第15話 殺戮ショー
異様な空気の会場は、盛り上がりを見せていた。
各ボックス席に
すると、ワニが出てきた扉から、サーっと水が流れ込み始めた。
ワニが少しずつ進んでいく。
尖った硬質そうな鱗に覆われた灰色の巨体は無骨な戦車を思わせ、閉じられた口から覗く幾本もの牙は
男は悲鳴を上げながら壁伝いに少しでも離れようと、足元の水で転びそうになりながら横に走っていく。すると、会場の左右の塀が少しずつ中央に寄って動き始めた。五十メートルの幅を、毎秒十センチずつ狭めていく。
男は喚き散らす。
俺が悪かった、死刑にしてもいい、喰い殺されるのだけは勘弁してくれ。
悲痛な叫びが上げられるが、それで何が変わるわけでもない。
ボックス席の人々は男を
お前が悪い、犯した罪を逃れようとするからだ、因果応報だ、と。
開始一分が過ぎると、幅五十メートルの空間が三十八メートルに縮まった。
少し会場が狭くなったせいだろうか。ワニが男に視線を寄こし、少しずつ近づいていく。
初めは会場の広さに対して心許なかった水の勢いだったが、迫る壁は水を逃さずにいるため、当初よりも加速度的に
『ワニが気づいたようです。このワニは、先週から何も食べておりません。おまけに適宜運動をさせております。彼女にとって、久しぶりの食事です』
会場のアナウンスが実況さながらに場を盛り上げる。
観客の一人が「おいおい、あの
男は近づいてくるワニに動揺し、泣き叫びながら助けてくれと連呼する。
男が足をもつれさせ、転倒した。
一歩一歩、六メートルの巨体が近づいていく。
開始二分になった。
ワニは男の眼前五メートルまで近づいていた。
男はガタガタと脚を震わせながら、迫る壁に体を預けていた。
会場幅は、開始時の半分、二十六メートルまで狭まっていた。
「ちくしょうっ!」
男は意を決したように駆け出した。
目前のワニから逃れるために大きく迂回しながら、全力で。
水深は二十センチを越えている。
男の
出口までおよそ五十メートル。
普通なら十秒もあれば到達できるはずだが、いつの間にか三十センチに届こうとしている水が、男の機動力を大幅に奪い、十秒経ってもまだ二十メートルしか進めていない。転びそうになりながら、水の抵抗に抗いながら必死の形相で先ほどワニが出てきた『唯一の出口』へと進む。
その扉の幅は三メートルほどあるが、扇状に広がる水面と加速度的に
会場が「逃げてみろ」「急げ急げ」と笑いながら
開始二分四十秒、会場の幅は二十メートルを切り、水深は五十センチに届こうとしていた。男の膝が完全に隠れ、移動速度が格段に落ちる。
出口まで、あと二十メートル。
ワニは既に反転し、男に近づいていく。巨体故にまだ地に足をつけているが、泳ぎ出すのは時間の問題だ。
開始三分、会場の幅は十四メートル、水深は七十センチまで上昇し、男は走ることを諦め、泳ぎ始めた。
出口まで、あと十五メートル。
会場が「このまま逃げ
まるでその空気を察したように、ワニが体をくねらせながら泳ぎ始めた。
出口まで、あと十メートルを切った。
そこで、水の流入が止まった。
水深は一メートルはあるだろうか。
男とワニの距離は二十メートルはある。
ワニがだいぶ加速しているが、男は逃げ切るのか?
そう思われたとき、男は何かに気づき、泳ぐのをやめてその場に立ち尽くした。
出口である目前の扉から、黒い鱗が見えた。澄んだ水だからわかる、六メートルの巨体をうねらせながら向かってくる、それは間違いなく――
「もう一匹……」
雪姫はこの展開に溜息を吐いた。
もしかしたらと思ったが、やはりそうだ。
出口であるはずの扉の中から、もう一匹の巨大ワニが現れた。
ここは、あの男を恐怖に怯えさせ、苦痛と絶望の中で処刑するための場所であり、この会場の観客たちは皆、それを歓喜しながら観覧している。誰もあの男が助かる姿など望んでいない。如何に醜態を晒し、無様に命乞いしながら、苦痛に喚きながら死ぬのかを予想しながら、ショーを楽しんでいるのだ。
ある者は高級そうなワインを片手に「予想通りだ」と隣席のパートナーに自慢げに話し、ある者は「ワニの尻尾の威力は――」と
異常なのは眼下の光景に限った話ではない。この会場全体が、狂気の空間なのだ。
雪姫の隣に座る一条も例外ではない。心底楽しげに、ソファーのひじ掛けに頬杖をつきながら、笑顔を絶やしていない。
全身ずぶ濡れの男は出口だと思っていた扉から慌てて横に離れるが、その命は風前の灯だ。逃げ場のない水中で、人間がワニから逃げられるわけなどない。
「が、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
ついに、その時が来た。
最初にいたワニが、男の左腕に噛みついた。
それから時間を置かず、新たに加わった方のワニが右足に噛みつく。
男は悲鳴を上げ続ける。
痛い、助けて、ではない。
いだいだずげでいやだごん、だ、いだがぁ――――――
意味をなさない恐怖と激痛の慟哭が、会場に響き渡る。
水面に紅が揺らめいた。
「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
ワニが体を捻り始める。
会場が湧く。
左肩と右鼠径部から先が喰い千切られ、男の絶叫と血潮が噴き出した。遠目からでも出血が水面を染めていく様子がわかる。肉眼では赤い水面を漂う人形にしか見えないが、足元のディスプレイでは喉を枯らしながら叫ぶ、涙と鼻水を撒き散らす男の姿がアップで映し出され、雪姫は思わず視線を逸らした。
とても直視できない。
だが視線を逸らしても、耳には男の絶叫が届く。
「いだっ、いぃぃっ、あ゛ぁぁぁぁっ!!いづっ、あ゛ぅぅぁぁぁぁぁぁ!!!!」
だが、悲鳴を聞きたくなければ耳を塞げばいいはずなのに、なぜかそうしない。
人が喰われる光景など、現代日本で過ごしていれば普通は見ることなどない。その想像を絶する光景に思わず怯んでしまったが、一方で重い罪を免れようとした咎人が後悔の中で命を削られながら上げる絶叫に、雪姫はそこまでの抵抗を覚えなかった。
会場のアナウンスによると、この男は三人の強姦殺人を犯している。三人を殺した罪をその命で償うとすれば、それは苦痛と絶望の上乗せをするしかないのではないか。遺族だって、それを切望しているのではないか。犯人の男が絶望の中で、想像を絶する苦痛の中で死んだとなれば、少しは気が晴れるのではないか。
そう、あの男は殺されても文句を言えるような人間ではない。犯した罪を償うことからも逃げようとした、死んで当然の人間なのだ。
雪姫は死の絶叫を耳にしながら、そんなことを考えていた。
雪姫が目を逸らしながら思案する様子を、一条が横目で見やる。
そして気づく。
雪姫は口角を微かに上げていた。
だが、本人に、その自覚はなかった。
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