二一の扉 忠誠の代償

 「サーブ、大変だ!」

 フィールナル王都の下級住宅街。

 すでに取りつぶしとなったはずのカーディナル家の使用人たちがその意地と誇りに懸けて国王に逆らい、今なおカーディナル家の旗を掲げて医療活動に当たっているその家に、ひとりの男が飛び込んできた。ひどくあわてた様子だった。

 「どうした?」

 と、カーディナル家のフットマンであり、いまやこの区域の抵抗活動の指導者的立場にあるサーブが尋ねた。男は喉が渇ききっているらしく、うまくしゃべれない。よほど急いでやってきたのだろう。それだけ、大事だと言うことだ。

 受付を務めるメリッサがコップ一杯の水を差し出す。男は一息に飲み干し、口元を拭うとようやく言った。

 「国王が王都からの脱出を企んでいるらしい!」

 「なんだと⁉」

 「それも、よりによって南のコーラル領に逃げ延びる気でいるらしいんだ」

 「コーラル領だと? そいつはまずい……」

 サーブは端正たんせいな顔をうれいに曇らせた。

 「コーラル領。あそこはフィールナルでも最も大きく、最も豊かな領地のひとつだ。しかも、領主はアルフレッドの叔父おじに当たるエセルバード……」

 「ああ。エセルバードは昔からアルフレッドと仲が良かったらしいからな。アルフレッドが逃げ込めばきっと、かくまうだろう。そうなれば……」

 「手出しできなくなる、か」

 ギリッ、と、サーブは歯ぎしりした。

 コーラル領主エセルバード。

 現国王アルフレッドの父、先王の弟。アルフレッドの叔父。アルフレッド同様、まつりごとには興味をもたない質で、その点では『血は争えない』と言ったところである。ただし、ひたすら遊興ゆうきょうにふけるばかりのアルフレッドとはちがい、文化に対する造詣ぞうけいが非常に深く、文化振興のために様々な文化事業に投資してきた。そのため、コーラル領はフィールナル王国でも最も文化の発展した地域となっている。とくに毎日のようにオペラが公演される大劇場は有名で、その公演を目当てに訪れる他国の観光客も多い。

 さらにもうひとつ、エセルバードがアルフレッドと決定的にちがう点がある。

 エセルバードは自分が領主として向いていないことを自覚していた。そのために、その欠点をおぎなうべく、決して美女とは言えないが思慮しりょぶかく、内政に関する手腕をもつ妻を娶り、この妻に内政を任せていた。この妻と子供たちが堅実けんじつな領地経営を行っているためにコーラル領は政治的にも安定し、税収も豊か。治安も安定している。

 その結果としてエセルバード一家は領民からしたわれている。それは、王国全体が激しい動乱に見舞われているこの時代においてなお、領内での抗議活動や暴動がほとんど起きていないことからも知れる。

 現在のフィールナルにおいて安定を保っている、ほぼ唯一の領地と言っていい。軍事力も質量共に豊富であり。おそらくは、北の精兵たちに対抗しうる力をもつ唯一の領地である。もし、アルフレッドがそんな場所に逃げ込んだら……。

 「おれたちではとうてい、手が出せない。もし、無理に手を出そうとしたらコーラル領の民衆との争いになりかねない」

 もちろん、そんなことは望んでいないし、望んでもならない。

 相手はあくまでも遊興にふけり、政をかえりみず、国政を傾かせた国王アルフレッドなのだ。民衆同士の争いを繰り広げるなど愚の骨頂。アルフレッドを喜ばせる結果になるだけだ。

 さらにもうひとつ、アルフレッドがコーラル領に逃げ込むことを懸念けねんしなくてはならない理由がある。

 コーラル領は南方に位置する領地であり、その地理的条件及び領地の広さから幾つもの国と国境を接している。歴史的に幾度となく諸国からの侵入を受けてきた土地である。巨人族の侵攻を受ける北の領地と並んで精強な軍備を備えているのはそのためであり、その重要性から代々、王族に連なるものが領主を務めてきた。

 しかし、もし、いまの状況でアルフレッドがコーラル領に逃げ込んだとなれば別の可能性が出てくる。フィールナルに住むすべての人々にとって悪夢となりかねない可能性が……。

 「……多くの国と国境を接している。それはつまり、他国からの支援を受けやすいと言うことでもある。もし、アルフレッドが他国に支援を要請ようせいし、各国が承知したとしたら……」

 「そんなことになったら、他の国の軍勢が押し寄せてくるじゃないか! おれたちはどうなるんだ⁉」

 男が悲鳴をあげた。

 顔面が蒼白そうはくになっている。それは確かに全フィールナル人にとって青くなるに足りる危険だった。

 もし、アルフレッドが各国の支援を取り付け、権勢を取り戻すべく逆襲の転じたら……。

 各国の軍勢が押し寄せてきたら。

 他国の軍がフィールナル人の身命しんめいを気にするはずもない。フィールナルはたちまちのうちに虐殺ぎゃくさつの場となるだろう。

 「そんなことをさせるものか! ここはおれたちの国だ。おれたちの国を他国の軍勢なんかに踏みにじられてたまるか。すぐに王宮に向かうぞ! アルフレッドの逃亡をなんとしても阻止するんだ!」

 「おおっ!」

 サーブは男とふたり、駆け出そうとした。

 その背に向かい、メリッサが必死の声をかけた。

 「サーブ!」

 そう叫ぶ顔がいまにも泣き出しそうなほど不安に駆られている。

 サーブはそんなかの人を安心させようと優しく微笑んだ。そっと頬に手を置き、語りかける。

 「大丈夫。おれは必ず無事に戻ってくる。それまでまっていてくれ」

 そして、サーブは駆けていった。

 自分の戦場へと。


 王宮はすでに多くの市民によって囲まれていた。

 いち早く『国王逃亡!』の報を知り、阻止するためにやってきた……というわけではない。連日の抗議活動が今日も行われており、多くの市民が押し寄せていた、と言うことだ。

 「心配することはなかったかな? この様子じゃあ、こっそり王宮を抜け出そうなんて無理だろう」

 「いや……」

 男の言葉にサーブは首を横に振った。

 「たしかにまともな方法では脱出するなど不可能だろう。しかし、この王宮には非常用の脱出口が幾つもあると噂されている」

 「あ、ああ、その噂はおれも聞いたことがあるが……」

 「それに、アルフレッドは、いかがわしい仲間たちといかがわしい場所で遊びほうけるために王宮を抜け出すことで有名だからな。脱出方法に関しては熟知じゅくちしているはず。すでに、王宮を抜け出していると考えた方がいい」

 「じゃ、じゃあ、どうする⁉ もし、コーラル領に逃げ込まれたら……」

 「そうはさせない! やつにはこの事態を招いた責任を取らせる。逃がしたりするものか。いますぐ集められるだけの人を集めろ。伝令を送れ。コーラル領に向かう街道という街道すべてを見張り、見つけ出すんだ!」

 「わ、わかった……!」


 「いたか⁉」

 「いや、いない。ちくしょう、どこに行った⁉」

 「見つけた! 王家の紋章入りの馬車だ!」

 「いや、ちがう、こいつらはただの囮だ。本物はどこだ⁉」

 サーブとその仲間たちによる必死の捜索が行われた。賭け事と女遊びぐらいにしか興味のないはずのアルフレッドが行ったことにしては手際が良かったようで捜索は困難を極めた。とは言え、数では民衆の方が圧倒的に多いのだ。小道に裏道、忘れ去られた昔の街道。そんな、地元ならではの道にくわしいのも地元の人間。

 その無数の目から国王一行が逃れられるわけがなかった。

 「いたぞ、今度こそ本物だ!」

 「逃がすな、引っ捕らえろ!」

 封鎖網の一角で騒ぎが巻き起こった。

 サーブは急いでその場に駆けつけた。そこでは何百人もの民衆が一台の馬車を取り囲んでいた。決して、大きくもなければ、きらびやかでもない。もちろん、王家の紋章などはない。ごくありふれた大きさの、ごくありふれた型の馬車。だからこそ、ひっそりと逃げ出すためには最も適した馬車。

 その馬車の前に中年から初老しょろうにさしかかった年代の男が立っていた。他の同行者たちが皆、怯えた目をして震えているのに対し、この男だけは傲然ごうぜんと胸を張り、真っ向から民衆の群れを見返している。虚勢きょせいだとしても大したものと言えたかも知れない。

 サーブが男の前に姿を現わした。

 男は直感的にサーブを相手方の指導者と悟ったのだろう。ひときわ険しい視線でにらみ付けた。

 「なんのつもりだ⁉ さっさと退け。余は急いでいるのだ。きさまら下賤げせんな民衆などにかかずらわっているひまはない!」

 その下品きわまる罵声ばせいにサーブはいちいち反応したりはしなかった。じっと、静かな目で初老の男を見つめている。その視線にどれほどのものが込められているか。男にはとうていわかるはずもなかった。

 「どうだ、サーブ? 本当に本物か?」

 サーブの隣に立つ仲間がたずねた。

 政に関心をもたず、めったに民衆の前に姿を現わすことのなかった国王アルフレッドである。その顔を知る民衆は多くない。

 しかし、サーブは別だ。

 国内きっての大貴族として、王家お抱えの薬師くすしとして、王宮に出入りし、王族と関わることが当たり前だったカーディナル家。そのカーディナル家のフットマンとして仕えてきた男。そして、フットマンの主な役職とは主の乗る馬車に同行し、馬車の行く手を阻むあらゆる障害を取り除くこと。

 サーブにとって、主であるラベルナの乗る馬車に同行し、王宮に出入りすることは当たり前の仕事であり、日常だった。そのなかで、国王アルフレッドを直に見たことが何度もある。

 サーブは仲間の声にうなずいた。それはむしろ、自分自身に納得させるための動作だったように見えた。

 「……まちがいない。こいつがアルフレッドだ」

 初老の男はたちまち激高した。

 「呼び捨てだと⁉ きさま、余を誰だと思っておる⁉ フィールナル国王アルフレッドであるぞ! 『陛下』と呼ばんか!」

 身分を隠して逃げおおせようとしているときに自分から正体をばらしてどうする。

 おそらく、その場にいる誰もがそう思い、呆れたことだろう。この短慮たんりょさがアルフレッドという人間だった。

 サーブは一歩、前に進み出た。

 アルフレッドは風圧に押されたかのように仰け反った。

 サーブはアルフレッドよりも三〇歳以上も若く、しかも、その心身は日頃の鍛錬たんれんによって鍛えあげられていた。骨格の強さも、筋肉の量も、身体制御の能力においても、遊興にふけるばかりの自堕落じだらくな暮らしを送っているアルフレッドとは比較にもならない。

 サーブがその気になればアルフレッドの首などたやすく刈り取ることが出来る。果たして、サーブにその気はあったろうか。その瞳に宿るのはいかなる感情だっただろう。

 腰に差したカトラスに手はかけられていない。しかし――。

 だからと言って殺す意思がないと言うことにならない。

 サーブが一歩、前に進むと、アルフレッドは二歩、さがる。

 ドン、と、小さな音がしてそれ以上、さがれなくなった。

 馬車にぶつかったのだ。もはや、それ以上、さがれないことを知ってアルフレッドの顔に恐怖が浮かんだ。助けを求め、あちこちを見回した。しかし、その場にいるのはすべてが自分を憎む民衆の顔ばかり。助けなどどこにもいない……。

 「アルフレッド」

 もはや、当人はおろか『国王』という肩書きに対する仮の敬意すらも示さず、サーブは言った。

 「おれの顔を覚えているか?」

 「な、な、なに……?」

 「おれはサーブ。カーディナル家のフットマンだ」

 「カ、カーディナル家だと……?」

 「そうだ。きさまによってラベルナさまとユーマさまを追放され、すべてを奪われたカーディナル家の一員だ。」

 「い、一員だと? フットマンと言えば単なる雑用係の使用人ではないか。使用人の分際で貴族の一員などとおこがましい……」

 「そうだ。おれはたしかに使用人のひとりに過ぎない。だが、ラベルナさまも、先代のご当主夫妻も、おれのことをカーディナル家の一員として認め、遇してくださった。将来の執事としての地位も約束してくださっていた。貴族とは名ばかりの貧乏貴族の家の生まれに過ぎないこのおれをだ。カーディナル家でおれははじめて、誇りをもてる役割を与えられ、自分を誇れるようになった。カーディナル家はおれの人生そのものだ。そのカーディナル家をきさまは踏みにじった」

 「ヒッ……」

 ドン!

 改めて音が鳴った。恐怖に駆られ、後ずさったアルフレッドの背が馬車に当たったのだ。

 「それで、仇をとらないとなれば人の道に反しよう。さあ、どうする? 名誉を懸けておれと決闘するか? 姑息な小悪党のきさまにそれだけの度胸があるなら受けてやるぞ。実力によって生き残る機会をくれてやる。それとも……無数の手で八つ裂きにされるか?」

 サーブがアルフレッドに近づく。

 アルフレッドの顔が白くなっていき、その口が恐怖に押し広げられた。そのとき――。

 「サーブ、大変だ!」

 いくつもの足音と共にあわてた叫びが響いた。

 「騎兵隊が接近してきている! コーラル領の紋章を付けている、国王たちを迎えにきたんだ!」

 「なんだと⁉」

 その報に――。

 サーブは叫び、アルフレッドは起死きし回生かいせいの希望を見出した。

 「わはははは! 見たか、余は国王だ、国王たる余がきさまらごとき下賤げせんやからにどうこうされるなどあるものか。きさまらこそ叔父上の軍に八つ裂きにされるがいい! それがいやなら這いつくばって余のくつめろ! そうすれば命だけは助けてやるぞ!」

 「チッ……!」

 サーブは舌打ちした。

 瞬時しゅんじおのれのやるべきことを判断した。

 「その男を逃がすな、この場にとどめておけ! 騎兵隊はおれが食い止める!」

 そして、サーブ走り出した。

 騎兵隊の駆けつけてくる方角へと。


 この日の動乱は結局、国王、コーラル領兵、そして、民衆、三者すべてにとって痛み分けと言うべき結果に終わった。

 アルフレッドは身命こそは無事だったものの、コーラル領への逃亡は断念せざるを得ず、王宮に戻るしかなかった。

 コーラル領兵は一応、国王の身命を救う結果にはなったが、民衆の激しい抵抗に遭って国王を迎えるという使命を果たすことは出来なかった。

 そして、民衆は――。

 国王の逃亡を阻止するという目的は確かに達した。コーラル領兵も追い返した。しかし、おおきな代償だいしょうを支払うこととなった。

 騎兵隊との戦闘によって幾人いくにんもの死者が出た。そのなかには指導者的立場にあったフットマン、サーブも含まれていた。

 「サーブ!」

 運び込まれた遺体を前にメリッサは叫んだ。すがりついて泣き叫んだ。

 「……馬鹿者め。きさまが死んだら誰がわしの跡を継いでカーディナル家の執事を務めるのだ。この老いぼれより先に死ぬとは不幸者め」

 「恋人をおいて先に死ぬとは、最低の男ですね、あなたは」

 執事のグレックが、ハウスキーパーのシュレッサが口々に言う。

 そのあとには泣きじゃくるメリッサの声だけが響いていた。


 この一件を境に王宮とコーラル領の間には武装した民衆が壁を築き、王宮とコーラル領とは完全に断ち切られた。もはや、アルフレッドがエセルバードのもとに逃げ込むことも、エセルバードがアルフレッドを迎えることも不可能となった。

 一方、北からはザクセンスク辺境伯配下の精兵たちが怒濤どとうの勢いで南下をつづけていた。王都にその進軍を防ぐ力はなく、王都が制圧されるのは時間の問題と思われた。

 フィールナルの次の支配者はザクセンスク辺境伯だ。

 誰もがそう思っていた。

 だが、そのとき、誰もが想像してなかったことが起きた。

 ザクセンスク辺境伯の急死である。

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