10.
「こんにちは。……髪、切ってみたんだけどどう?」
何してんだ俺は。言ってすぐ、後悔するけどもう遅い。たかが髪を切ったからって、なんでこう気持ちが大きくなっているのか。
ばあちゃんについて行った床屋は、生活感の漂う、でも小綺麗な店だった。ばあちゃんが、ばあちゃんの友達(多分七十オーバー)に散髪してもらってる間、俺はその娘(といっても多分五十オーバーのおばちゃん)に切ってもらった。
坊主は嫌だ、変なふうにはしないでくれという俺の雑な注文にもかかわらず、それなりに似合うように切ってくれた。それを大袈裟に褒めるババァたちはとても鬱陶しかったが、俺も悪くないと思った。
「こんなに短くするの、久しぶりだけどスッキリしたよ。あ、赤マルひとつ」
不意に目が合った。いつもは俺のことなんて見ようとしない美咲と、目が合った。
「あ……。やっぱ、変、かな」
「似合ってる、と、思う」
すぐに目線を伏せてしまう美咲。
「あ、ありがとう」
声が裏返りそうだ。なんでこんなに緊張してんだ俺は。
美咲から返事が返ってくることを期待した問いだったのに、返ってきたら返ってきたで動揺するとは。いつもは何を言っても返事がないから、心の準備なんてまるでできてなかった。
自分を落ち着けるべく、煙草に火を点ける。煙の混じった呼吸をひとつ、ふたつ。
「そういや、昨日、ばあちゃんに教えてくれたんだってな。なんか、心配かけてごめん。ありがとう」
本当はこれが言いたかった。でももう照れ臭すぎて、俺も美咲の方を見れない。商店街の向こう側を眺めながら、煙草を吸い続けるしかなかった。
「うん、よかった。……よかった」
美咲のか細い声が、風の隙間に聞こえてきた。その声が、本当にホッとしたような、心から思っているような、そんなふうに聞こえてドキッとした。
「美咲は、海、見に行くのか? 昨日海に行ったけど、俺にとっては新鮮でさ。あ、地元民には当たり前、か?」
「あ……、私、地元民じゃない、けど、たまに行く、かな……」
「地元じゃないのか。そっか、じゃあ見に行く? ほら、海の側の方が、涼しいだろ。もう夏だし、暑いし。今日、チャリもらったし」
「あ、ありがとう。……でも、今日はいけない……ごめんね」
「謝ることないだろ。また今度、行こうか」
「うん……」
美咲と会話が成立していることに、なぜだか感動していた。いつも俺が話して終わるだけの、一方通行な時間だったのに。
美咲はてっきり地元民だと思っていた。俺みたいに、預けられたのか? 夏休みで遊びに来てるだけか? というか、俺、デートに誘ってるみたいになってないか?
色々考えていたら余計に気持ちが上擦って、煙草にむせた。
「だ、大丈夫……?」
げほごほと盛大に咳き込んでると、美咲がそう言ってきた。涙目になりながら美咲を見ると、また目が合った。
「だい、大丈夫」
深呼吸ひとつめ。はあ。ださいところを見られてしまった。
深呼吸ふたつめ。夜が近づいて来たからか、潮の匂いが濃くなった気がした。
深呼吸みっつめ。らしくないことしてる。でも俺らしいってなんだっけ。いいや、煙草吸おう。
「大丈夫。ありがとう、心配かけてばっかりだな」
もう笑って誤魔化すしかなかった。
「ううん、よかった」
「じゃあ、煙草吸い終わったし、行くわ」
美咲はコクンと頷いた。
「優斗、くんの話、楽しいから、またね」
美咲がもじもじと言った。恥ずかしそうな美咲の姿より、俺の方がずっと恥ずかしかった。あの俺の、話とも言えない話、あれを聞いていたのか。え、今までの、全部? さむい自分語りばかり、なのに。
「じゃあな」
あまりにもどうしようもなくなって、俺は急いでチャリを漕ぎだした。古いチャリのペダルは重かった。でもこの重さが、今はちょうどよかった。恥ずかしさやどうしようもなさを全力で踏みつけた。
美咲のいる煙草屋がどんどん遠ざかる。海が近づいて、潮の匂いがもっと濃くなる。夕暮れはゆっくりと、でも確実に夜を連れて来る。俺は力いっぱいペダルを漕ぎ続けた。
頬に当たる風が心地よかった。こんな田舎で、東京とは比べ物にならないくらい不便で、金もないし遊ぶ場所もないけど、チャリ一つでこんなに自由を感じる。俺は何にも縛られていなかった。
ふと小学生の頃を思い出す。初めて自転車に乗れた時、どこまでも行けるような錯覚を覚えた。急に開けた世界はどこまでも広く、その片隅に俺もようやく立てたような気がした。そんな世界を歩くよりもずっと速く、自分の意志でどこへだって行けることが嬉しくて仕方なかった。
「懐かし」
呟いてから、息が上がってることに気がついた。全力で漕ぎすぎたか、それとも運動不足が祟ったか。
ようやく見えてきたコンビニの明かりは、ぼやけたオレンジ色の街灯とは違い、近未来的な白い明るさだった。
「涼しー」
冷房の効いた空気が、火照った身体を冷ましていく。
久しぶりのコンビニは、情報の渦だった。見たことのない、新商品のお菓子やジュースが並び、どれも目新しく新鮮だった。たかがコンビニひとつで、冒険した気になる。
レジ向こうには今まで諦めていたアメスピも売っていた。さっき赤マルを買ったばかりだけど、アメスピの味が少し恋しくなってビールと一緒に購入した。
プシュッ―――。
グビッと飲んでから、チャリも飲酒運転になるのか?と一瞬頭をかすめた。最悪押して帰ればいいか。喉が渇いていたのにまかせて、飲んでいく。強めの炭酸が喉にヒリヒリとした刺激を残していく。
俺がビールなんて買うとは。久しぶりのアルコールは、今までで一番美味く感じた。ただ喉が渇いていただけかもしれない。だけど東京の路上でちびちびやっていたのとはまるで違う美味さを感じた。
そのままアメスピの封を切り、火を点ける。赤マルと比べると淡白で軽い煙が肺を満たしていく。少しクラッとするけど、気持ちがよかった。
これが気持ちよく酔う、ってことなんだろうか。
ぼおっと味わっているとアメスピの臭いが、東京で自堕落な生活をしていた頃をありありと蘇らせた。昼も夜もないゲーセンの薄暗い中、煙草と安い香水と一定の温度で満たされた、刺激に溢れすぎて刺激のない空間。
懐かしさと寂しさ。満たされていない寂しさを思い出して懐かしむということは、俺は今、満たされているということなんだろうか。
一人ぼっちで、田舎のコンビニの真ん前で、汗をかきながら缶ビールと煙草を手にしている。耳には車の走行音と、すぐそばに打ち寄せる波の音。東京では絶対にあり得ないことだらけだ。
ぼんやりとしている間にあっという間にビールを飲み切ってしまった。コンビニ外に置いてあるゴミ箱に空き缶を投げ入れ、短くなった煙草をもみ消した。
「酔った、か?」
自分でわからず、その場でジャンプしてみる。うん、大丈夫そう。コンビニの周りをぐるっと一周歩いてみる。フラつかないし、多分、大丈夫。
『はい、坂本ですが』
「あ、ばあちゃん? 俺俺、優斗」
『新手の詐欺かい? もっと上手くやんないとあたしは騙せないよ』
「孫の声も忘れたのかよ。じゃなくて。今コンビニにいるんだけど、なんか買うもんある?」
『別になんもいらんよ。夕ご飯になるからそろそろ帰っといで』
「あ、じゃあアイス、アイス買っていくよ。何味がいい?」
『コンビニは遠いんだから溶けちまうだろ。余計なことはいいから。気をつけて帰って来るんだよ』
「なんだよ、もう。はい、わかったよー」
スマホをポケットにしまいながら、俺はもう一度コンビニの中に入った。
ばあちゃんが何味のアイスが好きか、俺は知らない。年寄りって、かき氷みたいな、練乳とかあずきとかのアイスをよく食ってる気がする。でもばあちゃんは『こんな年寄り臭いもん食えるか』とか言いそうだ。
悩んだ挙句、俺はハーゲンダッツの抹茶とバニラを手に取ってレジに向かった。
お高いアイスだから金のない俺には痛い出費だ。だけどたまにはこんなことに使ったっていいじゃないか。
さて、ここからは時間との勝負だ。ママチャリの前かごにアイスをそっと置き、俺は全速力でばあちゃんの待つ家に帰った。
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