第三部 森の神篇
一四章
――そこで、わたしの目に付いたわけね。
わたしは納得した。
そういう事情なら、こんな無力な女の子がひとり、危険な森のなかをうろついていたのもわかる。それにしても、こんな小さな女の子が早くに親を亡くして、牢獄のような場所で奴隷労働させられていたなんて……。
――かわいそうに。
わたしはそう思った。
わたしの毛に必死にしがみつくタラの気持ちがわかる気がした。
わたしのなかでタラに対する愛情がふつふつとわき起こってくるのを感じた。
――守ってあげたい。幸せにしてあげたい。
どうしようもないほど強く、そう思った。
それが果たして親としての愛情なのか、友としての思いなのか、それとも、恋愛感情なのか――。
そのときのわたしにはわからなかったけれど。
それでも、とにかく、わたしはタラに対してはっきりとした愛情を感じていた。
――だいじょうぶよ、タラ。これからはわたしが守ってあげる。
そう。いまのわたしにはタラを守る力がある。
いまのわたしはか弱い女子大生だった
――タラを守ることが出来るなら。
この獣の体のままでいい。
そう思った。
そう思ったそのときこそ――。
春賀ゆうきと熊の魂が本当にひとつになったときだった。
そう。わたしはそのとき春賀ゆうきという人間の殻を完全に捨て去り、森の神となったのだ。
一五章
次の日からわたしはタラを連れて森のなかを巡り歩いた。
森で生きる術を何ひとつ知らないタラのために、すべてを教えた。
食べられる草や木の実の見分け方、
獲物の取り方、
避けるべき相手、
身の守り方……。
それらのすべてをわたしはタラに教え込んだ。
そして、何よりも重要な森の掟について語った。
――タラ。森の掟は共存にある。では、共存とはなに? それは棲み分けること。森のなかの鳥たちを見て。姿形も、大きさも、似たような鳥たちが大勢いる。それでも、その鳥たちは一種いっしゅちがう生き物。決して、同じひとつの生き物になったりしない。
――なぜ、そんなことができると思う? それこそが棲み分け。ある鳥は朝に活動し、またある鳥は昼に活動し、そしてまた、ちがう鳥は晩に活動する。朝に活動する鳥でも、ある鳥は上空を舞い、またある鳥は中空を飛び、そしてまた、ちがう鳥は下層に生きる。同じ上空を飛ぶ鳥のなかでも木の実を食べる鳥、虫を食べる鳥、より小さい他の鳥を食べる鳥……様々に自分なりの生き方を持ち、ちがう生き方をしている。だからこそ、森には数多くの種族が生きられる。
――そして、それこそが人間が森の生き物でいられない理由。すべての生き物のなかで人間だけが自分の分を守ろうとしない。あらゆる時間に活動し、あらゆる場所で暮らし、あらゆるものを食べる。人間のやり方ではどんなに豊かな森でもただ一種の、同じ生き物しか生きられなくなってしまう。人間の過ちはそこにある。人間は『共存』という言葉の意味を誤解している。森における共存とは『一緒に棲む』ことではない。『一緒に棲まなくていいよう棲み分ける』こと。
――人間はその精神を失ったために森の生き物ではいられなくなった。タラ。あなたがもし本当に森で生きることを望むなら、森の掟を身につけなくてはならない。自らの分を守り、限られた時間、限られた場所、限られた資源のみを利用することで他の生き物の分を残しておかなければならない。それができないなら、タラ。わたしはあなたを森から追放しなくてはならない。
一六章
森は秋が深まりつつあった。
緑の葉は赤や黄色に染まり、豊かな実りをもたらしはじめた。
でも、同時に長く厳しい冬の訪れも近づきつつあった。わたしはタラが冬越しできるようにドングリを集め、果実を乾燥させた。魚や肉をとってきては
でも、問題は服。ただでさえタラはごく薄い奴隷用の服しか着ていなかった。ここしばらくの森での暮らしでさらに薄くなり、あちこちすり切れている。厚い皮下脂肪ももたず、長い毛も生やしていない人間は自らの体で寒さに耐える力はない。この服のままではタラは冬の寒さに耐えられず、死んでしまうだろう。タラのために冬越し用の衣服を用意する必要があった。
とは言え、どうしたものか。
まさか、わたしが人間の町まで服を買いに行くわけにはいかないし……。
すると、タラの方から提案してきた。
「あなたの毛を使って服を作りたい」
――わたしの毛を使って?
「うん、そう。あなたの毛はとっても長くて、ふかふかで、暖かいもの。あなたの毛をもらえれば冬越し用の立派な服を作れるよ」
なるほど。
たしかにタラの言うとおり、わたしには地面にまで届くほどの長い毛がある。タラの小さな身を包むためには充分すぎるほどの量の毛がとれる。
――いいわ。わたしの毛を使って、あなたの服を作りなさい。
「うん!」
タラはさっそくわたしの毛を刈り取り、束にして、服を作りはじめた。服と言ってもそれは本当にわたしの毛を束ねただけの簡単なもの。昔で言う『
「えへへ、おそろいだね」
はしゃぎながらそう言うタラに対しわたしは――。
たまらないほどの愛情を感じていた。
一七章
冬がやってきた。
木々の葉は落ち、動物たちは姿を消し、寒風が吹きすさぶ。
わたしとタラはその冬の間、深い洞窟のなかに籠もって過ごした。洞窟のなかで焚き火を焚き、わたしの毛を束ねて作った服を着て、わたしの体にくるまれて眠る。
タラはそんな暮らしを繰り返した。
――でも、このままではよくない。
わたしはそう思った。
いくらタラが森の生き物になったからと言っても人間は人間。やはり、人間には人間の仲間が必要。もっと成長すればつがう相手も必要となる。それに、洞窟暮らしというのもまずい。わたしとはちがい、人間は洞窟のなかで地べたに直接、触れて生きるようにはできていない。タラにはやはりきちんとした人間用の住居が必要だ。
――春にになったらタラのために家を作ってあげないと。それに、できることなら人間の仲間も。とは言え、森で生きるからには人間であろうと森の掟を遵守させなければならない。それができるだけの人間が果たして見つかるかどうか。森を壊すような人間なら、絶対に受け入れるわけにはいかない。
一八章
そして、春となった。
森は新しい葉に覆われ、そこかしこに新しい生命が生まれ、生命の息吹が充ち満ちた。
タラは洞窟のなかを飛び出すと大喜びで春の森のなかを駆け巡った。やはり、洞窟のこもっての暮らしは辛いものだったようだ。その喜びようを見ていると、わたしまですっかり嬉しくなってしまった。
わたしとタラが一緒になって、森のなかを駆けまわった。
春の喜びを満喫した。
驚いたことに、春の訪れと共にわたしの乳房からは乳がほとばしるようになった。タラと過ごすことで母性を刺激されたのだろうか。タラは毎日、わたしの乳を搾り、チーズを作った。毎日まいにちたっぷりのチーズと木の実、肉を食べて、栄養不良で貧弱だったタラの体は見るみる育っていった。
一九章
タラに異変が起こった。
ものを食べなくなった。あれほど好きだった木の実も口にしようとしない。食べるものと言えばわたしの乳で作ったチーズだけ。それだけでは人間が健康に生きるための栄養が足りない。丈夫になっていたはずのタラの体はまたもとの貧弱な体に戻りつつあった。
――何があったの? どうして、ものを食べないの?
わたしは尋ねた。
タラの答えは予想外のものだった。
「他の生き物を食べるのが辛いの」
タラはこの森に来て、森のなかで生きる喜びを知った。それは、それまでの人の世での暮らしよりずっと幸せなものだった。タラはこの森に来て幸福になった。そのタラにとって、森のなかの生き物はすべてが友だちだった。鳥や獣たちだけではない。木の実や草にいたるまで、森に生きるすべてがタラの友だちだった。
その友だちを食べるのが辛い。
タラはそう言ったのだ。
わたしはタラに伝えた。
――タラ。あなたをある場所に連れて行くわ。
二〇章
そこはこの世ではない場所。
とは言え、いわゆる『あの世』でもない。
その境にある幽冥の世界、夢の時間。
わたしはその世界にタラを連れて行った。
そこにはすべての生き物がいた。鳥も、獣も、虫も、植物たちも、すべての生き物がいた。そして、そのすべての生き物が人の姿で暮らしていた。それぞれが家族をもち、人と同じように暮らしていた。
「さあ、
わたしはその世界の住人たちに問うた。
ひとりの男が名乗りをあげた。
「自分が行こう。あの恐狼一家はきちんともてなしてくれるからな」
「よかろう。行くがよい」
「おう」
そう言った男は兎の毛皮をまとい、恐狼一家のもとへと向かった。腹を空かせた恐狼たちに己を食わせ、糧とさせるために。
――いい、タラ。これがこの世界の真実。奪われる生命なんてない。すべての生命は自ら己の血肉を与えるために他の生命のもとへと向かう。そして、充分にもてなされることで満足して帰ってくる。魂は再生し、また再び他の生命に食われに行く。誰をどの生命のもとへと送るか。それを割り振るのが森の神たるわたしの役割。
――人間も例外ではない。本来は人間もこの世界の住人であり、他の生命のために自らの血肉を差し出していた。でも、あるときから人間は自分の血肉を捧げることを拒否するようになった。あらゆる生き物のなかで人間だけが他の生き物の血肉を食らいながら、自らの血肉を提供することをしなくなった。これはまさに生き物の掟を踏みにじる行為。だからこそ、人間はこの世界の住人ではいられなくなった。
――だけど、タラ。この世界の住人は本来の在り方を忘れたわけではない。充分にもてなしてくれさえすれば人間のもとであろうと喜んで己の血肉を分けに行く。だから、タラ。他の生き物を食べることを気に病む必要はない。ただ、その生き物は自分のきょうだいであることをわきまえ、充分にもてなせば良い。それで魂はこの世界に戻り、再生するのだから。
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