第11話 空白ではなかったそれと、
曲がりくねる道に合わせてハンドルを切りながら、動悸が収まっていくのを感じた。それでも、いつもよりは随分高い鼓動。
「彼は」
私はそう切り出す。ほんの目の前と、バックミラーの中しか視界には入らなかった。
「彼は。どう思っていたんでしょうね、私のこと」
男は表情を変えない。
「さて」
「怒っていた? あのとき。それからも?」
「どうですかな」
「嘆いていた? あぁあなた、言ってましたね、『お嘆きですよ、彼』って」
「言いましたな」
「それは、ずっと嘆いていたということ? 二年も、前から?」
「ご随意に解釈下されば」
「別れてから、どうしていたんでしょうか」
「どうでしょうな」
「幸せだったのですか」
男は物憂げに息を吐き、窓の外に目をやった。
「どうでしょうな。今となっては」
「彼は……彼は」
そこで私はつばを飲んだ。息をするのが苦しかった。
ブレーキを踏む。もうどれほど登ったか、木々に囲まれ冷たく暗い、先の見えない上り坂。私はそこで車を止めた。
辺りは静かだった。エンジン音だけが、私の鼓動の伴奏のように響いていた。
胸が痛かった。心臓が、というより、胸の空白が。
吐き出すように言う。
「彼は! ……死ななかったのでしょうか、もしも私が一緒にいたら」
空白が渦を巻く。ほどけるように渦を巻く――そうだ私が別れていなければ彼はいや違う自ら命を絶ったなんてそもそも言っていないそれどころか二年も前の話を今さらでもだけどでも私は私は彼を悲しい彼を面倒だ彼を理解できない私が彼が悪い彼のことを好きだったおかしい彼は私のせいじゃない殺したのか小犬のような彼私どうして私泣けない殺していない泣きたい彼のことなんか私は捨てて彼はどうやって彼を痛かったのか死はどうでもどうでも二年間考えたことすらもうどこにもいない愛して分からないもう会えないいたのか分からない彼のこと何より私のこと――
空白ではなかった。空白ではなかった、最初からそれは。
言葉だった、満ちていた。彼を想わなかったはずの二年間、どこかに眠っていた言葉。それが一息に、彼の死で、噴き出していた。
言葉と言葉は絡まり合って、上から上から塗り潰し合って、黒く黒く潰し合って。声と声とはぶつかり合って、互いを言葉ではなくて、ただの音へと貶め合って。その言葉はもう、空白に似ていた。もはや読み取れず聞き取れず、向き合えないほど大量の言葉だった。
ばかばかしい、二年も前に終わった話を――頭のどこかがそう言ったが、それも空白の一部だった。渦巻く言葉の一部だった。
私は強くハンドルを握った。目の前にそれしかなかったから。そこへ強く額を押しつけた。
鼻水が出そうだとまず気づいた。頬が、目が熱いことにも。耳たぶにも額にも熱を感じた。喉の奥からうめくような声が漏れた。小さな、熱く湿った声だった。
涙がにじんだ。泣く、というのとは違った、ただ涙が、流れるほどではなく、湧いた。
それでも。私はようやく、泣くことができた。
ふ、と息をこぼす音が聞こえた。私の口からではなかった。後ろの席から聞こえた。
「ふふ、ふ。ンフフ。フフ、ク、クク」
男が。顔に手を当て、肩を震わせていた。その震えはやがて地震でも起こったみたいに大きくなる。そして、身をのけぞらせて、男は笑った。
「クフフフハハハ、フフ、
私は男の方を向いた。瞳の熱はもう、潮のように引き始めていた。
男は私の視線に気づいたか、息をついて口元を拭う。
「いや……ンフフ、失敬。あまりも素晴らしく……フフ、
私の口は開いていた。頬から力が抜けていた。
「いやはやしかし、失礼ながら。一つ言わせていただきますと、貴女。良き書き手ではございませんな! 良き書き手は常に、自分の文学と向き合うものですので。ンフフ」
分からない言葉、まるで彼の小説のように、私の言葉とは違う言葉。ただ、理解し切れないままに、私は頬を引きつらせた。先ほどまでとは違う熱が顔を満たしていた。
歯を噛みしめる。目元を拭って前を向く。無言で車を急発進させた。
男は驚いた様子もなく、静かに口を開く。嘲るような笑顔は消え、今はただ、穏やかな顔で、膝の上の本に手を載せていた。
「そう。お進みなさい、そう」
その言に従っている形なのが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます