第12話 敵の敵
男性医師は眼鏡の奥の瞳に好奇を宿し、
湛える微笑は
この医師は敵だろうか。
いや、敵であるかは本質的に関係ない。
彼は白野雪姫を知っている。
それだけが問題だ。
母の病院に務める医師とは、すなわち母の部下だ。
彼の取るべき行動は、母に娘の保護を伝えるか、警察に連絡するかのはずだ。
しかし、もし全てを知っていようがいまいが、母の味方であろうがなかろうが、その行動は変わらないのではないか。
もし何も事情を知らないとして、一般的な良識を持っている人間が、世間で多少なりとも騒がれた行方不明の少女が外傷を負って病院に搬送された姿を目にしたのならば、当然親や警察に知らせるのが常識的な行動だろう。
反対に、もしこの医師が母のやったことを全て知っていて、その協力関係にあるならば、母に知らせるか、もしくはこの場で始末するかだ。
(……待って……)
そこまで考えて、雪姫は気づいた。
もし母の意図を理解している人間ならば、このまま殺す選択をするのではないか?
医師の話を聞く限り、自分は瀕死で搬送されてきたのではないのか?三郎の様子を見てもそうだろう。死んでもおかしくなかったと。
ならば、当然手を下すことも可能ではないのか?
雪姫はずっと眠っていた。いや、気を失っていたと言うべきか?
そんな少女にトドメを刺すことは、医師ならばできるのではないか?
最善を尽くしたが助からなかった。一度は意識を取り戻したものの、容体が急変して死亡したと、いくらでも取り繕うことができるのではないか?
「あなたは、誰?」
意を決して、雪姫は尋ねる。
「何を、知っているの?」
希望的観測かもしれないが、
「何が、目的なの?」
もしかしたら、彼は状況を変化させる、
恐れの中に、そんな希望を、微かな一筋の光明を見た気がした。
「僕は
微笑を崩すことなく、男性医師は肩書と共に名乗った。
「君の母親の、敵だよ」
変わらぬ調子で、そんなことを付け足した。
「まずこれだけは伝えておこう。君の事情はある程度承知している。その上で、君のことを理事長に伝える気はないし、それどころかここの医師や看護師たちも理事長どころか警察にすら君のことを漏らさないように対処済みだ」
西園寺と名乗る外科部長は、ベッド横の椅子に座って柔和な笑みを浮かべながら説明した。
落ち着き払った様子と口調。眼鏡自体は四角いフレームの野暮ったい部類だが、中年と呼ぶには些か抵抗のある整った顔立ちからは、全てを見通しているような全能感が滲んでいるように見えた。
大人の余裕、と呼ぶのだろうか。
この人に任せておけば全てうまくいく。
そう思わせる魅力が、この西園寺という男にあった。
しかし――
「わたしを、どうるつつもりですか?」
素直に甘えることは、雪姫にはできなかった。
何も考えずに「ああ、もう大丈夫だ」と安堵できればどれだけ幸せだろうか。
雪姫は母親から命を狙われている。この首の
まだ雪姫が生きていると知られれば、三射目が準備されることだろう。
それを阻止するには母による殺人の教唆を立証する、またはそれを強く疑わせる証拠や証言が必要になる。今回の絞殺未遂では何のあてもない。そもそも母に狙われているというのは、一ヶ月半前の誘拐時に実行犯が口にした「お前、母親に切られたんだよ」という発言と、それを確信させる普段から母に疎まれている自覚によるものだ。
決して、証拠があるわけではない。
せめて実行犯が捕まれば手がかりでも出てくるかもしれないが、そんないつになるかもわからないことに賭けることなどできない。
そんな状況の雪姫を助ける意味は、この医師にあるのだろうか。
「事情は知っている、と言ったはずだよ」
警戒に顔を強張らせる雪姫に対し、西園寺は柔和な笑みを崩さず言う。
「君は実の母親が雇った男たちに拉致され、命からがら逃げだした。行くあてのない君が頼ったのは、山中にある建設会社の寮に住む七人の男たち。そこで一ヶ月以上もの間匿われ、その見返りにカラダを使って男たちと関係を持っていた。そして今日、改めて命を狙われた」
朗々と語る言葉に嘘はなかった。
情報源は恐らく三郎だろう。何も説明しないわけにもいかず、だからといって咄嗟に嘘で取り繕う器用さを持ち合わせているわけでもないのでありのままを語るしかなかった。自信なさげなあの中年男性が俯きながら少しずつ話していく様は容易に想像できた。
「簡単に言えばね、君の母親――理事長は、僕にとって政敵なんだよ。彼女はこの病院をダメにしている。三年にわたる減収減益に何も手を打とうとせず、人的・物的共に極端に絞った設備投資、何よりも、人の上に立つ器量が足りない。この病院は、あと五年もしないうちに経営が困難になる。だから、現理事長を引きずり降ろさなきゃならない。そう思っているのは僕だけじゃない」
その話を聞いて、雪姫は驚かなかった。
かなり苦労しているであろうことは薄々感じていたが、ここまで偉い人に信用がないとは思わなかった。
母はこの大病院の頂点に君臨する権力者だと思っていた。
しかし、西園寺の話を聞く限り、認識違いだったようだ。
実態は、もしかしたら裸の王様なのかもしれない。
「でも、西園寺先生は、その若さで外科部長なんでしょう?この病院にこだわる必要はないんじゃないですか?」
医師の就職事情はよくわからないが、若く優秀な外科医ならば他の病院でもやっていけるのではないか。世間では転職とかよく聞くし。
雪姫の疑問に、西園寺はフフ、と笑う。
「普通の病院ならね。でも、ここは白野
視線は、どこか遠くに向けられていた。
「良き医師であり、経営者であり、僕の恩師である、あの人のためにね」
よほど信頼されているのだろう。
父がここまで慕われていることに、雪姫は誇らしく思った。
今でも父のことは好きだ。
自分を愛してくれた父。
自分を必要としてくれた父。
自分を求めてくれた父。
幼少時からの父との記憶が、久々によみがえった。
「母に敵が多いなら、理事長から引きずり下ろすこともできるんじゃないですか?」
暖かな記憶の余韻から抜け出して、雪姫は西園寺に尋ねた。
対して、西園寺は難しい顔をした。
「話はそう簡単じゃない。彼女に付く人間もそれなりにはいてね。一部の製薬会社や医療機器メーカーともある程度のコネクションはあるし、院内にも少数だが理事長派も存在する。それに、世間では夫の死後に病院を引き継ぎ悪戦苦闘するシングルマザーで通っているからね。イメージそのものは悪くないんだよ」
「つまり……」
雪姫はなんとなく察した。
この西園寺という男が自分に何を求めているのかを。
あの山中の労働者に求められたものとは違う、自分の価値を。
西園寺は何かを察した雪姫の様子に気づき、表情を笑みに戻した。
雪姫は気づいたことを口にする。
「わたしは、
理事長は人を雇って娘を殺そうとした。しかも二度も。
刑事事件としてだけではない。信頼を根こそぎ奪う、この病院にとって大スキャンダルだ。
だが、同時にそんなことが世間に知られれば、それこそ病院そのものにも危害が及ぶことだろう。
殺人犯が経営する病院となれば、それこそ致命傷だ。
「でも、そんなことをすれば――」
「正攻法で解決しようとすれば、風評被害でこの病院は終わりだろうね。例え現理事長を失脚させても、それでは結局この病院がなくなってしまう。だからね――」
そんなことは承知していると、西園寺はひと際口角を上げた。
「こちらも、理事長を見習って、裏技に頼ろうと思うんだ」
西園寺は確かに笑っていたが、その笑みには先ほどまでの安心感ではなく、
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