第5話 大きな2本の桜の木

 充電器に座らせたロボットの目が覚めるまでの間、2人は互いに人生を振り返った。婦人は昔から子供が大好きで、将来は3人の子供に囲まれて暮らすのだと、付き合いはじめの頃よりそれはそれは楽しそうに紳士に聞かせていた。

 しかし、時として現実は非情で、神様などいないのだと思い知らされる。ある年の健康診断、彼女は真っ青な顔色をさらに涙でぐちゃぐちゃにして、帰宅した。「子宮頸がん」そう聞かされた時、紳士はどんな顔をしていたものか、自分でも思い出せない。彼女のがんは発見時にはもう転移しており、なす術はなく、子宮全摘出となった。

 一体なぜ、私たちだけがこんな目に遭わなくてはならないのだろうか。確かに聖人君子とはいかないが、私たちはただ、これから何年も幸せな普通の生活を送りたかった。ただそれだけじゃないか!ああ、なぜ、なぜ、なぜ彼女が……。考えても考えても頭は真っ白で、視界を邪魔する涙だけが何粒も何粒もしつこく溢れ落ち、ズボンにシミを作っていった。

 どのくらいたったのだろうか……。手術室のランプが消え、妻がベッドで運ばれていくのを見送った。これほどまでに己の無力さを感じたことは他になかった。その後、目を覚ました妻の元へ駆け寄ったが、そこにいるのが妻なのか、私は確信が持てなかった。それほどまでに妻は気力をなくしていたのだ。

 そうして25歳の春、まるで桜が散るように、彼女は笑顔をなくした。それでもまだ諦めたくはなかった。桜は季節が来れば散ってしまうが、それでも1年後にはまた美しい花を見せてくれる。来る日も、来る日も、彼女の前では道化のように明るく振る舞った。またいつか桜が見られるように。

 それから少しずつ、少しずつ、私の努力よりも時間だけが、彼女の表情を和らげていったように見える。しかし、未だ婦人が満開の笑みを見せてくれることはない。無理もないとは思っているが……。

 紳士はそこまで考えて、かずはの方を楽しそうに見つめる婦人を見た。まさかこの歳で「子供が欲しい」と言われるとは思ってもみなかった。しかしいくら難しいとしても、婦人が正直な願いを打ち明けてくれたことは成長だと、紳士はそう思った。

「どうか、頼むよ、かずは……」

 かずはが、婦人にとって何かのきっかけになればいいのだが。

「あなた!あなた!目を覚ましたわ!」

 その声に一瞬で我に返った。ゆっくりと目を開けた「かずは」に紳士は息を呑んで驚いてしまった。そこにあるのはまぎれもない、小さな小さなひとつの生命だったからだ。

「あなた、あなた!」

「あぁ、わかるよ。……そうだ、また抱っこをしてあげなさい、きっと喜ぶよ」

「上手くできるかしら……」

 先程と違い動いているかずはを、婦人は危なっかしい不慣れな動作で抱き上げる。

「どうだ、ばあさ……ん」

 紳士はその場でピシと固まって婦人を見つめた。そこには紳士だけが見ることの出来る、満開の桜が咲いていたからだ。これまで日常の中で口元だけが微笑むそれでもなく、愛想笑いのそれでもない……。婦人が昔、紳士と居る時にごく自然に見せてくれていた満面の笑み、そのものだった。

 窓の外ではゆっくりと雪が積もりはじめていた。随分と季節外れに、美しい桜が咲いたものだ。紳士は一瞬涙を拭うような動作をしたが、すぐに婦人と並び笑顔を咲かせてみせた。雪の日に咲いた大きな2本の桜の木……かずはには一体それがどう写ったのだろうか。

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