二の扉 裏切りの婚約者
カーディナル家の屋敷のなかを使用人たちが走り回っている。
あるものは荷物を運び、あるものはノートとペンをもって駆けまわり、またあるものは次々と訪れる来客の相手をし……。
休んでいる暇とてない。すべての使用人がひとり残らずいそがしく立ち働いている。
矢継ぎ早に繰り出される若き女主人の指示に応えるためにてんやわんやなのだ。
「薬品の材料は絶対に切らさないように。薬草類はいつもの業者から買うだけでなく、他の仕入れ先も探しておきなさい。フラスコなどの器具類と消毒用のアルコールも忘れないように。清潔な布とガーゼ、湯を沸かすための燃料、それに、薬を保管するための用器も。それから、この屋敷以外のすべての財産は現金に換えて、この屋敷に運び入れなさい。この屋敷にあるすべての調度品もその価値を調べ、いつでも換金できるようにしておくのです」
ラベルナは一刻も休むことなく、指示を下しつづける。
――必要とあれば傭兵を雇えるように。
その最後の一言はさすがに呑み込んだけれど。
「でも、ラベルナさま」
幾つもの指示を受けててんやわんやのなか、侍女のメリッサがラベルナに尋ねた。
「ここまでなさるなんて……やっぱり、戦になるのですか?」
まだ一〇代の、少女と言ってもいいほどの侍女は不安そうに尋ねた。
数ある使用人のなかでも侍女は特別な存在だと言っていい。他のいかなる使用人からも指示を受けず、監督もされず、雑用をすることもない。また、部下をもつこともない。ただ、ひたすらに女主人に仕え、その側にあり、世話役を務める。それが侍女。使用人と言うよりはコンパニオンと言うべき立場であり、一対一のパートナーと言ってもいい。
メリッサは格の面でも、財力の面でも乏しい下級貴族の出身である。下級貴族の娘が上流階級のマナーを学び、また、よりよい結婚相手との出会いを夢見て上級貴族の貴婦人の侍女となることはよくあることだ。
メリッサもそうだった。
貧しい下級貴族の父親が、フィールナルきっての大貴族であるカーディナル家とのつながりを求めて娘を紹介した。数ある使用人のなかでも侍女だけは女主人が自らが選ぶのが慣例なので、ラベルナが直接、メリッサと面談した。そして、その素直な気性がラベルナの気に入り、侍女として採用された。
以来、メリッサはラベルナにとって申し分のないコンパニオン役を果たしつづけている。
ラベルナは、かわいい侍女を安心させるために優しく微笑んだ。
「だいじょうぶよ、メリッサ。これはあくまで万が一の用心。アルフォンス殿下もお覚悟を決めてくださいました。殿下から
「……本当にだいじょうぶでしょうか? アルフォンス殿下はその少々、ああいうお方ですし。本当にお覚悟を決められるかどうか」
「そこを支えるのが妻たるわたしの役目です」
敬愛する女主人にそう断言されて、メリッサはパアッと表情を明るくした。
「そうですよね、ラベルナさまがついていらっしゃるんですもの。だいじょうぶですよね!」
「ええ。だから、安心して仕事に励んで」
「はい!」
「おい、メリッサ。こっちを手伝ってくれ。皆、手一杯なんだ」
フットマンのサーブが声をかけてきた。
メリッサはあわてて答えた。
「は~い! それじゃラベルナさま、行ってきます!」
「ええ、お願い」
「はい!」
そして、夜更け。
ようやく、一日の仕事を終え、ラベルナは私室に戻った。
「……ふう」
たったひとり、お気に入りのハーブティーを前に席に座り、息をつく。
王太子の婚約者でもない、公爵家の当主でもない、ひとりの若い女性へと戻れるほんの短いひととき。だが――。
その表情には深刻な陰が被さっていた。
メリッサに語ったほど事態は簡単なものではない。
そのことは誰よりもラベルナ自身がよくわかっていた。
民衆の怒りと王家への不信はすでに危険水域を越えてしまっている。いまさら、王がかわったからと言って新しい王を信用し、すんなり話し合いに応じることなどないだろう。そもそも、現王アルフレッドが禅譲を承知するかどうかも疑わしい。
アルフレッドは遊興の徒であり、政務にはまったく興味がなく、ひたすら娯楽にふけってきた。しかし、権勢欲だけは人一倍強い。立太子も自分からは行わず、まわりからせっつかれて嫌々、行ったほど。アルフォンスがなかなか王太子として正式に認められなかったのはそれが原因だ。もし、アルフレッドがあくまでも禅譲を拒んだときは――。
――戦になるかも知れない。
ラベルナにはその可能性がはっきりと見えている。
もちろん、王都を舞台に国王と王太子が王位を懸けて争う、そんな事態を招くわけにはいかない。父と子が王位を巡って血で血を洗うなど酸鼻に過ぎる。なにより、巻き込まれる民衆たちが気の毒だ。かと言って、このままアルフレッドが王位に就いたままでいればいずれ、民衆との間に内戦が勃発することだろう。それを防ぐためにはアルフレッドに抵抗を諦めさせ、退位させるだけの圧倒的な兵力が必要だ。そのためには軍に根回しして味方に付け、傭兵団を雇い入れる算段を付け……。
やるべきことは山ほどある。
資金もいくらでも必要だ。
代々、薬師として国と民に尽くしてきた癒やしの一族として、人々が傷ついたときの備えとして充分な医薬品も調合しておかなくてはならないし……。
「……はあ」
やるべきことの多さを考えるとラベルナも思わず目眩がする。
なにより、王太子である婚約者アルフォンスの性格が心配だ。
「アルフォンス殿下は決して悪い人物ではない。暗愚というわけでもない。でも……あまりにも気が弱すぎる。他人に流されすぎる。あの方に父王を説得することが出来るだろうか……」
そう言ってからラベルナは首を左右に振った。
「……いいえ。それを支えるのが妻たるわたしの役目。代々、王家に仕え、守ってきたカーディナル家の
ラベルナは壁に掛けられた一枚の絵に視線を向けた。
そこには少女時代のラベルナとその両親、そして、年の離れた弟が描かれている。
ラベルナの両親は共に優れた薬師だった。代々、人々の身命を救ってきたカーディナル家の当主としての誇りを胸に、その役割を果たしてきた。しかし――。
三年前、帰らぬ人となった。
馬車で移動中、崖崩れに巻き込まれ、大量の土砂に呑まれ、死亡したのだ。
とくに大雨が降ったとかもなく、それまでに大きな土砂崩れの発生したことのない場所であったことから、カーディナル家の権勢を
遊興の徒であるアルフレッドにとっては貴族同士の勢力争いに首を突っ込むなど面倒くさいだけ、そんな時間があったら博打にうつつを抜かしていたい。
それが本音だったにちがいない。
ともあれ、両親が亡くなったことで、ラベルナが若くして公爵位を継ぎ、カーディナル家の当主となった。
真相を究明するべく、努力はした。
しかし、新当主としてやるべきことが山のようにある身では事件の捜査などしていられるわけもない。他人に依頼しようにも、そのために使える資金は限られている。
カーディナル家の財は豊かだが、それはあくまでも王家と人々の身命を守るために使われるべきもの。それ以外の目的のために使うことはカーディナル家当主としての矜持が許さない。結局、三年たったいまも真相は不明のまま……。
ラベルナの視線が絵のなかのもっとも幼い生命、年の離れた弟に移った。
「……ユーマ」
愛情を込めて弟の名を呼んだ。
ユーマは生来、病弱な質だった。そのために、王都を離れ、適した環境に恵まれた地方領主のもとへと養子に出された。ラベルナと両親とは年に一度はユーマのもとを訪れ、世話を焼き、薬を調合した。
カーディナル家の秘伝の薬の効果と優しい養父母の愛情を一身に受けて、ユーマは年々、丈夫になっていった。いつも青い顔でベッドに寝たきりだったユーマ。そのユーマが少年らしく外で跳びはることができるようになる姿を見るのはラベルナにとって大きな喜びだった。最近では乗馬もできるようになったらしい。産まれたばかりの仔馬をもらい、大喜びで世話をしているそうだ。
「……あのユーマが、自分で他の生き物の世話をすることができるぐらい丈夫になったのね」
生まれたときには『三歳まで生きられるかどうか……』と言われていたユーマ。
三歳のときには『五歳までは生きられないだろう』と言われたユーマ。
そのユーマもすでに一〇歳。
病弱だったせいで体付きこそ女の子のように小さく、ほっそりとはしているが、外を飛び歩き、動物の世話が出来る立派な少年となった。
それは、ラベルナにとってなによりも嬉しいことだった。
「……ユーマ。今年は会いに行けそうにないけど、でも、どうか健康でいて。何かあったらすぐに伝えて。あなたに何かあれば、何があろうとすぐに飛んでいくから」
ラベルナはようやく心の安寧を得た。
そのときだ。
突然、玄関の方で大きく、乱暴な音がした。つづいてメリッサの悲鳴。
「な、なんですか、あなたたちは。ここは……キャアッ!」
その悲鳴につづくはドカドカと屋敷内に乱入する
「何事⁉」
ラベルナは跳びあがった。
いったい、何が起きたのか。
とにかく、大変なことが起こったことだけはまちがいない。ラベルナは部屋の外に飛び出した。そして、見た。何十人という王国兵が剣を抜いて迫ってくる姿を。
メリッサやサーブ、主立った使用人たちはすでに剣を突きつけられて壁際に並ばされており、身動きひとつできない状態に追い込まれていた。
「何事です、無礼な! そのものたちをすぐに解放しなさい!」
ラベルナは何十人という兵を前にしても臆することはなかった。
カーディナル家のひとりとして常に毅然とした態度でいなくてはならない。
幼い頃からのその教えを忠実に守りつづけた。本来であれば――。
その一喝によって無礼な乱入者たちはおとなしくなるはずだった。フィールナル王国きっての大貴族カーディナル。代々、王家の身命を守ってきた一族としてその権勢と名声は国内に並ぶものがない。その威光の前には王国兵など、ひれ伏すしかない。
そのはずだった。しかし――。
「いたぞ、反逆者だ!」
王国兵の口から飛び出したのは、あるまじきその一言だった。
「反逆者……⁉」
さすがのラベルナがオウム返しに声をあげることしできなかった。それほどに意外な一言だった。
「どういうことです、わたしが反逆者とは! 我がカーディナル家は代々、王家に仕え……」
「黙れ! きさまが王太子殿下をそそのかし、王位を狙ったことはわかっている!」
「それは……」
すべては国民の未来のため。
そう説明しようとしたラベルナの言葉は途中で止まった。
それを見たからだ。
王国兵に囲まれて青ざめた表情を浮かべている男。
自身の婚約者であり、未来の夫である男。
王太子アルフォンスの姿を。
アルフォンスはいまにも心臓発作を起こしそうな表情でラベルナに指を突きつけると叫んだ。
「こ、この女だ! この女が私に薬を盛り、陛下を
その言葉につづき――。
王国兵たちが乱暴にラベルナを取り押さえた。
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