖化を防ごうって書いた」

 マサルがバンドスコアから目を放し、ぼくたちの会話に加わる。

「ふたりとも早えなあ。俺なんて問題集すらろくにやってねえぞ。宿題なんかで夏休みを邪魔されてたまるか」

 ベースを弾く手を止めて翔太ショウも入ってきた。

 おお。全国の中学生の気持ちを代表する素晴らしい意見ではないか。


「でもどうしてそんな宿題のことを? なにか理由でも?」

 マサルがドラムを叩くしぐさをしながら尋ねる。ぼくは今朝の倉田先輩との件を話した。

「あの女たらしかよ。ちょっとモテるからってカッコつけやがって。腹立つぞ!」

 真っ先に食いついたのは翔太ショウだ。


 去年の春フラれたのだけれど、その彼女が好きな相手が倉田先輩だった。翔太ショウが吹奏楽部に入らずに軽音にいる最大の理由だ。

「なにがフルート奏者だっ。おれだってベースが弾けるってんだ。フルートがモテてベースがモテねえなんて差別だっ」

 翔太ショウは頭を両手でガリガリとく。

 気持ちは解る。でもフルートとベースではイメージが違いすぎるから、残念だけどそんなものかもしれないぞ。


「ショウ、今回は相手が悪すぎたんだ。完全に雲の上の大スターならまだしも、中途半端に手の届く地元のアイドルだからな。つい望みを抱いてしまうんだ。だからさ、いいかげん彼女のことは忘れろよ」

 スティックをそろえて机の上におき、マサルが肩をすぼめた。

 このふたりは同じ小学校出身だから、マサル翔太ショウの初恋について知り尽くしている。

 そんなマサルが以前教えてくれた。翔太ショウは六年生のころから噂の彼女をずっと思い続け、中学校入学式の日に告白した。


 残念ながら結果はアウト。初恋は倉田先輩という地元アイドルのせいで粉々に砕け散った。

 その姿は未来のぼくだ。麻衣に告白しても同じ結果になるからやめろと、バンドメンバーが全力で止めてくれている。だから今のところ、フラれるという事実から逃れられているだけだ。


 悔しいけれど、今のぼくらがいくら束になっても、倉田先輩には太刀打ちできない。

 そしてぼくは麻衣との関係を壊したくない。理由? もちろんそれは、あの日のプロポーズをり所にしているからだよ。


「ハヤト、あんな女たらしのアドバイスなんて霞んじまうような、すげえ作文を書けよ」

 翔太ショウはいつになく力説する。

「無茶言うなって。無難にまとめようとすると、倉田先輩の言うような内容になってしまうしね。ヒーローになって地球の平和をいかに守るか、みたいなテーマで書けば目立つとは思うけど、先生に叩き返されそうなんだ。

 だから何か上手い書き方がないか、考えているところなんだよ」


「おれは応援するぜ!」

 翔太ショウはぼくの前に立ち、両肩に手をおいた。

「倉田に負けるな。ヤツがぎゃふんと言うような作文を書いて、見返してやれ。そして岡村を振り向かせるんだ」

「そんなこと言われても……」

 翔太ショウの目はわり、ぼくの肩においた両手に力が込められた。

 怖くて痛い。倉田先輩の名前を出したのは失敗だった。


「打倒倉田だ! ハヤト、これはおまえに課せられた重要なミッションだぜ」

 翔太ショウのハイテンションな圧力の前に、ぼくは嫌と言えなかった。

 でもこれは、限りなくインポッシブルなミッションだ。


 だってぼくは平和な日本で生まれ育ち、平凡な日々を送っている中学生だよ。目下の心配事は地球の未来どころか、二学期の成績なのに。

 翔太ショウめ、無茶ぶりするんだから。


 仕方がない。地球の未来を真剣に考えるか。でも中学生のぼくにできることって、本当にあるのかな。

 おまけにある意味高尚な宿題に取り組む目的が、倉田先輩をやり込めることだなんて。動機が不純すぎやしないか。


 ぼくの夏休みは、どうなるんだ。

 作文の宿題は仕上がるのか?

 無事に新学期を迎えられるんだろうか。

 ぼくは一抹の不安を覚えながら、ギターをケースから取り出した。



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