3話『悪鬼蔓延る、逢魔ヶ刻へ』
「
「――――ッ!?」
苦悶の声が聞こえて、俺は血の気が引いた。
(そうだ、ボーッとしている場合じゃない)
確か、彼女は俺を庇って
「大丈夫!?」
「ぐ、ぅう……!」
脱力している体に鞭を打ち、胸を掻き抱く女性の元へ駆け寄る。腕に隠された胸元からは大量の血がとめどなく溢れており、地面に真っ赤な池を作っていた。
(――これは、助かるのか?)
人間は1リットルも血を流せば死ぬらしい。目の前の女性はすでにそれ以上の血を流しているように見えて、寒気で体が震えるのを感じる。
だがすぐに我に返ると、首を大袈裟に振ってからスマホを取り出した。
「頑張って、すぐに救急車を呼ぶから!」
必死にスマホを操作していると、ふと下から引っ張られるような感覚。思わず視線を向ければ、息も絶え絶えな様子の女性が弱々しい手で俺のズボンを掴んでいた。
「ま、待って……」
「待って、って言われても」
問答している時間すら惜しい。こうしている間にも彼女の命は零れ続けている。
「おね、がい……」
それでも、彼女は懇願するように俺を見上げていて――俺はスマホを操作する手を止めた。
「ありが、とう」
「救急車を呼ばなくて感謝されても嬉しくないよ」
歯がゆさで顔を歪めた俺に、女性は少しだけ頬を緩める。血の気が失せていても柔らかな表情はとても綺麗で……元気になった彼女はどれほど綺麗なのだろう。
「良く……ぐ、ぅ……。き、聞いて」
「…………うん」
声をだすのも辛そうな彼女に、俺は小さく頷いて腰をかがめた。彼女との距離を縮めて、小さな声でもちゃんと聞こえるように。
「今すぐ、ここから離れなさい」
そして彼女が願ったのは――俺がいなくなることだった。
「――は?」
思わず間抜けな声を漏らした俺に、彼女はあくまで真面目な声で続ける。
「立ち、去らなければ……貴方は、後悔するわ」
「後悔って、このままキミを放置するほうが後悔するよ」
この胸の傷は俺のせいで付いた傷だ。俺が変なことをしなければ、後ろでジッとしていれば、彼女は傷つかなかった。そんな彼女を置いて1人帰るなんて、それこそ見殺しと同じ。
ただ俺がそう思うのも、次の言葉を聞くまでだった。
「――日常に戻れなくなっても?」
「――――ッ」
声を失う。
日常には戻れない。それは俺にとって、重く、重くのしかかる言葉だった。
「これ以上私に関わるなら、貴方は平穏な生活を送れなくなるわ」
「……それは、あの化け物と戦うってこと?」
彼女は静かに首肯して、続ける。
「命をかけて、
「…………」
胸元に致命傷を負っているとは思えない、流暢な喋り方で彼女は俺に問いかける。
――貴方は日常を捨てられるのか、と。
「俺は……日常が大切だ」
退屈で仕方ない授業も、くだらない話で友達と盛り上がる休憩時間も、バイトしたりたまに友達と遊ぶ放課後も、好きだ。
(何より幸せで退屈で代わり映えしない日常は――俺にとって
子供を残した両親へ、小学校から先へ行けなかった妹へ、俺が出来る最初で最後の親孝行だから。それを手放す選択を、気軽に選ぶことは出来ない。
「俺、は……」
「その覚悟がないなら……ここから、立ち去りなさ……ぐ、うぅ……」
鋭い視線で俺を見つめていた女性だったが、すぐに胸を掻き抱いて苦悶の声を漏らした。顔を歪める彼女に、俺は両手を強く握りしめる。
「俺に、そんな覚悟はない」
見知らぬ人のために戦うなんかよりも『日常』のほうが大切だ。背負った命の分まで、俺は生きなきゃいけない。
俺の告白を聞いて、何処か安心したように彼女は顔を伏せる。
「そう。なら早く此処から立ち去りな――」
「――それでも」
『無辜の民のために戦う覚悟』なんてない。それでも俺にあるのは、
「キミを助ける、その覚悟はあるよ」
「――――」
もうこれ以上、命を背負いたくない。目の前で失われていく命を、取り零す訳にはいかない。俺にあるのは、そんなワガママだけだった。
「だから教えてくれ。俺は何をすれば良い? どうすればキミを助けられる?」
「――――」
彼女は無言のままで見つめてくる。意識を保つので精一杯だろう瞳を揺らして、俺へ『本当に良いのか』と言外に伝えてきた。
だから無言で首肯した俺を見て、彼女は――
「ありがとう。貴方は、とてもお人好しなのね」
――俺に抱きついた。
「ぇ? ぅあッ!?」
柔らかな白い肌が密着し、より彼女の顔が近くへと迫る。吐息すらかかるような距離で、鈴のような美声が耳元で紡がれ始めた。
「
「――――あぁ」
「
「――あぁ」
「
「…………あぁ」
何かを問われるが、意味を理解できず頷くことしかできない。しかしそれで良かったのか、俺たちを中心として淡い水色の光が立ち上り始める。
「ならば、
「――――」
「
「――――」
俺と彼女の間に、何か繋がりのようなものが出来たのを感じた。
「
「――駄目だ」
だから、俺は思わずその言ノ葉を否定する。驚いたような表情で彼女は俺を見上げた。
(あ、やばッ)
ほぼ無意識にとは言え儀式みたいなものを止めてしまったと、焦りが生まれる。
「ぃ、いやっ、あのっ! 服従って、普通に考えて駄目だと……そう思っちゃって……」
「これは儀式のための大切な
ジト目で見つめてくる彼女に、冷や汗が出て思わず謝りそうになる。だが次の瞬間、彼女はふっと頬を緩めて――
「本当、お人好しなんだから」
――笑う。
「――――」
瞬間、脳天に雷が落ちた。
儀式の最中なのに。彼女を救えるか救えないかの瀬戸際なのに。俺は、彼女の笑顔に心を穿たれた。
彼女が現実離れした美貌を持っているのもある。彼女と触れ合っていることも、大いにあるだろう。だが一番の理由は、その笑みがあまりに綺麗だったから。
俺の中で、フンワリとしていた決意がハッキリとした形になる。
(守りたい)
キミは出会って間もない俺を助けてくれた。馬鹿なことをした俺を庇ってくれた。――自分の命よりも、俺の日常を大切にしてくれた。
(だから、そんな
それはきっと、俺の『日常』よりも大切なことだから。
「
蒼炎華と名乗る彼女は、瞳に俺を映しながら問いかけた。
「
「陽斗、
瞬間、何となく感じていた彼女との繋がりが、一気に明確化していくのを感じる。
「ここに契約、成せり」
締めの言葉と共に周りを包んでいた光が消え失せると、蒼炎華はそっと両肩に手を添えて顔を離した。その顔色は幾分かマシに見えて安心し――
「――ぁ?」
不意に、視界がぐらりと揺れた。凄まじいまでの倦怠感が一気に襲いかかり、意識が一気に遠くなっていく。
「っと……。ごめんなさい、陽斗」
体のバランスが取れなくなりフラリと前のめりに倒れ込んだ俺を、スッと彼女が支えてくれた。その表情がどこか申し訳無さそうで、しかし問い掛けるだけの力が俺にはもう残っていない。
「そして、ようこそ」
俺の記憶に残った最後の光景は――
「
――いつの間にか降り注ぐ月光を背に、蒼く輝く蒼炎華の姿だった。
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