第18話 報復の序曲

(あの子は…!)

 白野真尋まひろは受話器越しに聞こえた娘・雪姫ゆきの声を耳にして激昂した。

 同時に、利用した闇サイトの使えなさにも憤慨した。

(全然使えないじゃない…!)

 仕事は完璧にこなす、証拠は何も残さないという触れ込みで、雪姫殺害の依頼をしたのがひと月半前のことだ。だが、結果は二回とも失敗だった。信用などもうできない。ならばどんな手を打つべきかと考えるが――。

(どうすれば…!)

 サイトを変えるか?いや、そもそも闇サイトでいいのか?

 だが真尋にそんな伝手はない。いくら大病院の経営者であろうが、殺し屋との繋がりなどあるわけがない。相談だって誰にもできない。


 結局、結論は出ず、白野真尋は日付が変わった頃に就寝することになる。

 それから何日も、考えては結論が出ずを繰り返し、週末を迎え、週が明け、それから無為に時間が過ぎ――。

 仕事に忙殺されながら、二週間が経過した。



 同日、午後八時三十分。港区内マンションにて――。

「ただいま、雪姫ちゃん」

「おかえりなさい、一条さん」

 帰宅した一条を、雪姫が出迎える。

 雪姫が一条宅へ来て二週間、ここでの生活にもだいぶ慣れた。

 嘗てはやることがなくて暇を持て余していたが、ができた以上、二週間を退屈することはなかった。

 むしろ、興奮の方が強かったかもしれない。

「それと、連絡が来たよ」

 廊下を歩き、上着を脱ぎながら、一条は普段の笑みをより強くし、雪姫に告げた。

「昨日、設備が完成した。本日のテストも良好。予定通り、明日実行だ」

 それを聞き、雪姫は一瞬表情を硬くしたが、

「ありがとう、ございます」

 これまでとは違い、微かに口角を上げ、微笑を以って応じた。



 

 翌日、真尋は定例部会を終えて会議室の席を立った。

 三月にもなると次年度の各部各課の事業計画、特に費用面は銀行の融資までほとんど話が纏まっていなければならないが、状況は芳しくない。希望額の融資を受けられるか、まだ決まっていない。何年も赤字経営を続けている病院に融資してくれるのは、長年の――亡き夫・雅之まさゆきとの関係があってこそだ。その影響が年々弱まっているせいで、資金繰りが去年にも増して厳しくなっていた。

(だというのに予算ばかり寄越せと、好き勝手ばかり)

 各部署から新しい検査機器やその研修費用の要望が上がっているが、そんな余裕などない。今は設備投資・人材投資よりも無駄を省いた経営の最適化が急務だというのに、金を使う提案ばかりがされる。経営する人間の苦労など考えずに要望ばかりを上げてくる者たちに、苛々が募るばかりだ。

「お疲れ様です、理事長」

「あら?」

 かけられた声に振り返る。不機嫌な顔は取り繕えていない。

 眉間に皺を寄せた視線の先にいたのは、四角いフレームの眼鏡が特徴的な、若き外科部長である西園寺だった。

 書類上は上司と部下、院内政治の面では敵の一人。事務的なやり取りはあるが、世間話や雑談などまずない。そんな相手から会議後に声をかけられたことに、真尋は警戒する。

「そんなに警戒しないでくださいよ」

 西園寺は眼鏡のブリッジをクイ、と上げながら微笑を湛える。

「これまで色々ありましたが、こういう時こそ互いに手を取り合うべきではないですか?」

 白々しいと真尋は思ったが、一方で敵は外科だけではない。味方は総務と社外の取引先数社のみで、院内では最大派閥の外科と内科が幅を利かせている。夫から病院を引き継いだ当初は協力者も多かったが、年々支持は離れていき、盤石の体制などと胸を張れない状況にある。

 そんな中での西園寺からの『手を取り合う』という言葉に警戒するのは当然と言えた。

 一方で、このまま敵対関係を続けていては、真尋が押し負ける未来もそう遠くないだろう。

 真尋は大きな変化が嫌いだ。賭け事が嫌いだ。一か八かなど言語道断だ。雪姫の命を狙ったことこそ非常にリスクの高い賭けであるなずなのだが、それほどまでに雪姫を消し去りたい気持ちが勝っていたという例外中の例外だ。

 そんな性格だから、強い衝動や信念に後押しされなければ、新たなチャレンジや新施策に打って出ることができない。ができない。このまま病院経営を続けていては行き詰まるかもしれないことはわかっているが、それよりも新施策へ踏み出した結果、失敗して終焉を早めてしまうことが怖くて仕方がない。「だから女は駄目だ」「前理事長ならこんなことにはならなかった」と、女であることを責められ、お前は駄目な人間だと評されることに、日々怯えながら過ごしている。

 そんな状況だが、政敵である外科部長・西園寺が歩み寄りを示している状況を不審に思うことと同じくらい、傾き続ける状況を改善する一手になるのではないかという希望にも思えた。

「……いいでしょう」

 そんな内心を表情に出さないように努め、あくまで不承不承ふしょうぶしょうというていで承諾した。

「では、六時に職員用玄関でお待ちしております」

 西園寺は微笑を以って会議室を後にした。

 真尋は初めて見たかもしれない西園寺の笑みに驚き、思わずドキリとしたが、気づいていなかった。


 その微笑が、冷笑であるということに。



 横づけされた黒いセダンの助手席に、真尋は乗り込んだ。

 運転するのはもちろん西園寺で、同乗者のシートベルト着用を確認してから病院の外へと車を走らせた。

「本日はどちらへ?」

 横目で運転席を見やり、真尋が尋ねる。

「少し離れています。二十三区内まで出ますので、一時間ほど見ていただければ」

 思ったよりも遠くに行くということで、少し意外だと素直に驚いた。

「わざわざ?よほど気に入っているのですね、そのお店。それとも、内緒話するにはいい場所なの?」

 真尋の中に生まれたのは疑念――ではなく、僅かな期待だった。いや、取り繕わなければ、これは『ときめき』と言ってもいいだろう。

 男性からわざわざ時間をかけてお気に入りの店に誘われるということに、十年来の胸の高鳴りを覚えたのだ。

 現在真尋は四十六歳、夫は五年前に死去している。だがそれよりも前から、自分が女として見られていないことをひしひしと感じていた。ちょうど二次性徴を迎えた娘・雪姫へ、夫が関心――情欲を抱いたことが原因だと、後々気づくことになった。

 美容には気を遣い続けてきた。

 肌の張り、ほうれい線、顎のたるみ、バストアップ、くびれなどボディラインの維持に時間と金を使い、家にいるときの夫は毎晩真尋を求めてきた。

 それが段々減り、完全になくなった時には、自分に女としての価値がなくなったのだと思い、大きな絶望に囚われた。同じく夫への関心が薄くなっていればまだ救いはあっただろうが、感情が一方通行であるとわかったことで、自分の存在意義を疑わせ、真尋をより強い絶望へと突き落とした。

 やがて、自己防衛故か、雪姫を『夫から守らねばならない娘』から『自分から夫を奪った小娘』と思うようになった。

 これからやらねばならないことは山積みだ。仕事でもプライベートでも。

 だったら、たまの息抜きとして、こういうことがあってもいいだろう。

 そう思ったのもつかの間――


 車が、静かに止まった。


 頭に疑問符を浮かべながら、真尋は周囲を見渡す。

 車一台通るのがやっとな幅の路地。両脇はビルで、真後ろの大通りがそれなりの交通量があるのに対してたった一本入っただけでこんなにも人気ひとけがないものかと驚く。前方にはトラックが停車し、それで停車したのだと気づいた。

「迷惑ですね、こんなところで――」

 真尋が愚痴ったそのとき、


   カチャ―― シュル――

 

 西園寺がシートベルトを外したので、てっきり車外に出てトラックに文句でも言いに行くのかと思ったが、


「え?」

 自然な動作で真尋の方に体を捻り、


「が、あぁっ」

 首を絞められた。


 運転席の西園寺が、両手で真尋の首を、締め上げている。

(な、なに――!?)

 状況を理解しようとするが、その時間もない。

(こ、殺され――)

 気管と頸動脈と頸静脈を同時に的確に圧迫され、十秒ほどで真尋の意識は途絶えた。


 トラックの荷台が開き、スーツ姿の男が三人降りてきて、真尋を車から連れ出す。

「殺される、なんて思ったのかね…」

 トラックの荷台へ真尋を運び込み、すぐさま発車。

 その場には、西園寺のみが残された。

「ここで殺された方がよっぽど楽だったろうに」

 自分の呟きに、医者が言うセリフじゃないな、と苦笑した。


 ふと、東のくらい空を見やりながら、外科部長・西園寺実生は呼びかける。

「後はお任せだ、一条」

 長い付き合いの悪友に向けて。

「しっかりね、雪姫さん」

 一緒にいるであろう、美しい少女に向けて。


 おのずとポケットの中に手を入れて。

 一年前にやめたはずの煙草を咥え、火を点けた。

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