第10話 救護
女が家屋を離れた直後のことだった。
七人の男たちの一人――三郎が、仕事用のワンボックスカーを家の前に停めた。
まだ昼過ぎだが、三郎はサイドブレーキを引いて車を降りて玄関へ向かう。
こんな時間に帰ってきたのには事情がある。抜き打ちの現場監査が入り、元請会社どころか発注会社の監査担当者がやってきたのだ。そこで刈払いの安全衛生教育の修了証を携行していないことを指摘され、「すぐに取ってきます!」と慌てて車を走らせてきたというわけだ。更にタイミングの悪いことに、何の気まぐれか、現場視察のために発注元の執行役員まで来たものだから、現場は余計に大混乱だ。現場代理人と各下請け会社の現場責任者は書類を搔き集め、役員に工事計画と進捗や課題を説明し、労働安全衛生法への抵触を疑われては弁明し、などなど。七人の男たちの中でもそれは同じはずで、今頃は一郎も右往左往していることだろう。
三郎は玄関の取っ手に手をかける。
財布ごと部屋に忘れてきたので、刈払いの修了証もそこにあるはずだった。
「いっそっげ~」
慌てていることに違いはないが、自分一人だけ混乱のるつぼから抜け出して、静かな家にいることが、非日常に思えて少し楽しく思えてしまった。
だから、
「……え?」
玄関扉を開けた先の光景に、惚けた声を出してしまった。
段ボール箱の上で、少女が――雪姫がうつ伏せになってお尻を向けていた。
体にぴったりと張り付くジーンズ生地のボトムスが、蠱惑な臀部をアピールしている。まさか、車の音を聞きつけて、『サービス』してくれようというのだろうか。雪姫との関係が始まってから、基本的には一対多で事に及んでいる。三郎からすれば雪姫と一対一での経験は、初日にしてもらったことだけだ。だから、いくら慌てている状況だからといって、この一対一の状況は、雪姫を独り占めできる貴重な機会であり、下半身を充血させるに充分だった。
「ユ、ユキちゃん……」
三郎はしゃがみ込み、興奮に鼻息荒くしながら、布越しにも温かさを感じる雪姫の尻を掌で撫で回す。
「……ユキちゃん?」
しかし、その雪姫からは何のリアクションもない。
いくらなんでも無反応はないだろう。昨夜だって、肌を撫でる度に甘い吐息を漏らしていたのに。
そう思って、うつ伏せのままの顔を覗き込むと、
「ひ、ぁぁぁ!!」
美しかった少女の死相が目に入った。
なんでこんなことになっている?
どうして?
誰が?
いつ?
疑問が自分の意志とは関係なく湧いていく。だが、幸運にもその疑問の奔流の中でひっかかりを覚えた。
いつだって?それはもちろん、今朝自分たちが出勤してから自分が発見するまでの間だ。雪姫の体はまだ温かい。三郎に医学知識はないが、まだ温かいということは事が起こってからあまり時間が経っていないということではないのか?
そこまで思い至り、三郎は慌てて雪姫を抱え上げて、廊下に仰向けで寝かせた。
(慌ててビビッて、こんなことしてる場合じゃ……!)
口元に顔を近づける。呼吸は感じられない。胸も上下していないから確実に呼吸が止まっている。続いて脈を取ろうと手首に指を当てるが、脈があるのかよくわからない。首で脈を計ることもできるが、生憎とその知識を三郎は有していない。ならばと、彼女の胸に手を当てる。膨らみを潰すほどに押すが、心臓の鼓動は感じられない。少なくとも一昨日の夜の行為ではこれくらいの力で触って鼓動を感じたので、心臓は止まっていると判断できた。
(確か、酸欠の講習で……)
三郎は半年前に受けた酸素欠乏・硫化水素危険作業主任者の講習の最後に実施した救護訓練を思い出す。建設関連の特別訓練や講習で救護訓練は行われているが、三郎は実際に現場での救護を行ったことがない。それは同僚である他の六人も同じだが、まさか本当にやる機会があるなんて思いもしなかった。
心臓マッサージでどこを押すのか、何回押して人工呼吸に移るのか、よく覚えていない。確か何センチか沈むくらい押すんじゃなかったか?骨折とかしないか?でもそんなこと言ってる場合か?とにかくやれ!
強く五回押す。それから人工呼吸。確か顎と額に手を添えて顎を上げさせるんだったか。で、鼻をつまんで口を覆って息を吹き込んで……どれくらい?あ、確か胸が上下するとか言ってなかったか?あれ人形だから上下するのか?
手を動かしながらも、三郎は自問自答を繰り返す。合っているのか間違っているのかわからないが、何もしなければ雪姫は助からない。だったらなんでもいいからやった方がいいと自分に言い聞かせ、心臓マッサージと人口呼吸を繰り返す。
そこへ、着信が入った。三郎の携帯電話だ。
それどころではなかったが、いつもの習慣で電話に出る。スピーカーにして、すぐに心臓マッサージに戻る。
『おいサブ、何やってんだ。何回も電話したんだぞ』
二郎からの電話だ。だが、当然三郎には余裕などない。
「はぁ、はぁ、なんですか」
思ったよりも体力を使う心臓マッサージと人工呼吸に、呼吸荒く三郎が応える。
電話口の向こうで、呆れた声が返った。
『おい、まさかユキちゃんとお楽しみじゃ……』
「…っ、いいから、来て…っ!」
『おい、俺も混じれって?一応仕事中なんだから――』
「ユキちゃんが、死んじまう!!」
二郎の声が止まった。
『それって、どういう――』
「俺だって、わかんない、よっ!誰かに、襲われたんだっ!心臓、止まってんだ!―――っ、―――っ、話してる余裕あるなら、救急車呼んで!」
三郎は状況を理解していない二郎に苛立ちを感じながら叫ぶ。
対して、二郎は雪姫の現状を目の当たりにしていない分、比較的冷静だった。
『落ち着け。救急車って、このままユキちゃんが病院に運ばれたら……』
今の雪姫は行方不明者という扱いだ。その彼女が救急車で病院に搬送されれば、当然身元が判明するだろう。普段テレビは見ていないが、雪姫のことが報道されていること自体は知っているし、顔写真も出回っているはずだから、顔を知っている人もいるかもしれない。おまけに雪姫の母親の病院はここから最も近い大病院だ。そこに搬送される可能性が高い。つまり、母親に怯えている雪姫からすると病院に行くことは大きな危険を伴う行動のはずだ。
自分たち七人の立場も危うい。三郎は雪姫が襲われたと言っていたが、外傷があって事件性ありと判断されれば、当然病院から警察に連絡が入る。未成年者の誘拐でお縄だ。おまけに強制性交も追加か?
だから、二郎は救急車を呼ぶことを躊躇った。
三郎はスピーカーから伝わる無言から、その空気を察した。
二郎の考えていることはわかる。
実際、三郎が真っ先に救急連絡を入れなかったのは、そこに躊躇いがあったせいだろう。
自分たちの身の破滅。
それを理解した上で、三郎は通話を切り、改めて通話アプリを立ち上げた。
数字三つを押してフックボタン。
『火事ですか、救急ですか』
消防司令センタのオペレータが、三郎とは対照的に、落ち着いた声で応答した。
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