第二部 北の王国篇

一四の扉 見下ろす一つ目

 風雪の大地。

 そこは、そう呼ぶしかない世界だった。

 大地は降り積もった雪に覆われ、白一色に染めあげられている。植物の緑はもちろん、大地の茶色さえ見えはしない。しかも、その雪は空から降ってくるのではなく、目の前から飛んでくる。そう。ほとんど水平と言っていい勢いで吹き飛んでくるのだ。それほどに、風が強い。

 フィールナル王国最北の領地、カウロン領である。

 「運が悪かったな」

 ラベルナとユーマ。

 ふたりのきょうだいをこの風雪の大地にまで運んできた護送船の船長は、ふたりを船から降ろすとそう言った。いつものように『囚人しゅうじん』を船から降ろすために鞭を振るって脅す必要はなかった。ラベルナもユーマも自分から船を降りたからだ。その堂々たる態度は絶対に追放刑に処された罪人のものではなかった。そのいさぎよい姿には船長も幾分かの敬意を感じていたようだった。

 その言葉もあざけっているのにはちがいないだろうが、幾分かは同情も混じっているように聞こえた。

 船長はつづけた。

 「この辺りは寒さは厳しいが、雪はそんなに多くない。これだけ激しい雪が降るのを見るのはおれもはじめてだ。よりによってはじめてきたときにこんな吹雪の日に当たるとはな。こいつが日頃の行いってやつかね」

 王家による喧伝を信じているのか、護送船の船長はそう言って小さく笑った。

 いずれにしても船長の役割はここまでだ。この風雪の大地に護送してきたきょうだいを降ろしたいま、もはや、やることはない。このまま船に戻り、フィールナル王国目指して出港する。ただ、それだけ。そのあと、ふたりがどうなろうと船長の知ったことではない。

 実際、船長は早く家に帰りたいだけだった。こんな仕事をしているとは言え、寒気に満ちたカウロン領にいたいわけではない。早く暖かい故郷に帰って暖炉だんろの前でブランデーを傾けたいのだ。

 船が波を裂いて走り出す。

 故国へ向かって。

 ラベルナはその船をずっと見つめているような、そんな無意味で感傷的なことはしなかった。すぐに船に背を向け、ユーマとふたり、吹雪のなかを力強く歩きはじめた。風雪の大地、カウロン領の内奥へと向かって。

 「さあ、行きますよ、ユーマ。わたしたちは生き延びる。そして、いつか必ずカーディナルの血はフィールナルの大地に戻るのです」

 「はい!」

 ユーマは小柄な体を精一杯、伸ばして力強く答えた。

 「どこに行くのです、姉上?」

 先にそう尋ねなかったのは、ラベルナの行くところならどこにでも行くという決意の表れ。どこに行こうとも必ず自分が守るとの覚悟ゆえだった。

 「とにかく、集落を見つけます。人の住んでいるところ。人がいればそこには必ず病人がいる。怪我人もいる。わたしは薬師くすし。人のいるところならどんなところでも役に立ち、自分の居場所を作ることができる」

 「このカウロン領には『一つ目巨人』と呼ばれる民族が住んでいるんでしたね」

 「ええ。『一つ目巨人』と言うのはただの通称で、本当に一つ目なわけではないけれど」

 「一つ目に見える独特の仮面を被っていることから言われる。その体格はフィールナル人の倍もあり、春から秋にかけてはトナカイの遊牧をして暮らしている。しかし、トナカイの餌となる草が少なくなる冬から春にかけてはフィールナル王国を襲撃して糧を得る……」

 「くわしいのね」

 ラベルナは正直、舌を巻く思いだった。

 ユーマか一つ目巨人族について何かを知っているなどとは思っていなかった。

 ユーマが無知だと思っていたわけではない。それが、フィールナル人の常識だったからだ。カウロン領に接する北方の民ならいざ知らず、それ以外の地域のフィールナル人にとって一つ目巨人族と言えば、伝説の魔物のようなもの。人間と言うより、物語のなかに出てくる妖精や魔物のように語られる存在なのだ。

 自然、その実体が語られることはなく、伝説めいた逸話いつわいろどられることになる。

 一つ目巨人族は人を食う。

 そんな噂などは伝説の典型と言えるだろう。

 それだけに、一つ目巨人族を『人間として』語るユーマの姿は意外だった。

 「この地に送られると知って、調べてきましたから」

 調べてきましたから。

 こともなげにそう言うユーマを、ラベルナは思わず見直した。

 ユーマはそんな姉に向かって真剣きわまる表情と口調で言った。

 「姉上。私もカーディナル家の血筋として薬草や薬については学んできました。決して、姉上おひとりにご苦労をかけはしません。必ず、役に立ってみせます」

 そう語る表情はすでに一〇歳の少年のものではなかった。

 守るべきものをもつ一人前の男の顔だった。

 その顔を見てラベルナは自分がユーマを見損なっていたことを知った。

 病弱でか弱い弟。

 その思い込みがあったから気が付かなかったのか。

 ユーマはたしかに体は小さいし、体力も低いかも知れない。だけど、こんなにも強靱な意志と知性をもつ立派な男ではないか。

 あの、いつも病気で寝込んでいた病弱な弟がいつの間にかこんなにもたくましく、雄々しく育っていた。

 ラベルナは、そのことに今のいままで気付けなかった自分の不明を恥じた。同時に、弟をこんなにもたくましい男に育ててくれたアンバー子爵夫妻に限りない感謝を捧げた。

 ラベルナは弟に、いや、自分を守ろうとする若き騎士に向かってうなずいて見せた。

 「ええ。頼りにしているわ、ユーマ」

 「はい!」


 ふたりは歩く。

 歩きつづける。

 吹雪は一向に止む気配がない。そのなかをただひたすらに歩きつづける。少しでも暖がとれるよう、お互いの体温で暖まれるよう、ぴったりと寄り添って。それでも――。

 吹き付ける風と雪はふたりの体温を容赦なく奪っていく。

 その雪もフィールナルで降るような柔らかくてフワフワしたものではない。もっと固く凍り付いた、氷の粒と言った方がいいようなものだ。それがものすごい風に乗って飛んでくる。その勢いで氷の粒が当たると、まるで頬がやすりにかけられているかのような気がする。いつまでもこうして歩いていれば全身、皮をむかれ、白骨になっているかも知れない。

 ――いえ。その前に寒さで死ぬことになるわけだけど。

 いかに強靱な意志をもつラベルナと言えどそう思わざるを得ない。

 こうして弟とふたり、ぴったり寄り添って歩いていても体はどんどんと冷えていく。そもそも、こんな極寒の地を進むための服装などしていない。ごく普通の、フィールナル王国の町を歩く服装とかわりないのだ。そんなものでこの吹雪から身を守れるはずがない。

 特にひどいことになっているのが靴だ。

 雪のなかをかき分ける靴はすでにぐしょぐしょに濡れている。どこかに干しておけばボタボタと滝のように水が落ちることだろう。その水が足を濡らし、体を冷やす。感覚を麻痺させていく。冷たささえ感じなくなった足を雪から引き抜き、無理やりなように進んでいく。

 生きるために。

 生き延びるために。

 そして、いつか、カーディナルの血をフィールナルの大地に戻す。

 ただ、それだけのために、ふたりのきょうだいは互いの体を抱きかかえるようにして歩きつづける。

 どこに向かっているのかわからない。

 そもそも、どこに向かえばいいのかもわからない。

 一面が白に覆われた世界では方角などわからない。

 どこにも、なんの目印もない。

 せめて、星が出ていれば星座によって方角ぐらいはわかるかも知れない。しかし、この吹雪のなかで光り輝き、道標みちしるべになってくれる星などあるはずもない。空はどんよりとした鉛色におおわれ、なんの指標しひょうも指し示してはくれない。

 いったい、自分たちはどこをどう歩いているのか。

 ちゃんとまっすぐに進んでいるのか。同じ所をグルグルと回っているだけではないのか。

 人は道に迷うと無意識のうちに同じ所をグルグル回りはじめ、抜け出せなくなる。

 そう聞いたことがある。

 もし、この風雪の大地でそんなことになったら――。

 さしものラベルナにとっても考えたくもない恐ろしい状況だった。

 もし、ひとりきりならあまりの恐ろしさに発狂していたかも知れない。ラベルナをギリギリのところで支えていたもの。それは、弟の存在。自分にぴったりと寄り添い、共に歩きつづける存在。その身から伝わる、わずかばかりのぬくもりだった。

 ――例え、わたしが死んでも弟だけは生かしてみせる。

 そう思った。

 それから、愕然がくぜんとした。

 ――わたしは死んでも? なにを言っているの! わたしはこんなところで死ぬわけにはいかない。わたしたちは、わたしとユーマはふたりとも生き残る。そして、この北の地にカーディナルの血を残す。いつか、いつか必ずフィールナルの大地に戻る。そのために。

 「わたしたちは生き延びるのよ、ユーマ」

 姉の言葉に幼い弟は寒さに凍える声で、それでも、精一杯の力強さを込めて答えた。

 「もちろんです、姉上。カーディナル家の誇りはこんな吹雪などには負けません」

 「ええ。その通りよ」

 「必ず帰りましょう、姉上。フィールナルの大地に。ふたり一緒に」

 「ええ。ふたり一緒に」

 そして、ふたりは歩く。

 歩きつづける。

 互いの存在とその体から伝えられるわずかなぬくもり。

 それだけを支えにして。

 しかし――。

 容赦ようしゃない自然の猛威の前にはそんな誇りも覚悟も無意味に思えた。無数に飛び交う氷の粒の前には互いのぬくもりなどあまりにも非力だった。

 体は冷え切り、もはや寒いとさえ感じない。

 疲れと寒さとで意識が消えていく。

 いつか、ふたりとも雪のなかに倒れ込んでいた。それでも、二本の足だけはもぞもぞと雪のなかで動いている。朦朧もうろうとした意識では自分が倒れていることにも気付けず、歩きつづけているつもりなのだ。

 そんなふたりの体の上に雪はどんどん積もっていく。

 このままなら雪に埋まれ、誰にも見つからないまま凍死するのは目に見えていた。

 もう間もなく、その運命が現実のものとなる。

 そのわずか前。

 ふたりを見下ろす影があった。

 長いたてがみに包まれた巨大な一つ目……。

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