第3話 愛の凱歌
護身術の授業では、音楽論についての講義が行われていた。
「音楽には感情がよく現れる。心をたやすく開いたり、その音楽にまつわる過去を思い出したり。魔法を使うには感情が最も重要で、音楽はその補助に使われる」
先生は松脂を前から順に回していった。
「ハイドンの『驚愕』という曲がある。演奏中眠ってしまった観客を起こそうとして、指揮者のハイドンはフォルテで強く演奏した。するとびっくりして皆起きた。ではなぜコンサートで寝てしまったのか?」
先生は新聞記事を配った。オーケストラのバイオリンの一人が、ケシの松脂を使っていたと書かれている。
「ケシの成分が配合された松脂でバイオリンを弾くと、たちまち人は眠ってしまう。詳しくは、魔術院で音楽専攻、もしくは魔法薬専攻をすると学ぶ。つまり、オーケストラの中に一人魔法使いが混ざっていたということだ。このことが魔法大臣の耳に入り、ケシの松脂は一般使用が禁止され、今使うと薬事法違反に当たる。使っていいのは、不眠症の人が医師に処方された時のみだ」
先生は最後にピアノのコンツェルトの演奏を流した。
「これはショパンコンクールの映像だ。この人は魔法使いだ。魔法使いが人間界のコンクールで優勝することはそう珍しいことではない。今日のレポートでは人間界における魔法使いの音楽界での活躍について調べることだ」
授業後夏帆は図書館へと向かった。音楽理論書が置かれているスペースに行くと、いくつか適当に本を取り出した。
―魔法使いは音楽の取り扱いにとりわけ長けている。というものの、魔法そのもの感情に左右されるものであるからである。日頃から魔法を使いこなすものは、自身の感情をコントロールしやすい。そのため、音楽に投影しやすいのであるー
背表紙をちらりと見ると、音楽とともに歩む魔法界と書かれていた。感情を出しやすい魔法使いにとって音楽は扱いやすいということは逆に言えば、感情を扱いやすいものは魔法も扱いやすいということだろうか。
―ラフマニノフのピアノ協奏曲2番は特に顕著である。これは作者がうつ病にかかった時の絶望を第1楽章、それを乗り越え人生のすばらしさを表現したのが第3楽章である。このラフマニノフは弟子にこう言ったという。私が死んだら魔法使いにぜひ弾いてもらいたい。この曲は健全なるものに引きこなすことはできないのだ。ここでわかることは、ラフマ二フは魔法界の存在に気づいておりー
ふとその文章に目が留まった夏帆は、杖をラフマニノフのピアノ協奏曲第2番という文字に充てた。そうすると、夏帆の脳裏にだけ、その曲が流れた。
荘厳な和音の始まり。そして、地を這うような重厚な短調。夏帆は音楽などといった杯ソサエティなものに挑戦したことはなかったが、なぜか楽譜が脳裏に焼き付いたように浮かび、今ピアノを弾けば、この難曲も弾けてしまうのではないかと思うほど、指が自然と動きそうだった。
―魔法使いは、人間より譜読みを魔法で使って行える分、とっつきやすい。一方で、演奏が機械的になる可能性も指摘されている。
図書室を出て廊下を歩いていると、音楽室、と書かれた部屋から知っている音楽が聞こえてきた。まさに、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だ。夏帆は聞き耳を立てた。
「直人うまいけど」と花森美咲は言った。「やっぱりコンツェルトをバイオリンとピアノだけだと物足りない」
「ベースを入れるのはどうかな?」
竹内直人の視線の先にはコントラバスを持った稲生和真が立ち尽くしていた。
「あ、いいですよ」
直人は杖を一振りすると、さっとベース用の譜面を書き起こして稲生に渡した。
「先輩さすがっすね」
「この曲は母によく聞かされていたから、すべての楽器が頭に入っているんだよ」
直人は続きを弾き出した。技術難所が続く展開部、そして第1楽章のメイン。バイオリンとベースはテーマに戻るが、ピアノは意外な展開を見せる。まるで曲をまとめるかのようなサビ。しかしながらも次へと向かう。今の苦痛と戦い、必死で抜け出そうともがくラフマニノフが想起される。
夏帆は思わず聴きいった。
「素晴らしかったよ、和真。初めてなのに、美咲と息がぴったりだ」と直人は言った。
直人が音楽室を出てきた。夏帆は拝礼した。
「そこにいるのはわかっている。入ってきな」
花森美咲の声が聞こえた。
「あなたよ、高橋さん」
夏帆はおずおずと部屋の中へと入った。美咲と、和真と3人の気まずい時間が流れた。
「チャルダッシュの意味知ってる?」
美咲の唐突な問いかけに夏帆は首を横に振った。
「酒場っていう意味。そこから派生して、小説とか、曲とか、踊りとかそういうもののジャンルの一種としてチャルダッシュという分野が確立された」
するとどこからともなく美咲を呼ぶ声が聞こえた。
「先輩―!」
男性が夏帆をちらりと見てから、音楽室に無造作に置かれている机の上にどすんと荷物を置いた。
「遅いぞ林」と美咲は言った。
「すみません、人間学研究部のミーティングが長引いて……」
「じゃあ、お邪魔しても悪いので、私はそろそろ……」と夏帆は一礼して出ていこうとした。
「そんなこと言わずに聞いてきな。今度ライブでやる曲だからさ。私がバイオリンで、稲生和真がウッドベース、林省吾がギター。全員J.M.C.だ」
にこりとした花森先輩の笑顔。夏帆は最後の一言で自分の気持ちを読み取られたような気がしてドキリとした。
「あんたの入学式で楽奏をするきっかけになったのもこのライブだったんだ。たまたま先生の目に留まって」
「そういえば、そうでしたね」と和真。
「私、思うんだよね。音楽は人をつなぐって。酒場のように。むしろ、音楽こそ魔法なんじゃないかって」
「らしくないですよ、先輩。さっさと始めましょうよ」
そういうと、3人は楽器の準備を始めた。
曲は唐突に始まった。激しい旋律が続いた後、風が舞い上がるかのような曲調に変化する。テンポが速いというのに、3人のハーモーニーがピタリと合ってはもっている。ロックだった。花森先輩らしい。クラッシック楽器とロックミュージックがここまでしっくりくるとは。美しい黒髪の乱れにどこか探るような音色。脳が興奮し、だんだん眠たくなってくる……。
「起きた?」
花森先輩が聞いた。夏帆は急いで立ちあがって深く頭を下げた。
「すいません!」
「ほら、こっちも」
先輩の指さす先には稲生と林が眠り込んでいた。
「有名な凱旋曲さ」
花森先輩はバイオリンケースから何か小さいケースを取り出した。
「この中に入っているのは、松脂、って言って、弓を滑りやすくするために使う油。これがないと、音が響かない。これは特注品でケシの花が調合されている」
「でもそれは、薬事法違反では」
「そう。裏社会でしか出回っていないものさ。でも、不眠症の人には使える薬だから、家に置いてあった。私の父は医者で、私も将来医者になることを希望している」
先輩は夏帆に近づいた。
「眠っている時人は無防備になる。常に閉心術を使うあんたにも、開心術を使いやすい」
花森はにやりと笑った。
「なぜ、手の内を明かすのかって?それが私のやり方だからさ。さあ次にお前はどうでる?」
夏帆は後ずさりしてそこから逃げ出した。先輩は何を見たのだろう?何を知られたのだろう?恐ろしくてひざががくがくと震えた。
図書館で竹内直人が教えてくれた本の中に面白いものがあった。『杖を振るための1000の型』という本だ。杖を振る美しさを競う杖道に使われるらしい。実戦にも有効だ。
教室で夏帆が借りてきた本を見ながら夢中になって杖を振っていると、目の前に誰かが立っているのを感じた。周りを見渡すと、全員立ち上がり、その誰かに対して礼をしていた。
夏帆は顔をあげた。4年生の花森美咲だった。男二人を後ろに従えている。一人は稲生直美の兄だ。夏帆は急いで立ち上がると、さっと礼をした。
「高橋夏帆、おまえに決闘に申し込む」
花森はそう言うと、挑戦状を夏帆に押しつけた。
「おまえは受けなくてはならない。そういう決まりだ」
夏帆は深く礼をすると、その挑戦状を受け取った。花森はにやりと笑うと、子分2人を引き連れて去っていった。
クラス中の注目が夏帆に向いていた。挑戦状を見ると、日付は今日の18時。また、場所の地図が書かれていた。行ったことのないところだ。面倒なことに巻き込まれたと一瞬で悟った。
授業後急いで寮に戻ると、談話室ではソファに腰掛けた立川がコーヒーを飲んでいた。
「立川先輩!」と夏帆は叫んだ。
「どうしたそんなに急いで」
「あの、決闘ってなんですか?」
そういうと、夏帆は挑戦状を見せた。
「ああ、決闘か。この学校では決闘を申し込めるんだよ。受けるのは本人次第だけど。挑戦状受け取ったということは受けなくちゃいけない」
「えっ?」
「知らなかった?」
夏帆にそんなこと知るよしもなかった。
「行かなくてもいいってことですか?」
「別にいいけど、不戦敗になるよ?」
「負けるとどうなるんですか?」
「別に何もないよ。課外活動だからね」
立川はコーヒーをすすった。「ただ、相手はJ.M.C.だから、無理矢理にでも決闘の場に引きずり出すだろうね」
「え、だと勝ったらまずいですか?」
「なんで?別に勝ってもいいよ。何も君に害はいかないよ。勝てないと思うけど」
「逆に負けたら骨を折られたりとかするんですか……」
立川は笑い出した。「さすがに傷つけたら犯罪でしょ!決闘って、相手から武器を取り上げたらそれで終わり。けがをさせたら治療する。勝っても負けともその後には関係なし。それがルール」
「でもなんで私に」
「さあそれは」と立川は言うとコーヒーを飲んだ。
困ったことになったと夏帆は思った。決闘なんて細かいルールも知らなければ、やり方さえもわからない。授業でもまだ対戦などしたこともない。目をつけられたのだ。消されるのだ。この学校を生き抜くのは大変とはこのことか、いつ死んだってかまわないが、それが今日だと言われるとさすがの夏帆も動揺した。
挑戦を受けた限り仕方がない。向かうしかない。行かずに骨を折られるよりは、行って負けて消されてすべて終わりにしよう。そう決意した夏帆は、杖だけをもって、地図を見ながら会場へと向かった。
会場は地図を見てもよくわからなかった。学校の一階を永遠と彷徨い、やっと見つけた地下へと潜る階段を降りた。地下は薄暗い場所だった。コツコツと言った足音だけ響く中、まっすぐ歩いて行った。永遠の時間かのように思え、怖いと叫びたかったが、もう夏帆にはどうしようもなかった。しばらく歩いた先に、光に照らされた1つの扉を見つけた。
「来た」
夏帆は扉を開ける前から、向こう側から声が聞こえた。
扉を開けた先にいたのは花森美咲と、9人の男性だった。美咲はにやりと笑っていた。薄暗い中、美しいストレートの黒髪が、証明で光っている。
夏帆はあっという間に囲まれた。
「挑戦状には、二人で、と書かなかったでしょ」と美咲は言った。
夏帆は杖を美咲に向けた。
「戦う気ね」と美咲は言った。「だいたいはこの時点で負けを認めるというけど」
美咲が杖を振ると、強い圧に押されて夏帆はふっとんでいった。そして次の瞬間、頭を強く床に打ち付けた。
美咲は杖を夏帆に向けると、杖を、円を描くように動かした。武器を、夏帆の杖を奪おうとしているのだ。武器を取られた時点で負け、それが決闘のルール。
杖道の型その1 杖とは魔力の増大に過ぎない。杖に頼るな、身を使え
夏帆は手のひらをぐっと美咲に向けると、魔力をはねのけた。
「型を知っている?」と美咲は驚いて言った。
次の瞬間、横から強い閃光があたり、再び夏帆はその場にばたりと倒れた。
意識が遠のく中で、夏帆は夢を見た。
類が昔、幼い夏帆に教えてくれたこの世での“生き方”。襲われたときの倒し方、大勢に囲まれたときの殴り方。数々のフェイントと、急所の知識と身のこなし。なぜそんなことを類が知っていたのかはわからない。ただ類から“この世の生き延び方”について英才教育を受けてきた自覚だけはあった。
夏帆は突然高笑いをした。
「相手が悪かったんじゃない?」
そういうと、杖を制服の杖入れにしまうと、周りの男性を殴り、蹴り、張り倒した。そして、最後は完全におびえきった花森美咲の顔面を思いっきり殴り倒した。
夏帆は全員の杖を奪った。
「なめんな」
そういうと、奪った杖をその場に捨て、会場を後にした。『子供の凱旋』が脳内に鳴り響いた。
寮に帰ると談話室に大勢の人が集まっていた。
「夏帆ちゃん勝ったんだって」と立川は言った。
「何で知っているんですか」
「こういう情報は回るのが早いんだよ」
みんなは困惑しているのか祝福してくれているのか、表情からはわからなかった。確かに勝ち負けで何も変わらないかもしれないが、人々の心は変わる。そう感じた。
「型を使ったって?」と立川。
「はい」
「知ってるの?」
「少しだけ」
「使いこなせるってすごいね」
寮長室から小道がやってきた。
「夏帆さんおめでとう」小道はにこりと笑った。
その瞬間、キッチンからまたカップの割れる音がした。
「夏海さん、もういい加減にしてください!」と直美がつっかかりに言った。
「ごめんなさい」と夏海はただ言うばかりだった。夏帆は複雑だった。以前、中庭で出会った時とあまりにも性格が違ったからだ。彼女の二面性を知っているのが自分だけなのかどうなのか夏帆にはわらかなかった。
前と同じように、小道がカップを直した。小道はカップを調べるように見ると、ほら直った、といって夏海に返した。
「おまえ本当は魔法使えないんじゃ?亜人なんじゃね?」
「その言葉は差別用語よ取り消しなさい!和真くん!」と小道は珍しく怒った。
「取り消します」と気まずそうに稲生和真は言った。
「亜人ってなんですか?」と夏帆は小声で立川に聞いた。
「魔法使いの家庭に生まれたにも関わらず魔法が使えない障害を持つ人のことだよ。領域内に住んでいるものもいるが、一度領域の外へ出ると二度と入ることができない。」
次の日の朝、休日を迎えた夏帆は良いことを思いついて朝から上機嫌だった。類からもらった箒に乗って、遊覧飛行にでも出かけようと考えついたのだ。部屋から外を見てみると、怪しいほどに真っ青で美しい空。飛行日よりという言葉がぴったしだった。
夏帆はいつもより丁寧に髪をとかすとこれまで一度も来ていなかったピンクで花柄のニットセーターに、白いスキニーパンツに着替えた。白い靴下に茶色の運動靴をはくと、室内にある自分用の箒入れタンスを開けた。
そこにあったのはバラバラになった箒だった。夏帆はしばらく呆然としていた。枝の部分には楕円で十字に描いたマーク。箒メーカー、ツジガミ箒製だ。洗練された箒の柄のデザインは、10年前に発売された人気箒種、『クロス』で間違いなかった。
寝室には夏帆以外誰一人としていなかった。犯人としてあげられるのは同室の1年生4人だろう。
夏帆はばらばらになったクロスを震える手で回収すると、談話室へと持って行った。談話室にはコーヒーを飲む、立川と小道の姿があった。
「夏帆さん、どうしたの?」と小道は言うと、手に抱えたバラバラの箒を見て、青ざめた顔をした。
小道が杖を一振りすると箒は元の形へと戻った。それでも夏帆の手の震えは止まらなかった。
「乗ってみて」と小道。
夏帆は箒にまたがり、床を思いっきり蹴った。箒はふわりと浮いたものの、上昇しなかった。5ミリほどのところまでいくと下降してしまう。夏帆は腹筋に力を入れたが、やはり動かない。
「もしかして」と小道は言うと、夏帆から箒を受け取った。小道は箒を探るような目で丹念に調べると、眉間に皺を寄せた。
「ほら、ここ。欠けてる」
小道は夏帆に見せた。箒の柄の部分の一部が、丸く削られたようにえぐられている。小道先輩は一瞬、ほんの一瞬顔が見たこともない形にこわばった気がした。
「誰がこんなこと……箒をえぐるとか卑怯だ」と立川は言った。
「いいえ、違う気がする」小道は言った。「これ、かなり強力な呪文で壊されたのよ。粉々にするどころか、消失したのよ。原子核をバラバラにされたのね。一度調べてみるからこの箒預かってもいいかしら」
「はい」
夏帆はうなずいた。「直りますか?」
小道は首を横に振った。
「待って、小道」と立川は言った。「消失したのだとしたら、1年生には使いこなせる呪文じゃない」
「どういうこと?」と小道。
「明らかに犯人は同室の誰かだろ」
「わからないじゃない」と小道は言った。
「消失させたいのだとしたら、なぜ全部消さなかった。なんでわざわざ一部だけ消失させて、残りはバラバラのままそこにおいた。まるで」
「まるで?」と小道。
「自分がやった、と見せつけたいみたいじゃないか」
「そうね」小道はそういうと箒を持って、寮長室へと帰っていった。
「高橋、どうしたの?」
振り返ると夏帆の後ろには青木が立っていた。
立川は寝室へと戻っていった。青木は夏帆と二人分、コーヒーを入れてくれた。
「ここだけの話、あのあと大変だったんだよ」と青木は言った。
「あのあと?」と夏帆。
「決闘のあとだよ。俺はJ.M.C.の談話室にいたんだけどね、地下室から美咲さんたちが上がってくるとさ、もうお通夜状態。J.M.C.って6つのチームに分かれているんだけど、俺美咲さんと同じチームだから、みんな気を遣っちゃって大変だった。美咲さんさ、もうずっと狂ったように叫んでんの。おまえらも高橋と戦ってみろだの、敵を討てだの、このままじゃ威信に関わるだの」
「勝手に申し込んできて、勝手に負けて、何言ってんの」
夏帆は、その話はおそらく花森美咲は言ってほしくなかったんじゃないかなって思った。
「高橋って意外と辛辣なんだね。なんか色々山越えてきた感じするね」
「どうも」というと夏帆はコーヒーを飲んだ。
「おいしい」
「え、わかる?この豆さ、人間界で買ってきたんだよ。そういえば高橋何があったの?」
「ああ」
夏帆は箒に関してことの子細を話した。
「言わないでね」と夏帆は言った。
「でもそれってさ、犯人ある程度特定できんじゃん」
「そうだけど、これ以上騒ぐつもりない。もう10年ものだったし、そもそも貰いものだし。学校にいれば、自分の箒なんてなくても生活できるから」
青木に話したのが間違いだと気づくのにそう時間はかからなかった。寮内ではあっという間に稲生直美が犯人との噂が流れた。
頭を抱えた夏帆は当てもなく校内をさまよった。夏帆が通るたびに校内がざわつき、噂話をするのが痛いほどにわかった。稲生直美のことではない。高橋夏帆が花森美咲に勝ったことだ。この衝撃がいかほどのものなのか、やっと夏帆は気づいた。暇人かよ、と夏帆はつぶやいた。
箒もまた勝ったことへの嫌がらせの1つなのだと推察した。なんとやり方の稚拙なことか。
気がつくと、誰もいない場所にたどり着いた。あたりを見渡すと、窓も部屋もなく、廊下だけが続いている。こんな場所、学校にあっただろうか。
嫌な予感がした。なんらかの魔法がかけられている。細い道の真ん中に扉があり、そこから強い魔力を感じる。
扉は鉄製で重そうだったが、少しだけ開いていた。夏帆は興味本位で少しばかり覗いてみた。
中には赤いペルシア絨毯が敷き詰められていた。黒いソファに、誰かが腰掛け話している。一人は中年の男性。そうしてもう一人は初老のお団子頭の女性。
「私がじかにくるなど特別なことだ。なぜ心変わりした」
「どのみち未来が決まっているのであればお話いたしますわ。愛想がつきたのです。私は父親の地位を守るためにここに入り、そして松岡殿を」
ドンっという音が鳴った。扉が閉まり、かちゃっという音が背後から聞こえた。銃だ。後ろにいる誰かが夏帆の頭に銃をつきつけている。
「今回は見逃す。次はないぞ」
後ろから聞こえたのは男性の太く深い声だった。夏帆は振り向くことができず硬直して立ち尽くしていた。
「今見たことを公言してみろ、おまえは死より恐ろしい現実を目の当たりにし、震える毎日を送ることになる」
夏帆はこくりとうなずいた。後ろの男性のライオンマークの入った茶色い革靴が見える。
「今すぐここを右に去れ。後ろを振り向くな。わかったらいけ!」
夏帆はその声の圧に圧倒され、急いで右へと走っていった。
中庭まで来ると、なんだか助かった気がした。あそこへはもう二度と近づきたくないと夏帆は思った。
寮の目の前まで来ると、唐突に箒のことを思い出した。夏帆は寮内に入れないまま、ただじっと絵を見つめていた。
よく見るとこの絵は『呪いの指輪』の物語の一部のように見えた。1つ違うところは、指輪に触れようとしているのが物語に出てくる庶民の女性ルーシーではなく、王妃というところだ。王妃がルーシーという名前を持つとは思えなかった。エリザベスとか、ヴィクトリアとかが適当だろう。もう一つ不可解なのは、隣の男性だ。王妃に比べて、いささか絵に気合いが入っているように見える。ぱっちり二重に整えられた眉とあごひげ。まるで生きているかのようだった。
こういう芸術を学ぶ授業も学校にはあった。しかし夏帆にはあまりにも学びたいことが多く、芸術を選択する時間的余裕はなかった。
心を決め、寮内へと入った。談話室には多くの人が集まっていた。まずい雰囲気であることを察した。
そこへ小道が寮へと帰ってきた。
「間違いない情報よ」と小道は言った。「綾野文が死んだ」
「死因は?」と立川は聞いた。
小道は首を横に振った。「心臓発作とだけ」
「ほらもうこんな時間よ、部屋に戻って」
寮生は皆各自の寝室へと戻っていった。
「ああ、夏帆さん」と小道は夏帆を呼び止めた。
「西園寺先生に聞いたんだけど……」
「西園寺先生?」
「呪文分析学の先生よ。箒を見てもらったの、やっぱり、消失の呪文がかけられているって」
「凄いですね、その先生」
夏帆の言葉に小道はきょとんとした。
「まるで他人事ね」と小道は言った。
「別にそういうわけでは。でもそんなことまでわかるんですね。呪文分析学って」
「呪文分析学では、対象物にかけられた呪文の暴き方も学ぶのよ。魔法って何かしら痕跡が残るの。それを魔力っていう。わかる人には個人差までわかるみたいね。魔術院で学ぶことだけど」
「魔術院?」
「魔法魔術学校を卒業した人で、研究職や教職みたいな専門職に就きたい人が行く学校。進学率は低いけど。そんなことより、とにかく、とても強力な消失呪文がかけられていたのは確からしい。大人でも難しいほどの力よ。いい?高橋さん。犯人探しはしちゃだめよ。真実は誰にもわからない。あなたの身の為よ」
「はい」と素直に夏帆は答えた。
夏帆は寝室へと戻った。5人が同じ時間にそろうのは珍しかった。夏帆は気まずい空気の中、シャワーへと向かう準備をした。
「ねえ、夏帆ちゃん」と直美が言った。
「これ、誕生日プレゼント」
そういうと、直美はツジガミ製『新型クロス』を渡した。
カレンダーを見ると、11月10日。確かに誕生日だった。
「よく知ってたね」
「裕也に聞いた」と直美。
「裕也?」
「青木裕也」
青木の下の名前を夏帆は初めて知った。
「ありがとう。でも受け取れない。これ、15万くらいするんじゃない?そんな高価なものもらえない」
「もらってくれないかな。信じてほしいの。あなたの箒を壊したのは私じゃないって」
夏帆は箒を受け取った。
「ありがとう。はじめから信じているよ。私魔力を感じ取る能力を持っているの。誰がかけたのかだいたいわかる。だから、箒を壊したのがあなたじゃないことくらいはわかる」
―犯人捜しはしちゃだめ
小道の言葉が刺さる。
「ありがとう」
直美は今まで夏帆に向けたことのない笑顔を見せた。
正月休暇が終わり、2学期に入ってすぐの休日。談話室に戻ると、掃除をしている小道と立川がいた。小道は相変わらず頬に痣を作っていた。
「小道の部屋が荒らされたんだ」と立川は言った。
「そういえば夏帆ちゃんまた決闘なんだって?」
花森美咲の一件以降、夏帆への決闘の申し込みが増えていた。夏帆は覚えた型の実戦の場として、決闘を利用していた。決闘は毎回夏帆の勝利だった。
「J.M.C.の子たちバシバシ倒してるらしいじゃん。どこまで型覚えた?」と立川。
「450くらいですかね」と夏帆は答えた。
「すごいね。そういえば今日、お披露目見に行かない?」と立川が言った。
「お披露目?」
「J.M.C.のお披露目。会長とか幹部が勢揃いして、校内を練り歩く行事だよ。今年は延期延期で今日になったらしい」
午後になると、立川に連れられて、朱雀寮の1年生が一階の廊下に集まった。
「ほら来た」と立川は言った。
会長の山瀬桃実を先頭に、後ろに3人、2人、2人と続いている。
「山瀬先輩、今日はマント羽織ってないんですね」と青木が言った。
「学校行事じゃないからね。今日はマランドールとしてじゃなくてJ.M.C.会長としている。山瀬の後ろの3人が幹部で、確か右端が幹部長。その後ろの2人も幹部」
「またチーム6長いないですね」と青木が言った。
「どういうこと?」と直美。
「この幹部ってそれぞれチームを束ねているんだよ。幹部長はチーム1長がやる決まり。だから俺、将来の幹部長!」
「図に乗るな」と直美が言った。
「はいはい。それで、チーム6まであるから、幹部は6人のはずなんだよ。でも毎回チーム6長がいない。会ったこともない。噂じゃ幹部会議にも出てないって」と青木。
「それいいの?」と稲生。
「役務放棄だよな」と青木は言った。
「その後ろの2人が書記。5年生。毎回あの2人から、会長と幹部長が出ている気がするな」立川は青木の言葉を遮るように言った。
「そうそう、そうなんですよ。会長、幹部長候補が、書記やる決まりなんです」
お披露目の幹部たちが通り過ぎるとき、山瀬が一瞬、夏帆の方を見た気がした。山瀬はにやりと笑うと、その場を通り過ぎていった。
「あ、そういえば山瀬さん就職先決まったらしいですよ」と青木が言った。
「えどこ?」と直美。
「それがなんと警察」
「警察!?自分が一番捕まりそうな人じゃん」
直美がそういう中、やはりJ.M.C.が日本の魔法界を牛耳っているとの噂は本当なのだと感じた。
「立川さんは?」と青木が聞いた。
「公安」
夏帆はそっとその場を離れ、寮へと帰ろうとした。その途中、音楽室の前を通った。花森美咲がいる。自身もJ.M.C.だというのに、お披露目も見ずに、バイオリンの練習をしているのだ。
弾いていたのはエルガーの愛の挨拶。朝にぴったりの美しく甘い音色だ。いつもと趣向が違う曲だ。ロックといった激しい曲が多かったのに、今日はゆったりとした曲を弾いている。花森先輩のいつもの髪の乱れはなかった。すがすがしい朝を祝福しているような裏のない美しい微笑を頬に浮かべている。
恋をしているのだ。直感的にそう思った。音楽は人の感情をよく表す。
夏帆は遠い廊下の陰から同じく花森先輩の演奏を聴いている人物を見かけた。林省吾だった。悲しそうな表情を唇に浮かべ、暫くすると、そこから逃げるように立ち去った。この男は悟ったのだろう。この音楽が自分に向けられていないということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます