第5話 ラブ・ストーリーは突然に?
(後ろの方から、近づいてみよう)
幸太は直線的に近寄るのを避け、ぐるりと大きく迂回して、視界の外から距離を縮めていった。
サックスの音が、徐々に大きくなってくるのにつれて、幸太の心拍も騒がしく高まっていった。内面は30歳とはいえ、初恋の人と接するとなるとやはり平静ではいられない。
(俺は30歳。恋愛だってそれなりに経験を積んだ。戦闘力に直せばまぁ53万くらいはある。戦闘力53万だ、恐れるな。それに相手は高校生じゃないか……!)
自慢ではないが、幸太はいわゆるロリコンではない。未成年の高校生など、彼から見れば乳臭いガキだ。緊張することなどない。
と思えば思うほど、吐き気をもよおすほどの緊張が襲ってくる。
歩数にしてあと10歩ほど、というところまで近づいて、幸太は足を止めた。ここで演奏に一区切りがつくのを待つというわけだ。
(うまいな……)
一瞬、幸太は緊張を忘れて、サックスの奏でる
美しい。
それに、後ろから見る彼女の立ち姿も、実に絵になる。右に左に、前に後ろに、しきりと体重移動をしながら演奏に熱を込めている姿には、幸太がかつて美咲に感じていたそれとは一味違った、
演奏が終わったときには、幸太の緊張はかえって不思議な落ち着きを得ていた。
「ラブ・ストーリーは突然に」
突然、背後に声を聞いて、美咲が大きく目を広げて振り返った。幸太は意識せず、微笑んでいた。美咲も、幸太につられて微笑んだ。
「知ってるんだ」
「俺の好きな曲だよ」
「私も!」
美咲はまるで花火が散るような鮮やかさでぱっと目を輝かせた。
(素直で純粋な、いい子だな……)
しみじみとそう感じる幸太に、美咲は明るい声で尋ねた。
「早川君、ここでなにしてるの?」
「君に会いに来たんだよ」
とは、まさか言えない。いずれ言うことがあるとしても、今ではない。
「散歩だよ」
「あははっ、そうなんだぁ。お散歩は楽しいですかぁ?」
「楽しいよ。こういう偶然もあるし」
「ほんと、偶然だね!」
美咲は
「松永は、いつもここで演奏してるの?」
「うん、よく来るよ。早川君も?」
「俺は、たまにね」
毎週水曜日の放課後に来る、と言ってしまえば、勘のいい美咲はその意味に気づくかもしれない。これも今、言葉にすべきことではないだろう。
高校生活はまだ1年ある。焦る必要はない。
「あのさ」
「うん」
「もう一回、同じ曲吹いてくれるかな?」
通して聞いてみたい、と言うと、美咲は無邪気に喜んだ様子だった。
実際には、幸太の言葉には重要な部分が欠けている。単に演奏を聞きたいんじゃない、その演奏のあいだ、初恋の人をはばかることなく見つめ続けるという権利を得たいのだ。その権利こそが、今の幸太が手にしうる最上の幸福を約束してくれるに違いない。
「じゃあリクエストにお応えして、早川君のためだけに吹いてあげる!」
幸太は樹の根元に座り、美咲は向き合うようにして演奏を始めた。
(松永が、俺のためだけに、こんなに近くで……)
目の前で吹かれるサックスの迫力を感じながら、幸太はまばたきさえ忘れて、美咲の姿に見入った。脳裏に焼きついて離れなくなるまで見入った。天使に魅せられた人間のように。
美咲は本当に、この曲を愛しているのだろう。
特にサビに入ったときの訴えかけるような情熱的な音圧に、幸太はともすれば圧倒され、感動を覚えた。
自然と、歌詞を口ずさんでいた。
あの日、あの時、あの場所が、今まさにこの時間ということに、いつかなるのだろうか。
そうしたい、いや必ずそうする、と幸太は唇を動かしながら決意していた。
美咲への想いが胸のうちで急激に膨らみ、彼の魂を揺さぶっている。
ノリよく
「ありがとう、最後まで聞いてくれて。退屈じゃなかった?」
「いや、最高だったよ、ほんとに」
「早川君、歌ってくれてたもんね」
「あれ、気づいた?」
「演奏者は、観客がよく見えるの。あ、あの人、楽しんでくれてるなって」
「俺の気持ちも分かった?」
「うん、真っ正面から音を受け取ってくれて、聞き入ってくれてた」
「感動したよ。それに」
「それに?」
(君のことが、もっと好きになったよ)
「……いや、ほんとに感動した、とにかく感動したよ!」
「そう、うれしいよ。ありがとう」
まぶしそうな笑顔を向け、美咲は自然と、話を続けた。
「ほんとはね、この曲、みんなで吹きたいんだ。同じ曲でも、一人とグループで演奏するのは、全然違うんだよ」
「大勢でやるのも聞いてみたいな」
「そうでしょ。夏の定期か、秋の文化祭でやってみたいんだ。でも、一番やってみたいのは別の曲なんだよ」
「なんて曲?」
「それは内緒」
内緒にするのは、幸太に対して他意があるからではないらしい。それは彼女の表情を見れば分かる。
美咲にとって、よほど大切な曲だからだろう。
美咲はスカートが汚れないよう、自分のバッグの上に座った。
「早川君は、サッカー部だったんだっけ。ほかに趣味とかあるの?」
「サッカーは、2年かぎりでやめて、今は……」
この頃の自分は何をしていたろう、と幸太は記憶をさかのぼった。母親が言っていたように、毎晩テレビを見たり、ゲームをしたりして、時間をつぶしていたのかもしれない。
「今は、散歩が趣味かな」
「お散歩、楽しいよね」
くすくす、と美咲は笑った。嫌味のない、上品で音楽的な響きを持った笑い声だった。
「そういえば、早川君て英語が得意だったの?」
「いや、普通じゃないかな」
「でも、昨日、おばば先生に上手に返せてたでしょ」
そりゃあ商社で働いてて、海外駐在も経験したんだから、多少は英語ができないと務まらない。あの程度は日常英会話としてはごく初歩の初歩で、彼が普通と言ったのは、商社マンとしては普通のレベルだということだ。
「私、英語が苦手だから、うらやましい」
「実践では、無理に完成された文章にしようとする必要はなくて、知ってる単語を並べればだいたい伝わるよ。向こうでは、とにかく伝えようとする意志と、あとは表情とかジェスチャーが重要だね」
「テストもうまくいく?」
「それは……」
違う。日本の学校における一般的な英語教育では、会話、コミュニケーションの成立という点にまったく重きが置かれていない。中高少なくとも6年間の英語教育を受けておきながら、向こうの小学生レベルの英会話さえままならない人が大勢いるのが実状だ。四年生大学を卒業して英語がまともに話せない海外出身者を、幸太は日本人以外にほとんど見たことがない。
「テストや受験は違うかな。ただ、ポイントさえ押さえれば、なんとかなると思うよ」
「すごいね」
頼もしい、とでも言いたげに、美咲は微笑んだ。
笑顔が多い女性は、素敵だ。どれほど手の込んだメイクよりも、その人を美しく魅力的な存在にする。
「それじゃあ、またね」
「うん」
幸太は立ち上がり、軽く手を上げた。
もちろん、美咲ともっと話していたい気持ちは強い。だが、チャンスを活かそうとするあまり、焦りや
何事も、引き際が
「演奏、聞かせてくれてありがとう。また聞かせてよ」
「うん、また明日ね」
美咲も今度は、意外な顔を見せなかった。
幸太は後ろ髪を引かれる思いをようやく制しつつ、背中を見せて去った。
少し歩き、後ろからまたサックスの音が聞こえてきた。
一度だけ振り返ると、美咲はただ懸命に音と向き合っている。
自分を気にかけない寂しさより、そのひたむきな姿にあたたかい想いを抱きつつ、幸太は充実感と幸福感でいっぱいの帰路に就いた。
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