空白の島と、ハザマダ ブンガク

木下望太郎

第1話  奇妙な男と、


「手品師か何かの方ですか、それとも大道芸みたいな?」

 私は男にそう尋ねた。


 夜の浜辺で出会った男。しわの寄った黒いスーツ、胸元にフリルのついた白いシャツ。首に黒のリボンタイ。さらに、頭になぜだかシルクハット。

 今どきこんな格好をする人間はいない、いたとしても売れない芸人くらいだろうか。それにしても芸人というのはテレビや舞台に出るときじゃなくても――


 そこまで考えたとき、男の声が思考をさえぎる。

「えぇえぇお嬢さん、確かに確かに疑問でしょうな。『それにしても芸人というのはテレビや舞台に出るときじゃなくても衣装を着るものなんだろうか? そんなはずはないと思うけど』。もっとも、残念ながらわたくし、芸人ではないのですがね。しかし、フフ。『売れない芸人』とはいささか失敬ですな、ンフフ」


 私はわずかに口を開けて、男の顔を見た。

 歳は三十半ばから四十くらいか。シルクハットからはみ出した波打つ黒髪、こけた頬。にやにやと笑う口元、短く刈り込まれたあごひげ。暗闇に光る銀縁眼鏡、手には黒い革表紙の本。


 なぜさっき、私の考えたことを男が喋ったのかは置くとして――偶然とちょっとした推理だったのだろう、たぶん――。

 とにかく、胡散臭うさんくさい。外見だけで言えば、男に抱いた印象はそれだった。けれど、ああそうだ。『彼』なら気に入ったかも知れない、こんな人。よく分からない小説を書く人だったから。彼なら何と言うだろうか、そう……『見て、玖美サン! あの人まるで――』


 その先を考えついたとき、男の声が鼓膜を震わせた。

「『まるで。落ちぶれたドラキュラ伯爵みたい!』」


 男は拍手するように、手にした本を何度か叩く。声を上げ、顔にしわを寄せて笑った。

「なるほど! 良いたとえですな、不気味さ、奇妙さ! それ以上に胡散臭さとユーモラスな感覚が伝わりますな! いやはや、大した慧眼けいがんと言うべきですな貴女は! ンフフ……いや」

 男の笑みは消えた。低い声が続く。

「あえて『彼は』と言うべきですかな。惜しい方を亡くされた……そう、言うべきですかな」


 今度こそ本当に、私は男の顔を真っすぐに見た。目を見開いて。


 男はそれを知ってか知らずか、帽子のひさしに手をやって、私の方へ背を向けた。

「亡くなられたのでしたな、最近のことですな。彼はこの島の方でしたな。貴女は以前に別れた彼の死を知り、この島を――随分殊勝ですな――訪れた、それが粗筋あらすじですな」


 わずかに背筋が震えるのを感じた。砂浜の上を一歩後ずさる。もう、胡散臭うさんくさいといった感覚は通り越していた。それでもどうにか口を開いた。

「何なんですか、あなた。彼の、知り合いか何か、どうして私のこと――」


 男の言葉が私の声を強く、さえぎる。

「彼。お嘆きですよ、彼」


 そのとき気づいた。男は背を向けたまま、本を開いていた。夜の暗がりの中、ぼやけたように浮かんで見えるその白いページに、男は目を落としていた。

 音を立てて本が閉じられる。芝居がかった動作で、スーツの裾をひるがえしながら男がこちらを向く。小さく口が動くのが見えた。

「ブンガク」

「は?」

 男は口の端で微笑む。

「先ほどの問いの答えですよ、わたくしが何かと問われた。……文学ですよ。もちろん彼のことも貴女のことも、よく存じ上げております……文学ですので。ブンガクはどこにでも在りますので。なにしろこの世に、文学でないことなど一つもございませんので。それはちょうど、この世に神でないものなど一つもございませんように」


 私の思考が追いつくより先に、男の言葉は続いていた。

「今貴女が何をお考えか、ちょっと読むことができませんが――何しろ書かれておらぬことは読めませんからな――ま、お顔からして、あまりお信じにはなられていないご様子。いやはや、いけませんな、いやはや!」

 舞台俳優のような動作で腕を広げ、掌を上に向ける。顔の前で人差し指を立てた。

「何しろ。文学をお信じでないと、ブンガクの方でもやがて貴女を信じなくなりかねませんからな。そう、まさに『奇蹟を信じていないと、奇蹟の方で貴女を信じなくなる』のでございまして。ンフフ」


 私の顔は固まっていた。『奇蹟を信じていないと――』その恥ずかしい言葉は、彼が私に語った言葉だった。マンガのようなクサい台詞を精一杯の真剣な顔で、彼はかつて言ったのだった。

 そういう、役に立たないことを話すときだけは。彼の目は鋭く、美しかった。


 男が笑う。

「さてさて、ンフフ。そろそろ始まりましょうかな、貴女の今度の物語、貴女の生きる文学が。そうそう、わたくしのことですが。もしお呼びになるのに姓が必要であれば、ハザマダ、としておきましょうか」


 掌を上に、私に向けて右手を差し出す。伸ばした人差し指の先に、危ういバランスを保って本が載せられていた。タイトルのない、黒い革表紙の本。真新しいのになぜか、表紙に鋭いかき傷がついている。

男はバランスを取ったまま、本を親指で、くるる、と回した。そのまま引き寄せ、抱きとめるように胸に当てる。強く音を立てて。


「お探しのもの見つかるように、このブンガクがお供します。お嫌なら、ま、結構ですが。ただしゆめゆめ忘れぬように、人は誰しも一人とて、文学からは逃れ得ぬこと。それはまるで自身の影から、いやいやまさに自身から、決して逃れ得ぬように。えぇ、決して」


 そして、ンフフ、と嫌らしく笑う。

「見つかるとよろしいですな。『空白を埋める言葉』」

 男は左足を引き、ひざまずくような姿勢になった。本ごと右手を胸につけたまま、うやうやしく礼。頭に載せたシルクハットを、取りもせずに。




 空白を埋める言葉。それは確かに、私が探したいものではあった。何しろ私は彼――元彼か――が死んだと聞いたのに、何も感じなかったのだから。空白だけがただ胸に居座って、それを埋める何かが欲しいと思った。彼がいたという島に来れば、それらしきものが得られるかと思った。

それは別によいものでなくても、私を蝕むようなものでもよかった。空白よりは、ずっと。


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