僕らは『読み』を間違える 2.5巻 ~吾輩の耳は猫の耳~
水鏡月 聖
第1話 『吾輩は猫である』夏目漱石著を読んで 早乙女宏已
吾輩は猫耳である。プライドは、もうない。
名前ならある。裕已という名前だ。両親が身ごもったとき、まだ性別もわからないうちから、どちらになってもいいようにと名付けられたのがこの『ヒロミ』という名前だ。
「やっぱりヒロミはこういう格好すれば似合うと思ってたんだ」
クラスメイトのみのりは文化祭の前日、教室の隅に白い布を天井から吊り下げただけの仕切り部屋を更衣室にして、壁に立てかけただけの全身鏡の前で歓声を上げた。
鏡の正面に映る自分自身、その可憐な猫耳メイドの姿は確かに可愛いとしか言えない出来栄えだ。いくらメイクや衣装に凝ったところでこれだけの仕上がりになるのはひとえに遺伝的な要因があってしかるものではないだろうか。
背は低く色白で華奢な体格。少し下がった目じりに顎が小さくとがっている。笑った時に、持ち前の犬歯だけがのぞき、かくもひ弱そうではあるがそれなりに整った顔立ちだと自分でも思っている。
しかし、おれは生まれ持っての男である。
複雑な気持ちで鏡に映る美少女に眉を顰めるおれの隣で手をたたいて喜ぶ背の高い女子生徒、秋野実(あきのみのり)。
女子にしてはすらっとした高身長でショートカット。普段はクールに決めているが時々わざとらしいくらいにおどけて見せる彼女はクラスのほとんどの女子がそうするように、やたらと目を大きく見せるためのメイクに時間などかけない。元々が少し大きめな目元をアピールすることなく、切れ長でアーモンドの形。その姿は言うなればかわいいというよりかっこいい女子生徒。
正直。そんな彼女におれ(、、)は惚れている。
高校に入って最初の秋、初めての文化祭でクラスの出し物がコスプレ喫茶になった。
クラスで一番のイケメン、みんなから王子様のような扱いを受けているリア充男が一人で勝手に仕切り始め、「今更コスプレ喫茶なんてあまりにも芸がないだろ」なんてまっとうな意見をする奴もいない。いたところでみんなの王子様に意見する奴はクラスのほとんどの女子から冷たい扱いを受けるに決まっているのだから。
結局クラスの女子達が勝手にはしゃぎ、何のコスプレをするかで色めき合っている中、クラスのほとんどの男子生徒はつまらないという素振りで調理担当にまわっていた。おれもその例外ではなかった。しかしその実は(あるいはほとんどの男子生徒がそうなのかもしれないが)クラスの女子達がどんなコスプレでその教室の隅の仕切りから出てくるのかを楽しみにしていた。
秋の風に揺れる教室の隅から垂れさがる白い布は放課後の少し傾いた日差しを浴びてかすかに透けている。女子生徒のはしゃぐ声が教室に響き、その向こうで生着替えをしていることがはっきりと理解できる。その姿こそはっきりと見えないものの、透ける体のラインと高い声だけで十分に興奮する。周りの男子生徒にしても見ないふり、興味のないふりを装いながらもほとんど作業を中断しているとしか思えないほどに手元がおろそかになっている。もちろん誰も咎めたりはしない。その場の誰もが暗黙の了解でそのカーテンをチラ見、あるいはガン見している。
そしてまた白い布が開き、中から誰がどんなコスプレで出てくるのかを楽しみにして、中からあのクラスの人気者のリア充男とその腰巾着のような男が王子様と家臣のコスプレで現れた時にはさすがに男子生徒みんなの目が殺気立っていた。
そしてそんなコスプレを仕切っているのがみのりだった。おれはいったいいつになったらみのり自身がコスプレをするのかを心待ちにしていたのだが、その希望はあっさりと打ち砕かれた。
「わたしは自分の衣装、今日は持って来てないんだ。だから明日のお楽しみ」
友達とそんな会話をしているのが聞こえてきて、おれはすっかり興味を無くした。仕方なしに、さあ、まじめに準備をしようかと思ったところで不意にみのりがおれのところに近づいてきた。
「ねえ、早乙女君。ちょっといい?」
もちろん嫌とは言わない。言わないが……
「早乙女君ってきれいな顔してるし背も低めだからちょっと着てみない?」
もちろん何のことを言われているのは理解している。小さいころから背が低く、きれいな顔つきで女の子みたいだとよく言われ続けてきた。名前も早乙女で、広巳をヒロミと発音することで余計に女っぽい。そうはいってもおれは正真正銘男であって、それらのすべてはコンプレックスでしかなかった。いくら顔つきが整って、白くきれいな肌だからと言っていたところで、女子からは「いいな」「うらやましい」などと言われるだけで決して恋愛対象とみられることなど無かった。なよなよとした軟弱な男子生徒に興味を示してくれるものなどいなかった。
だからこうなる星回りだって想像していなかったわけでもない。せめてそんなおれに声を掛けたのが、あのみのりだということがせめてもの救いだと腹をくくり、その教室の隅に設置されたささやかな更衣室にドナドナされた。
男が着替えるのにカーテンがいるのか? と思いながらもその狭い仕切られた部屋におれとみのりは入ると、そこは二人きりの空間があった。もちろん緊張した。急に何をしていいかもわからない。立ちすくむおれ。
「もしかして緊張してる? だいじょうぶ、わたしがちゃんと教えてあげるから」
聞きようによっては〝たからもの〟にしたい言葉だった。
言われるがままに服を脱ぎ下着姿になり、余計な考えから少し元気になりかけたその前面をさりげなく隠すようにしているおれの姿をみのりは気にする様子もなく、白いエプロンのついた黒のメイド服を差し出してくるが、それを受け取ったおれは果たしてどうやって着ていいものかさえ解らなかった。そんなおれに対しみのりはまるで身の回りを世話するかのように着せ付けてくれた。――はたしてどっちがメイドなのか……
着替えが終わると今度はメイクだ。みのりは慣れた手つきでさっそうとおれの顔面を仕上げていく。鏡の前、ナチュラルで可憐なメイクが出来上がる様に世の女子達のやっているその詐欺まがいの行為に対し何らかの制限を設けるべきではないかとも考える。
「じゃ、口を〝いっ〟てして。」
「いっ!」
みのりの指示通りに口を一文字に結び
「んっ!」
みのりは唇を前に突き出した。艶っぽい唇がかすかに震える。それを真似しろと言っているのだろうが、むしろその姿がおれにキスをせがんでいるように見えなくもない。少し照れくさくなって目を反らした。
「もう、なにしてんの? ちゃんと言われたようにして!」
怒られてしまった。照れを押し隠すように、言われた通りに唇を前に突き出す。みのりはその先端にポケットから取り出したリップクリームを塗る。
――これは間接キスだ。
などという幼稚な考えは起こさない……ように心掛ける。
最後にさも、当然かのように猫耳としっぽをつけられた。これで完成。鏡の中にほぼ完ぺきと言っていいほどの猫耳メイドが写る。
「わたしね、性別を変身させる天才なんだ」
満足そうなみのりに対し、なぜだか誇らしげに鏡の中の自分を眺めると、やはり遺伝子の力はすごいものだと感心してしまう。
白い布をめくりみんなの前にお披露目。それなりの歓声を期待していたが、その一つさえ上がらない。むしろあげることもできないほどの完成度に皆は息を呑む。女子からはいくらかの嫉妬の目、男子からはどこか熱意のこもったふしだらな視線を感じる。自分も時としてこのような視線を道行く女性に送っているのかと思うとぞっとする。されど皆にちやほやされるという感覚も悪くはなかった。もし、自分が男でなく女として生まれてきたのならばもう少し明るい青春があったのかと考えるとどこか惜しくも感じる。
結局おれは明日の文化祭当日、調理班ではなく接客班として、当然猫耳メイドとして一日を過ごすことになった。そして一通り皆にちやほやされ再び更衣室に入った時、あるべきものが無くなっていた。
――おれの制服がない。
明日の文化祭の準備も終わり、教室にはもうほとんど誰も残っていない。更衣室に残っているのは脱いだ後きれいに折りたたまれた女子の制服が一着あるのみ、本来ならば興味の対象でしかないそのおたからでさえ今は目を向ける余裕はない。狭い更衣室でひとりうろたえているところ、突然カーテンが開き、中に入ってきた生徒が……
秋野みのりである。しかもこともあろうにその姿は男子の制服を身にまとっている。言うまでもなくおれの制服だろう。元々がカッコいい系のショートカットの女子であるみのりは、ともすればかなりのイケメン男子生徒に見えなくもなかった。そして男子の中では背の低めのおれと、女子の中では背の高めのみのり、二人の身長差はあまりなく、おれが脱いでいた制服をみのりが着ていたというのはうなずける話だ。そして何よりも自分の制服がちゃんとあったということに安堵を覚える……が。
「なにやってんだヒロミ、早く着替えろよ」だそうだ。
さっきから少し気にはなっていたのだが、今までは早乙女君と呼んでいたにもかかわらず、いつの間にか、他人から聞けば本物の女だと思われてもおかしくない〝ヒロミ〟と呼ばれている。それにみのりの口調もどこか男っぽい。いつまで悪ふざけを続けるつもりかと聞きたくもなるが、
「ほら、早くそこのある制服に着替えろよ。まさかお前、メイド服のままで帰るつもりか?」
「い、いやそんなわけ……」
「だったら早く着替えろよ。オレ、先に下駄箱のところに行って待ってるぜ!」
それだけ言い残してみのりは教室を出て言ってしまった。
目の前にみのりの制服を残し、教室には俺一人しかいなくなってしまった。しばらく考えつくした。しかしいくら考えても答えはひとつしかない。
みのりの制服を着て帰るということだ。
どう考えても猫耳メイドの姿で学校の外に出るわけにはいかない。いくらなんでも目立ちすぎてしまうのだ。だがしかしどうだろう。運よく(?)今のおれはばっちり女子メイクを施してある。ここで女子の制服を着たところではたからは女子生徒にしか見えないだろう。おそらくはみのりもそれを考えてのいたずらだ。だったら覚悟を決めるしかない。
鏡の前でメイド服を脱ぎ、女子の制服に着替えようとしている自分の姿は始終その姿見に映されている。その時気付いた。たとえ男のおれが着替える時でもこの白いカーテンの中に隠れた理由は、その姿が十分エロいからだ。ましてやおれが男だと知らないものがいたならそれは充分に勃起に値する。
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