8.
「ちよさん、居っけ~? こんな時間で悪いんだけんど」
「あら、寺田さんじゃないの、お茶でも飲んでって。優斗、お茶の用意してくれる」
「あ、はい」
台所に行って、午前中買って来た新しいお菓子を菓子器に入れ、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐ。その間、明け放した窓から吹いてくるうっすらとしょっぱい匂いの風が、海辺の夕暮れが近いことを知らせて来る。
茶の間に座る客人とばあちゃんに、用意したものを出しに行くと二人はもう会話を始めていた。
「いやあ、おかげさまで引っ越せたんです」
「そいつはよかったよ」
「息子の世話になるなんて、嫁さんにも申し訳ないし嫌だったけど、思ったよりもよくしてくれて」
「何よりじゃないか。これからもその気持ち、忘れんようにしないとね」
「いや、まったく、ほんとうに」
またこの話か。最近になって引っ越し報告が多くなってきた。一軒また一軒と、無人の家が増えていくこの場所で、ばあちゃんは相変わらず客人を迎え続けている。ばあちゃん自身も、いつかは引っ越さなくちゃいけないだろうに、いつ引っ越すんだろう。
それにしても感謝の報告に訪れる人達の多いこと。ばあちゃんって、実は結構すごい人なのかな。いつかのカラオケで、賢三さんと呼ばれたじいちゃんが言ってた言葉が思い出される。
「……あ」
この手の話はいつも長くかかる。だからゆっくり煙草を吸う時間にしているのだけど、いつの間にか切らしてしまった。
「ばあちゃん、ごめん。ちょっと煙草買ってくる」
「遅くならないようにね」
ハイハイと聞き流しながら玄関を出た。
ばあちゃんはいつもそうだった。俺が家を出る時は『まっすぐ帰って来るんだよ』とか『遅くならないようにね』とか言ってくる。小学生じゃあるまいし、何をそんなに心配することがあるのだろう。
俺だってもう二十歳だし、煙草も酒も合法だし、男だし、別に何も心配することないと思うんだけどな。
「赤マルひとつ」
美咲が店番をする煙草屋で、いつもの通りに煙草を買う。
「今日はこんな時間にさ、お客さん来てんだ。珍しいよな。夜なんか、みんな早く寝ちまう田舎なのに」
煙草のフィルムを丁寧に向きながら、虚空に向かって俺は話し始めた。
「また立ち退きの話で、引っ越せたってやつだった。うちのばあちゃんはいつになったら引っ越すんだろうな」
美咲からの返事はない。そもそも聞いているのかどうかも怪しい。
それでも、俺はいつからか日課のように、ここに来るとブツブツとこうしたデカい独り言を呟くようになってしまった。
「なんかさ、みんな帰る場所があっていいよな」
煙草の煙を吸っては吐き出す。海からの風に運ばれて、すぐに煙は掻き消えていく。
「俺、東京の友達に通話かけたんだけど、あいつらにとって、俺はどうでもいい存在だったらしい」
こんなこと、話すつもりじゃなかったのに。
そう思っているのに、なぜだか口から言葉がこぼれていく。
「何回か、かけたんだ。何回目かに、繋がらなくなってて、多分着拒された。面倒くさいことから逃げて寄り集まった、ラクな関係だったから、俺のことが面倒になったんだと思う」
落ち着けるために煙草を深く吸い込む。むせそうになるけど、ぐっとこらえて細く長く吐き出した。
「馬鹿だよな。何してんだろうな」
魚が、酸素を求めて口を開けたり閉じたりするのは、こういう時なのかもしれない。
「はは、ほんと、何してんだろう俺。……今日は海まで散歩でもするかな」
まだ半分くらい長さの残る煙草を咥えて、美咲に視線を移した。美咲はじっと灰皿のあたりを見つめていて、俺と目が合うことはなかった。やっぱり聞いてるのかどうか、よくわからない。
「じゃ」
俺は短く告げると、煙草を吸いながら海を目指した。
海へと続く平らな道を歩いているのは俺くらいのもので、人っ子一人出会わない。時折追い越していく車が、正面から吹いてくる潮風を逆に吹かせたりする。
気の早いヒグラシが鳴き始めている。もう夏が近づいてて、そういえば俺がここに来た時は桜とか、よくわからないけど花が咲いてた頃だったと気がつく。
煙を空に吐くために上を向けば、いつの間にか辺りは赤い光を帯びて来て、訳もなく悲しいような寂しいような気持ちになって来る。
「こっちは夕日がないのか」
フィルターの焼ける臭いがする頃、海に辿り着いた。砂浜じゃなく、コンクリートで整えられた防波堤。その向こうに岩がぽつぽつと転がっている。夕日は、海と反対側の山の向こうへと消えていくのを、俺は今頃気がついた。もうここに住んで、三ヶ月くらい経つっていうのに。
そのまま、防波堤沿いを理由もなく歩いてみる。ばあちゃんちからどんどん遠ざかる。山に夕日が飲み込まれていく。
「あー……。ほんと、何してんだ俺」
どうしようもなくなってまた煙草を取り出した。海の側の風は強く、なかなか火が点かなかった。
やっとのことで煙を吸い込むと、潮の味がハッキリと感じられた。辺りは夜がどんどん近づいて暗くなっている。等間隔に設置されたオレンジ色の街灯がぽつりぽつりと灯っていく。
帰らないと。
そう思うのに、帰りたくなかった。
なんだよ、俺。思春期の反抗期みたいなことして。
なんで、こんなことしてるのか、自分でもよくわからなかった。
見えていた地平線がどんどんぼやけて、空との境界線が曖昧になっていく。視界の明度は下がっていくのに、波の寄せる大きな音だけはずっと変わらずに響いていた。
「おーい、優斗かー?」
不意に名前を呼ばれた。振り返ると、路肩に寄せた軽トラから、賢三さんがこっちを見ていた。
「おめー、こんなところで何してんだ」
「あ、うん、海見てた」
「ほおか。綺麗だったか?」
「多分」
「ん。んだら、ばあちゃん心配してっから帰るぞ」
「うん」
俺は火の消えた煙草を海に投げ飛ばした。
「何してんだ、早く乗れ」
「う、うん」
賢三さんの軽トラは車体のところどころが錆びて赤茶けていた。助手席のドアを開けると、汗と煙草の臭いがした。
「なんで賢三さん、ここに」
「まあ誰だって海を見たくなることも、あるよな」
「…………」
「他に行くとこもねえし、ここらに来るしかないよな」
時速四十キロくらいで走る賢三さんの軽トラは遅かった。でも、歩くよりもずっと速くばあちゃんちは近づいて来た。
「年寄りをあんまり心配させんじゃねえぞ。びっくりして、ぽっくり逝っちまうかもしれねえかんな」
笑えない冗談なのに、がははと笑いながら賢三さんは言った。
「若いから、一人になりたくなることもあらあな。でも、帰る場所があんだから夜は帰った方がいいぞ」
「…………」
もうばあちゃんちは目の前だった。
「ここでいいです」
「ダメだ。連れて行かねえと俺がちよさんに怒られちまう」
そう言って角を曲がって、ばあちゃんちが見えた。
ばあちゃんは家の前の道路に出て、俺たちのことを見ていた。
「海眺めてたんだと」
「悪かったねえ、すまなかったねえ」
「いいってことよ。んじゃな」
排ガスの臭いをまき散らしながら、賢三さんは帰って行った。
「言うことは?」
「……すみませんでした」
「何がだい」
「…………」
「そういう時は、ただいまって言うんだよ」
そう言うと、ばあちゃんは俺をそっと抱きしめた。小さなばあちゃんの身体に収まりきるはずもないのに、節ばった腕を一生懸命に広げて、精一杯俺を抱きしめてくれた。
「……ただいま」
「うん、おかえり。さ、ご飯を食べようか」
「……うん」
ばあちゃんの家は明るかった。でも眩しくない。俺を迎え入れるために、そこで光ってる気さえしてしまう。
「ごめん、ばあちゃん。心配かけた。賢三さんにも、迷惑かけた」
「ん、わかってたのかい。進歩だね」
からからと笑うばあちゃんは、俺を振り返りもせずに家の中へと入って行く。
「美咲ちゃんが教えてくれたんだよ。優斗が、海に行ったってね」
「え……」
「美咲ちゃんも心配してたからね、明日にでもまた顔見せに行くといいよ」
「そう、なんだ」
じんわりと、胸の辺りが温かかった。同時に目頭にも熱が移った。
「ほら、ご飯が冷めちゃうよ。早く手を洗っておいで」
未だ玄関に立ち尽くす俺に、ばあちゃんは台所から声を張り上げた。俺はゲンコツで目をこすってから、やっとばあちゃんの家へと上がった。
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