第39話 予言者

 東日本大震災。

 それは、2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震に端を発する一連の災害を指す名称だ。

 三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震は、巨大津波を発生させ、さらに各地に液状化現象や地盤沈下を引き起こし、インフラや建造物に甚大じんだいな被害を及ぼした。人的被害の点では、2万人以上の死者及び行方不明者を出し、これは戦後最大の被害規模である。さらに福島では原子力発電所のメルトダウンが起き、世界中のエネルギー行政にまで大きな影響を与えた。

 幸太自身、あの日のことは忘れもしない。

 Take1では、大学の合格発表があった次の日で、幸太は安心感と解放感から、昼まで寝ていた。ようやく起き出してから、寝起きの軽食を用意しているところへ、ちょうど地震が襲った。

 自宅のある国分寺市は東京都内で最も地盤が強固であり、家屋も鉄筋コンクリート造の頑丈なもので、地震対策で食器棚や家具の固定も用意周到にしてあったから被害はほぼ皆無かいむだったが、体験したことのない大きな揺れに、幸太も母親とダイニングテーブルの下にもぐり込んで、長い長い揺れに寿命の縮む思いで耐えたのをよく覚えている。

 父は勤務先である飯田橋のオフィスビルの23階、姉は暇を持て余し新宿の商業ビル7階を一人でほっつき歩いている最中に、地震にった。いわゆる海溝型地震による長周期地震動は、震源から離れた東京都心の高層ビル上層階に対してより強力に働くから、地盤の強い地域の低層家屋にいた幸太が感じた揺れとは、比較にならないくらい大きかっただろう。

 徒歩でなんとか自宅にたどり着いた父や姉から、現場の揺れやパニックの状況を聞いて、幸太も怖気おぞけをふるったものだ。

 個人の体験としても、あるいは社会全体の経験としても、未曽有みぞうの大災害だった。

 この1年弱、幸太はTake1と比較して多くのギャップを体感している。美咲との関係やその進学先のように、自分自身の力の及ぶ範囲で歴史を変えたこともそうだが、明らかにそうでない部分もある。例えば政治や経済などといったレベルでも、微妙な違いが生じている。

 以前から考えていたように、幸太自身の動向の変化とは関わりなく、世界全体、歴史全体がTake2を演じているらしい。そのなかで幸太が特別なのは、彼だけがTake1の記憶を引き継いでいる、という点だろう。

 ただ、世界が新たな歴史を生み出しつつあるときでも、天体の運行という規模で見た場合に、あの地震は高い信頼性をもって、同じ日の同じ時間に再現されるのではないか。地球が何年後の何月何日に太陽系のどこに位置しているのか、正確に予測できるのと同じ理屈だ。

 念のため、幸太はこの1ヶ月間をさかのぼって、東日本における地震の発生状況を調査した。案の定、東北地方を中心に断続的な地震が起きている。巨大地震の前震、と考えていいかもしれない。

 3月11日。

 というと、今が3月4日の金曜日だから、ちょうど1週間後ということになる。

 あと、7日間しかない。

 (あんな大災害が起こるってことを、なんで今まで忘れていたんだ)

 幸太は自分の愚鈍ぐどんさが腹立たしかった。

 しかし、それどころではない。

 どうするべきか。

 それを思った。

 まず考えたのは美咲のことだ。

 当日は美咲の希望で、昼から幸太の家に呼ぶことになっている。幸太の両親や姉に会うためだ。

 (日をずらした方がいいだろうか……)

 美咲のことを考えれば、彼女にはその時間、自宅にいてもらうのが一番いい。お義母かあさんは専業主婦だし、家族と一緒にいられるのが最も安全で、安心だ。

 だが。

 (俺が、美咲を守りたい)

 と、幸太はそう思った。あれほどの地震だ。たとえ安全な自宅にいても、美咲の心には恐怖が爪痕つめあとを残すだろう。

 そのようなとき、自分がそばにいたい。自分の手で守りたい。

 それが単なるエゴイズムであり、自己満足であることは、幸太には分かっていた。本当に美咲を大切に想うなら、予定を一度キャンセルして、彼女には当日、自宅にいてもらうように誘導するのが最善の選択ということになる。

 幸太は迷い、すでに夜も深まっていたが、美咲に電話をした。

『もしもし、コータ?』

『あぁ……起きてた?』

『うん、起きてたよ』

『ごめんね、こんな夜遅くに』

『ううん、遠慮しないで。どうしたの? またさびしくなって、私の声聞きたくなった?』

『うん、まぁそんなとこ』

『コータはさびしがりやだね』

『美咲の声は、世界中のどんな音楽よりも美しいよ』

『あははっ、相変わらずの褒め上手だね!』

『いや、俺は本気で言ってるよ』

『うふふ、分かってるよ。今日はありがとう』

『うん、お義父とうさんに分かってもらえてよかった。ふたりの初めての旅行、きっと大切な思い出になるよ』

『そうだね。私、コータと過ごした時間は全部、大切な思い出だもん』

『俺だって、同じだよ』

 電話口に美咲の甘い微笑みを感じつつ、幸太はそういえば、とややぎこちなく、唐突とうとつに話題を変えた。

『そういえばさ、11日、うちに遊びに来るでしょ』

『うん』

『その……なんでその日にしたのかなって』

『その日は予定がないのと、あとはただなんとなくだよ。もしかして都合、悪くなっちゃった?』

『いや、そういうわけじゃないよ。その日で大丈夫!』

『ありがとう。ご挨拶、緊張するけど、楽しみにしてるね』

『うん、俺も楽しみにしてる。旅行の準備はできてるから、安心してね』

 と、そこまでで会話は終わってしまった。

 携帯電話をぽん、とベッドの上に放り投げつつ、幸太は腕を組み、うなだれた。

 (予定通りにいってみるか……)

 一緒にいるときに地震に襲われたら、自分が命に替えても美咲を守る。ただ、それが幸太の自宅であればまず間違いなく安全だ。そのあとは、恐らく徒歩であれば2時間以上はかかるが、彼が美咲の家まで無事に送っていけばいい。

 父親は飯田橋から国分寺まで歩いて帰るのは大変だろうが、これは幸太が予言者の真似事でもしないかぎりは仕方がない。Take1ではケガもなく帰ってきたことだし、今回もオフィスビルの中にいるなら安全と言っていいだろう。姉の幸美ゆきみも、

「マシュマロちゃんに会えるの楽しみ」

 と言ってその日は自宅にいる予定だし、母親ともども、心配はいらない。

 幸太は1週間後に予想される地震に備え、保存食料や懐中電灯、救急キット、折り畳み傘などを用意して、念のため旅行にも携行することにした。

 地震は突然に起きるからこそ危険で恐ろしいものだが、1週間後に発生すると分かりながら過ごすのも、不安で落ち着かない。

 しかしまぁ、そうした一抹いちまつの不安はありつつも、まずは目の前の旅行を美咲とふたり、思いきり楽しもう。

 そう、無理やりにでも気持ちを切り替える幸太だった。

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