賢くない魔女と落ちこぼれ騎士と出戻り令嬢

原純

第1話「森の賢くない魔女 1/2」

 陽の光も満足に届かないほど鬱蒼と生い茂る木々の間を、脇目も振らずに疾走する影があった。

 それほどに密度の濃い森だ。真っ直ぐ走ることなど出来るはずがない。しかしその影は、何本も行く手に立ちふさがる歪に捻れた木の幹などものともせずに、ただひたすらに真っ直ぐに疾走していた。

 その必死な様子はまるで何かかから逃げているかのようだ。そのためならば、森の木々がどうなろうと知ったことではないという有様である。しかし木々は木々で、削り取られようとへし折られようと、瞬き何度かの間には蔓のような何かが樹木の傷跡を覆い、すっかり治してしまっていた。


 ここはそういう森であった。

 ただ無造作に生えているそこらの木々でさえ、通常の手段では倒すことはできない。これらの木々も本来ならば、ヒトの作った鉄斧すら満足に通らない硬さの樹皮に覆われている。

 そしてそんな木々を片手間にへし折るこの影でさえ、何者かに追われ逃げている。


 やがて、逃げる影の周囲から木々の密度が徐々に減っていき、常識的な森の様子に近づいてくる。

 木漏れ日が逃げる影の姿を照らし出す。

 逃げていたのは、一言でいうと巨大な猿だった。

 全身を漆黒の毛皮に覆われ、頭部には真紅のたてがみ。大ぶりのナイフと見紛うほどの鋭い牙。筋肉に覆われた太い腕。

 それは猩猩しょうじょうと呼ばれる魔物であった。


「……むう。『中層』まで逃げられちゃったか」


 そして猩猩を追って現れたのは、暗めのアッシュブロンドにとんがり帽子を乗せた少女──この『インサニアの森』を管理する当代の『魔女』、マリスだ。


 猩猩は本来、インサニアの森の深層に住む魔物である。種族としての気性は穏やかで、争いを好まない。何か極度に興奮するような出来事でもあれば別だが、普段は緩やかな群れを作り、森深くで静かに暮らしている。

 しかし極稀に、生まれつき気性の荒い個体が現れることがある。

 猩猩に限らないのだが、そうした個体は往々にして才能も豊かで、非常に強く成長するケースが多い。伝説や神話に謳われている神獣や幻獣も、大抵は災害級の魔物種が突然変異で凶暴化したものだった。と、魔女たちの間には伝わっている。


 この赤毛の猩猩も同様で、しかもすでに成年個体であった。

 彼がその凶暴性のまま群れを率いてしまえば、いかに魑魅魍魎が跋扈するインサニアの森といえども、その生態系に多少の変化が生まれてしまうかもしれない。

 故に、赤毛の猩猩の気配を察知したマリスは、これを間引く必要があると考え、森の深層まで足を運んだのだった。

 もっとも、この猩猩が思ったよりも狡猾で用心深かったため、深層で仕留めきるのに失敗してしまったのだが。


「デカめの猿ごときを相手にこんなんじゃ……お祖母様に合わせる顔がないな。でも、見通しも良くなったし、もう外さない──『カオス・イレイザー』」


 その手に持った漆黒の短杖ワンドを掲げ、魔女だけに許された神秘の力──『魔術』を発動した。

 マリスが放った、黒と白が交互に瞬く一条の光は、間にあった木々の枝葉は一切無視して直進し、猩猩へ襲いかかる。光に触れた枝や葉は、まるで最初から存在しなかったかのように消滅している。

 しかし猩猩はその生存本能で何かを感じたのか、直撃の前にとっさに身体を捻ってみせた。

 その甲斐あって、枝葉のように消し飛ばされたのは猩猩の左腕だけだった。


「────!」


 猩猩は声にならない雄叫びをあげる。

 痛みに耐えるためか、と思いきや、どうやら起死回生の一手のための咆哮であったらしく、猩猩は一息の踏み込みで方向転換し、背後へ──マリスの方へと跳躍した。

 小柄なマリスの倍ほどもある筋肉質な腕が眼前へと迫る。深層でも鳴らした魔物だけあって、ほんの瞬きほどの間で猩猩はマリスに肉薄していた。

 マリスはとっさに、漆黒の短杖を猩猩の拳に合わせた。猩猩を追うため、身体強化の魔術はずっと発動している。主に下半身の強化だったが、それに合わせて上半身もそれなりに強化されている。

 ぎん、と甲高い音を立て、猩猩の拳は止まった。漆黒の短杖には罅一つなく、マリスの体勢も小揺るぎもしていない。


「……外さない、とか言っておきながらギリギリで躱されてしまったときはちょっとヒヤッとしたけど。わざわざ自分から狩られにきてくれるだなんて、君はいい奴だな。よし死ね」


 マリスは短杖を持っていない方の手のひらを猩猩の分厚い胸板に当て、ゼロ距離で再び『カオス・イレイザー』を放った。



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