第20話 フォークの音

 婦人がピンク色の袋へさらに深く手を入れると、二つのマフラーが顔を覗かせた。かずはのマフラーと同じ縞模様だが、それぞれ色が違う。婦人は、そのうち緑のマフラーを紳士の首にそっと巻いた。

「これはいいな、大切にするよ。それにしても、手作りのマフラーとは……若い頃を思い出すなぁ」

 紳士は昔一度、婦人にマフラーを作ってもらったことがあった。二人が付き合いはじめてまだ間もない頃のことだ。紳士は懐かしそうにマフラーに顔を埋めて、軽く頬擦りした。

「やめてくださいよ、あの時はもっと下手だったから恥ずかしいわ」

 婦人は残ったオレンジ色のマフラーを手に取って自分に巻こうとしたが、途中で紳士に取り上げられた。紳士は慣れた手つきで、マフラーをくるりと婦人に巻き、満足した顔で言う。

「似合ってるよ」

 すると、かずはがキュイーとか細い声で、何やら訴えはじめた。

「はいはい、私ばっかり構ってもらってごめんね」

 婦人は足早に椅子まで戻って、かずはの喉を左右に撫でた。かずはは、先ほどの悲しげな声が嘘のように、ご機嫌そうな声を出して婦人に甘えている。

「ケーキを切っても、大丈夫か?」

「えぇ、お願いします」

 婦人がかずはをあやしている間、紳士は緊張した面持ちで、美味しそうなケーキを凝視していた。指でケーキを測るようにして、一つため息を吐く。

「三等分は難しいな……」

 それを見た婦人が、口元に手を当ててフフッと上品に笑う。

「私、最近食欲がないんです。だから少なめでいいわよ。かずはと半分こしようかしらね」

 紳士はポカンと口を大きく開けて、眉間に皺を作りながら、パチパチと瞬きした。

「いいのか?ばあさんは甘いものが大好きだったじゃないか。ほら、この間の団子も」

「それが本当に最近は食欲が出ないのよ」

 言われてみれば、婦人は最近少食になった気がする。夕飯を残したり、二人で楽しんでいた間食も、しなくなった。紳士は心配そうに婦人を見ていたが、当の本人はむしろ嬉しそうに「体重も随分減ったわ」などと話している。婦人の提案で、ケーキは半分が紳士、四分の一が婦人とかずはに行き渡った。婦人はケーキの断面をジッと見つめながら、感心したように言った。

「あなた、ケーキを切るの上手ね……私じゃこうはいかなかったわ」

「褒めても今日はケーキしかないぞ」

 夫婦は他愛もない会話を交わしながら、ケーキの皿を自分たちの正面まで移動させる。しかし、いざ食べようとして、フォークがないことに気が付いた。婦人は「うっかりしてたわ」とキッチンへ向かっていく。やがて婦人の姿が見えなくなった時、突然、金属が落ちた時特有のキンと耳をつんざく音が響いた。かずははギョッとした顔で驚いている。

「はは、大丈夫か?まったく……」

 紳士は笑いながら言葉を続けようとしたが、かずはの声以外、何も聞こえなくなった空間に嫌な違和感を覚えた。どくり、どくりという心臓の音が、耳元に迫ってくる。動物的本能とでもいうのだろうか、紳士はこれまで経験したことのない気味が悪い感覚に包まれていた。紳士は胃の辺りを鷲掴みされているような気持ち悪さの中で、急いでキッチンに向かう。

「あな、……た」

 婦人は紳士と目があった瞬間、こちらに手を伸ばしながら倒れていく。紳士は慌てて手を伸ばしたが、あと少しのところで届かなかった。紳士は視界を、ゆっくり下に移す。

「ばあさん……?」

 蚊の鳴くような声しか出ない。体中の血の気が引いていく。手が意思とは関係なく痙攣している。立っていられないほど、足がガクガクと震えた。

「とにかく救急車を……」

 紳士は言うことを聞かない足を一歩、また一歩動かして、スマートフォンへ近付こうとする。しかし、足が硬直して動かない。喉がキュウと絞まるようで、次第に呼吸も荒くなる。

「誰か……」

 ピィィ!と鳴いたかずはが、心配そうな顔をしてこちらに近づいてきた。紳士は力の入らない手で、かずはをぎゅっと抱きしめた。紳士の目から、せきを切ったように次々と涙が流れ落ちる。やらなくては、私がやらなくては……。紳士はかずはを抱き締めていた腕を解いた。今度は紳士の足に、より一層力が込められる。紳士は手を伸ばし、スマートフォンを掴んだ。震える指でどうにか番号を押す。

「お願いします。今すぐ、妻を助けてください。愛する妻なんです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る