第32話 ネトリーはいかにして正ヒロインとなりしか

 ――イザベラたちが祝杯を上げる数日前。《じれよじれたる森》にて。


 王国北部に広がるその広大な森林は、300年前に建国王ゼッツリンド率いる勇士たちが《混沌の魔王》ナイアルを封じたとされる場所だ。ナイアルの呪いの残滓ざんしといわれる瘴気に満ち満ち、その名の通り木々はまっすぐに育たず、苦しみのたうつ蛇の群れのようだ。魔物も動物も瘴気の影響を受けて変異種と化しており、ただの一体として同じ姿のものはいない。


 そんな魔境を、桃色の髪をした少女と、金髪の少年が歩いている。

 そのうしろを数人の若者たちがついて歩いていた。


「ネトリー、もういい加減に帰らないか? 森に入ってからもうひと月近くはたつじゃないか……」

「ベアリッシュ、音を上げたんなら帰っていいわよ。それとも、怖気づいたの?」


 ネトリーと呼ばれた少女は、振り返って上等な鎧をまとった若者に答える。

 その若者、ベアリッシュは慌てて首を振った。


「だ、誰が怖気づいたりするもんか! ただ俺は、このまま探したって無駄なんじゃないかって……」

「あら、私の予言が信じられない?」

「そ、そんなことはないんだけど……ほら、ヴラドクロウの件もそうだし、殿下もこんな調子だし……」


 ベアリッシュの視線の先には、金髪の少年がいた。

 少年の金髪はボサボサで、頬は痩せこけ、唇はひび割れている。

 しかし、何より異様なのは落ち窪んだ眼下の底にある異様な輝きだ。

 青い目を爛々と輝かせながら、「僕は王子だ……次期国王……ひひっ、頭が高いぞ。ひれ伏せ……ひれ伏せ……」などとつぶやいている様子はまるきり幽鬼である。


「きゃっ!?」

「だっ、大丈夫か、ネトリー!?」

「心配するぐらいなら転ぶ前に助けなさいよ」

「ご、ごめん。気が付かなくって」


 振り向きながら歩いていたら、捻くれた木の根に足を取られてしまった。

 ネトリーは小声で悪態をつきつつ立ち上がる。


(どうしてこんなことになるのよ……)


 ネトリーは先ほどつまずいた木の根を蹴り飛ばし、そんなことを考える。


(ジャークダーって何よ! なんで強制イベントのあの裁判で負けるの!? 全選択肢を検証したけど負けるルートなんて絶対になかったわ! どうしてイザベラは、あの悪役令嬢は学園に来ないのよ! ぜんっぜん意味がわからない! 私がここまで来るのに、どれだけ苦労したかわかってるの!?)


 心中で呪詛を繰り返しながら、ネトリーはこれまでの人生を振り返っていた。


 * * *


 ネトリーは3歳で前世の記憶に目覚めた。

 外遊びの最中に、転んで頭を打ったのがきっかけだ。

 はじめの数年は、よくある中世ヨーロッパ風の異世界に生まれ変わったのだと思っていた。


 農家に生まれた彼女には、世界を知る手段があまりにも乏しかった。

 ときどき、前世の記憶を利用してちょっとした発明をしたり、計算ができるから村長の事務を手伝ったりしていた。そうこうするうちに神童がいると噂になり、数え7歳で教会学校に入寮した。


 ネトリーは教会学校でもめきめきと頭角を現した。

 なにしろ前世では大学を卒業し、社会人として過ごした記憶もある。勉学で同年代の子どもに負けるはずがない。

 歴史や魔法、詩作や神学などでは前世の記憶は何も役に立たなかったが、そこはなんとか努力して克服した。すべては、彼女の夢を叶えるために。


 この頃には、この世界が前世で熱中したゲーム『幻想繚乱イマギニア・アカデミア』の世界であることを確信していたのだ。通称ニアミアと呼ばれるそのゲームは、いわゆる乙女ゲームというジャンルのノベルゲームだ。


 トゥルーエンドやハッピーエンドはもちろんのこと、ノーマルエンドもバッドエンドもすべて回収するまで周回した。攻略Wikiの編集にも積極的に参加し、ときに掲示板やSNSで解釈を巡って論争したりした。ファンブログを立ち上げると、アクセスカウンターがあっという間にぐるぐると回った。

 公式資料集やフィギュアなどのグッズも当然コンプリートだ。折々に追加されるDLCダウンロードコンテンツはほとんどその日のうちに遊び尽くしていた。


 そんな愛してやまないニアミアの世界に転生したのだ。

 ゲーム中の設定では、主人公は地方の農家出身で、魔法と勉学が優秀だったことで貴族学校への進学が認められる。そしてネトリーは、自分こそがこの世界の主人公なのだと確信していた。境遇はまったく一緒だし、鏡を見れば前世よりもずっとかわいらしい姿が映る。


 乙女ゲームの常として、主人公の容姿が作中で語られることは基本的になかったが、数々の貴族子弟と恋仲になる女の子なのだ。容姿が整っているのは当然だろう。名前は自分で入力する方式だったからヒントにはならない。


 貴族学校への推薦を得るため、必死に勉強するうちにネトリーには友人ができた。

 名前はマリアンヌ。ネトリーと同じく農家の出身で、入学は1年遅れだったが年齢は一緒だった。淡い紫色の瞳がアメジストのようで、性格も屈託がなく、誰にでも好かれるかわいらしい女の子だった。


 きっかけは何だったろう?

 そうだ、数学の課題で、マリアンヌが悩んでいるところに声をかけたのだ。「そこは両辺を11で割って……」みたいな、ほんの些細なアドバイスだったと思う。しかし、マリアンヌはそれに感激し、それ以来ネトリーと一緒に勉学に励み、魔法を鍛え、ふたりで一緒の小説を読んで笑い合ったりした。


 そんな日々が数年続き、数え15歳の年を迎える半年ほど前のことだ。

 貴族学校への編入は15歳の頃に起こるイベントだ。

 ネトリーはその日に備え、逸る心を抑えながら努力を続けていた。


 そんなときだ。

 頼まれた書類を学長室に届けようとしたとき、中から会話が聞こえてきた。


「では、10年ぶりとなる貴族学校への推薦はマリアンヌ君で決まりかな?」

「ええ、ネトリー君を推す意見もありましたが……伸び代が明らかに違いますね。ネトリー君の努力は目を見張るものがありますが、マリアンヌ君の天賦と比べると数段劣ってしまいます」

「かわいそうに。本当なら2人とも推薦してやりたいところだったが」

「貴族学校への推薦は1名しか許されませんからね。しかし、ネトリー君には本山の大学校への進学を――」


 膝から崩れ落ちそうだった。

 なんとか気持ちを立て直し、素知らぬ顔で用事を済ます。


 それから、駆け足で私室に帰って泣き続けた。


 自分は主人公ではなかった。この世界で、この愛するニアミアの世界で、自分は本編とは一切関係のない、どこかの街にいる名もなき脇役モブなんだ。ゲーム内のテキストでは、『王国の人々は』の一言でまとめられてしまう、そんな存在なんだ。こんなに、こんなに努力してきたのに……。


 ネトリーの心境とは関係なく、世界は無慈悲に時間を刻む。

 翌朝、泣き腫らした目を濡れタオルで冷やしてから教室に向かった。


「ネトリー、大丈夫? 目が赤いよ?」

「え、ええ。ちょっと昨日から目が痒くなっちゃって。大丈夫だから気にしないで」


 マリアンヌが心配げに声をかけてくる。

 思わず吐き出しそうになった「あんたさえいなければ!」という言葉を飲み込んで、ネトリーはなんとか取り繕った。


「目が痒いの? それなら放課後に校舎裏の森に行きましょう! ちょっと奥の方にね、きれいな泉があるの。そこで目を洗えば絶対よくなるはずよ!」

「う、うん。ありがとう。それじゃ放課後ね」


 マリアンヌはネトリーの気持ちなど一切気が付かず、普段どおり優しく接してくる。

 それがネトリーには耐え難かった。あんたはこの世界の主人公様だから、そんな余裕でいられるんだ。脇役モブなんて好感度稼ぎのための小道具にすぎないんだ。貴族学校に進学したら、私のことなんかすべて忘れて、攻略キャラヒーローたちとのきらきらした恋愛物語を楽しむんだ。


 放課後。


 ネトリーはマリアンヌに連れられて、森の奥の泉までやってきた。

 獣道しかなく、誰かが訪れている様子もない。

 道すがらに聞いた話では、マリアンヌが森を散歩していたらたまたま見つけたのだそうだ。


「ここのお水がね、すっごく冷たくって気持ちいいの!」


 マリアンヌは小走りに駆け、泉の縁にしゃがんで顔を洗いはじめる。

 その背中は、まったくの無防備だ。自分主人公を害する存在なんて、この世界には一切存在しないんだと言わんばかりに。

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