第31話

 思えばクリストフェルはよく泣く子供だった。犬に追いかけられては泣き、おねしょをしては泣き、ディナーで出た肉が噛み切れなくては目に涙をためていた。

 しかし、ランヴァルド先王が死の淵に立った時、クリストフェルは耐えるように奥歯を噛みしめ、冷たくなった先王の体が土の下に寝かされた後も涙をこぼさなかった。いつの間にか、クリストフェルは涙をこらえることが出来るようになっていた。

 最後に彼の涙を見たのはいつだったか。シャルロッテは記憶を辿った。

 茶室に漂っている甘いお菓子とパンの香りが、むせかえるような花の匂いへと変わる。


(あぁ……そうだわ。ヴィオレッタ王妃の葬儀の時が最後だわ)


 遠くに押しやられていた記憶が、香りとともに蘇る。


 ヴィオレッタ王妃が危篤との報を受けて駆け付けたシャルロッテは、クリストフェルの婚約者という立場から、特別に寝屋に入ることが許された。パーシヴァルも、ランヴァルド王の付き人ヨゼフすらも許されなかった部屋で、最初にシャルロッテが感じたのは濃厚な甘い花の匂いだった。

 死の臭いを誤魔化すかのように所狭しと置かれた淡い桃色の花が、ねっとりと全身に絡みつく甘い芳香を漂わせている。ヴィオレッタが好んで愛用していた爽やかな柑橘系の香りとは全く違う匂いに、シャルロッテは息を詰まらせた。


「シャルロッテ、こちらへ」


 ランヴァルドの招きに従い、ヴィオレッタの枕元に立つ。血の気の失せた顔は石膏像のようで、苦痛に歪む口元からは浅く速い呼吸が漏れていた。

 恐る恐る手に触れる。穏やかな温かさに安堵したのもつかの間、急速に冷えていく指先に目を見張る。おそらくこの体温は、強く手を握っていたことによって残ったランヴァルドのものだったのだろう。すでに指先から、ヴィオレッタのぬくもりは消えていたのだ。

 ヴィオレッタがもう助からないのは、幼いシャルロッテの目から見ても明らかだった。それでも、何かの奇跡が起きてこの世につなぎとめることが出来るとすれば、それは自分の手ではないはずだ。

 放そうとした手に、微かな力が伝わる。ヴィオレッタが最後の力を振り絞り、シャルロッテの手を握った。ゆっくりと目があき、クリストフェルと同じ色の瞳がシャルロッテをとらえる。

 ふわりと、ヴィオレッタが微笑んだ。どんな笑顔だったのか、今となってはもう思い出せないが、彼女が笑ったのは確かに覚えている。

 シャルロッテはランヴァルドに場所を譲ると、クリストフェルの背後に立った。悲しみに震える背中を見つめ、上下するヴィオレッタの胸元を見つめた。荒かった呼吸が、徐々に静まっていく。口元に浮かんでいた苦痛が消え、浅くゆったりとしたものに変わる。呼吸の間隔があく。吐いた後、吸うまでに時間がかかるようになってきた。

 何度、これで最後かもしれないと覚悟したかは分からない。再びヴィオレッタの肺が膨らみほっと胸を撫で下ろした途端、彼女の体が小さく震えた。まるで全身の空気を排出するかのように、長く息を吐く。

 どれだけ待っても、もう息をすることはなかった。

 王妃ヴィオレッタは、穏やかな最期を迎えた。眠るように逝った彼女の名を、ランヴァルドが掠れた声で呼び続ける。クリストフェルは母との早すぎる別れを受け入れられず、まだ逝かないでと泣き叫んでいた。

 シャルロッテはグっと涙をこらえると、クリストフェルの背に手を当てた。

 泣きじゃくるクリストフェルが、掴んでいたヴィオレッタの手を放しシャルロッテに縋りつこうとして動きを止める。彼の手は、母に触れることは出来ても婚約者に触れることは許されていない。

 ギュっと握りしめられた小さな手を、包み込んであげたかった。しかし、身を切り裂かれるほどの悲しみに沈みながらもエリザへの誓いを守ろうとする気高さに、シャルロッテは胸を打たれた。

 目を閉じ、深く深く首を垂れる。

 涙をこぼすまいと噛みしめた唇の痛みに、すすり泣く声。胸焼けするほどの甘い花の香りが、強くシャルロッテの記憶に刻み込まれた。


 今、あの時のシャルロッテと同じ深さで、クリストフェルが頭を下げている。


「シャルロッテ、もう一度考え直してほしい」


 ヴィオレッタの葬儀の際、ずっと彼女の名を呼んでいた幼い声は、しっとりとした低音に変わっていた。シャルロッテと同じくらいだった背もいつの間にか抜かされ、華奢だった体躯は逞しくなった。あの頃から変わらないのは、宝石のように美しい翡翠色の瞳だけだ。


 何も言わないシャルロッテに業を煮やしたのか、パーシヴァルが口を開いた。


「王が頭を下げているのですよ」

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