第20話 新米冒険者、はじめての邸宅訪問

 謎の蜘蛛怪人たちをなんとか退けたクレイたち一行は、礼をしたいという少女のあとをついて貴族街に入っていった。

 平民街と貴族街との間は高い石壁で区切られている。街門は斧槍ハルバードを持った衛兵が数人がかりで警備しており、物々しい雰囲気を醸し出していた。しかし、少女が名乗るとうやうやしく頭を下げて道を通してくれる。


 馬車を用意しましょうかと揉み手で近づいてくる門番を、少女は「今日は歩きたい気分なの」と一蹴する。門番はへへーと深く頭を下げて持ち場に戻っていった。


 なるほど、これが大貴族の威光というものなのか……クレイは、これまでの人生で一度も目にしたことのない光景に、思わず冷や汗をかいていた。田舎街にも衛兵はいたが、みんな横柄な態度でとくにクレイたちのような冒険者にはあからさまに見下すような視線を送ってくるのが普通だったのだ。


 意外なことに、貴族街の道は平民街よりも暗かった。

 月明かりと、立ち並ぶ邸宅から洩れる灯りのおかげで足元に困ることはない。しかし、屋台や飲み屋が無秩序に乱立する平民街と比べると、どこか物寂しい印象も受ける。


 どれほど歩いただろうか、一際立派な門の前で、少女が足を止める。

 少し先には篝火かがりびに照らされた王城がそびえていた。クレイたちは知らないことだが、王城から近い位置に土地を与えられるほど貴族としての格は高い。ここから先にある邸宅は、すべて王家かその傍流のものだ。

 要するにヴラドクロウ家とは、王族を除けばこの国でもっとも高い格式を誇る名家なのである。


「こんなでっかい家、はじめて見たぜ……」

「庭だけで領主様のお屋敷がいくつも建てられそうね……」

世界樹ユグドラシル神殿の本山なみなのです……」


 少女に案内されるまま、クレイたちはおっかなびっくり広大な敷地に足を踏み入れていく。

 屋敷に入ると何人ものメイドが真っ白な手ぬぐいを持って集まってきて、クレイたちの身体から泥や埃を丁寧に拭い清めていった。どういう手品なのか、少女とその侍女はろくに汚れてもいない。高貴な血筋ともなれば、汚れの方から避けていくのだろうかと馬鹿な妄想が脳裏をよぎった。


「さあ、楽になさってください、勇者様方」


 エントランスの脇にある部屋に通された。

 勧められるままにソファに腰を下ろすと、予想以上に腰が沈んでひっくり返りそうになってしまう。尻から背中にかけてふんわりと包まれて、まるで宙に浮いているようだ。ひょっとして尻がなくなっているんじゃないかと不安になり、時折腰を浮かせてその存在を確かめてしまう。


 そわそわしていると、侍女が背の低い机に茶碗を並べた。

 ガラス製の小さな薬缶やかんの中身は琥珀色の液体で満たされており、中では茶色い藁屑わらくずのようなものが踊っている。侍女はそれを茶碗に注ぎ入れ、陶器のミルクポットから牛乳を足し、さらに粉雪のような砂糖を入れて音も立てずにかき回した。

 クレイとて砂糖くらいは口にしたことがあるが、それは茶色くざらついたもので、こんなに真っ白でさらさらしたものなど生まれて初めて目にする。


「紅茶が入りましたので、どうぞお召し上がりを。お疲れでしょうから、勝手ながらお砂糖とミルクをたっぷりお入れしました」


 紅茶……紅茶とは何だったか?

 クレイは一瞬考え込んでしまう。ああ、そうだ、ちょっと高めの酒場に行くとメニューの端に書いてあったな。エールよりも何倍も高くて、注文するやつの気が知れない。伊達男を自称する先輩冒険者が、木のジョッキに注がれたそれ・・を飲んでいるところを見たことはあるが、あまり旨そうには見えなかった。


 目の前にある把手とって付きの小さな茶碗の中には、基本的には白色なのだが、少し茶色っぽい液体が湯気を立てている。いい香りが漂ってくる。……が、どのように飲めばいいものなのだろうか。無作法をして目の前の少女の機嫌を損ねてはまずい。田舎者のクレイだが、それくらいの常識はわきまえていた。


 クレイたちが固まっていると、少女がゆったりと茶碗に手を伸ばした。

 細い指先が茶碗の把手とってをつまみ、白い磁器の縁が桜色の唇に触れる。いまのいままで気が付かなかったが、未だ家名しか知らぬこの令嬢はとんでもなく美しい。

 腰まで伸びた黒髪は光沢のある炭のようで、澄んだ瞳は磨き込んだ黒曜石のよう。その瞳が長いまつげに縁取られているせいなのか、全体の印象は華奢ではかなげなのに、強い意志を感じさせる眼差まなざしをしていた。

 クレイたち3人は、まるで魔法にかけられたかのように、少女の所作のひとつひとつに魅入られてしまっていた。


「うん、美味しいわ。今日は東方の茶葉かしら? さ、勇者様方も冷める前にどうぞ」


 少女に声をかけられて、クレイたちの時が再び動き出す。

 時間にすればほんの数秒のことだったろう。しかし、クレイたちにはそれが未来永劫続いているかのごとく感じられたのだ。


 震える手を茶碗に伸ばし、紅茶を一口すする。

 舌の上に柔らかい甘みが拡がって、それから春の花畑を思わせる香りが鼻に抜けていく。じっくり味わって飲んでいたつもりが、いつの間にか一滴残らず飲み干していた。


「う、うまい……」

「こんなのはじめて飲んだ……」

「ああ、偉大なる世界樹ユグドラシルよ、今日という日に感謝します……」


 紅茶の味に感動したのはクレイだけではなかったようだ。

 エイスもリジアも、空の茶碗を手に放心している。


「おかわりもありますから、遠慮なく召し上がってくださいね。あ、お茶菓子も一緒にどうぞ」


 侍女は魔法のような手付きで3人に紅茶のおかわりを注ぐと、次は小皿に切り分けた淡い黄色のパンのようなものを出してきた。

 その横には金属製のフォークが添えられている。小指を少し伸ばしたくらいの大きさの小さなフォークだ。木を削り出した大きなフォークしか見たことがない3人は、それを恐る恐る手にとって、小皿に乗せたパンに突き刺し、大口を開けて頬張る。


「んんーーーー!!」

「ふぁ、ふぁまい!!」

「かふぉりが、ふぁまりません!!」


 そのパンは、これまでに食べたことがないほどに柔らかかった。

 口に入れた瞬間に舌の上でほろほろとほどけて、歯を使う必要すらない。ふかふかの生地からはじゅんわりと甘酸っぱい汁が滲み出してきて、やや強い酒精の香りが口いっぱいに広がる。

 侍女が次々におかわりを切ってくれるので、3人は無我夢中になってそれを貪った。


「うふふ、パルレのお菓子は美味しいでしょう? わたくしは、宮廷料理長が作るものよりも美味しいと思っておりますわ」

「ちょっ、お嬢様。いくらなんでもそれは言い過ぎですって!」

「あら、わたくしは本心を言っているだけなのに」


 頬を赤らめる栗毛の侍女と、それを楽しげに眺める黒髪の少女。

 それはまるで一枚の絵画のようで、3人はフォークを握ったまま見惚れてしまった。

 視線に気づいた少女に微笑み返され、思わず視線をそらしてしまう。


「お茶とお菓子で少しは気持ちがほぐれたかしら、勇者様方」

「は、はいっ! な、なんというか、結構なお手前で……」

「うふふ、ありがとう。でも、そんなに堅くならなくても大丈夫よ」


 少女は、柔らかく笑ったあとに、背筋を伸ばした。

 室内の温度が突然下がったように感じて、クレイたちも思わず背筋を伸ばす。

 少女は右手を左胸に当てて、ゆっくりと目礼をした。

 そして、クレイたちの目を見据えて、口を開く。


「改めて、御礼を申し上げます。申し遅れましたがわたくしはイザベラ・ヴラドクロウ。ヴラドクロウ家の長女ですわ」

「は、はい」


 名前ははじめて聞いたが、その身分にはさすがに予想がついていた。

 だが、はっきり事実として聞かされたことで、心臓の鼓動が早まり、手のひらには汗がにじむ。


「ヴラドクロウ家のものとして、家宝である聖印を守ってくださった勇者様方には感謝に尽きません。この大功・・に報い、当家より3つの褒美を授けます。しかしこれは――覚悟がなければ断っていただいてもかまいません」


 ごおう、ごおうと雷鳴が轟いた。

 いつの間にか外は土砂降りの大雨になっていた。豪雨が屋根を打ちつけ、風がうなり、稲妻が瞬く中、少女――幽遠なる美をまとった貴族令嬢、イザベラ・ヴラドクロウは真剣な面持ちで語りはじめた。

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